PARCIC

ベイルート大規模爆発被災者支援

爆発事故で破壊された歴史的建造物を修復しています

1. レバノンの状況アップデート

2021年後半のレバノンは、「シリア難民への教育支援事業 アルサールの学校でコロナ対策をやっています」でも述べた通り、経済・社会状況がますます悪化した時期でした。

貨幣価値が暴落、レバノンポンドで支払われる給与価値も合わせて暴落し、最低賃金の実質的価値はこの2年間で月額450米ドルから実質30米ドル弱になった一方、財政破綻したレバノン政府は物価上昇を抑制するための補助金をどんどんカットし、物価はうなぎのぼり。燃料が輸入できず、電気や車用燃料が不足・高騰、医薬品は手に入りません。通りを歩いても、タクシーに乗っても、聞こえてくるのはこうした話ばかり。

シリア難民の9割が、「生きるのに最低限必要な支出(SMEB)」以下で暮らし、レバノン人ですら、2021年3月時点で既に78%が貧困ライン以下で生活し、過去30日間で子どもが食事をとることができなかった日があった世帯が4月に37%であったものが、10月には53%まで上昇しています[1]

さらにこの年末からレバノンでもオミクロン株が確認され、新規感染者数が2,000人前後から過去最高の7,000人以上にまで急上昇[2]し、再度厳しいロックダウンがかかるかの瀬戸際の状況です。

2020年8月4日にベイルート港で発生した大規模爆発ですが、今でも爆発地点は、破壊されたサイロなど、ほぼそのままの状況で放置されています。200人以上が亡くなり、首都のインフラに大きなダメージを与えた爆発の責任の所在は未だに明らかになっておらず、事故原因の調査・裁判が、国内の政治団体間の緊張を高め、2021年10月にはベイルート市街地での銃撃戦にまで発展[3]しました。

2. 歴史的建造物補修事業に参加

大規模爆発が政治問題化されてしまう一方で、パルシックはレバノン人の共通の歴史遺産でありながら大規模爆発で破壊された首都ベイルートの歴史的建造物の補修事業に参加しています。

さて、突然ですが、ベイルートがどのように発展していったか、ご存じでしょうか。

レバノン人に彼らのアイデンティティを聞くと、「レバノン人」や「アラブ人」という回答と同じくらい多いのが「フェニキア人」です。実際、現代のレバノンの領域には、紀元前12世紀にはシドン(現在のサイダー)、ティルス(現在のティーレまたはスール)といったフェニキア人の都市国家が繁栄していましたが、1800年頃までのベイルートは、防御壁で囲われた人口5千人以下の意外と小さな町でした。しかし、19世紀前半から、オスマン帝国の近代化(タンジマート)に伴って整備されたベイルート港や、そのベイルートからシリア、イラク、イラン等をつないだ鉄道網等を通した貿易によって発展していきます[4]ヨーロッパとの交易ではベイルート港からは特に蚕の繭や絹がフランスのマルセイユに輸出され、海運輸送の基礎を作る契機となり、さらにレバノン初の銀行や金融取引所の設立につながっていきました[5]

こうして財を成した人々により、近辺の石切り場から運んできた石を積み上げた土着の建築様式に、オスマン帝国風のアーチ、イタリア風の窓の装飾、フランスの大理石の床材、イギリスの鉄製の柵等を組み合わせてベイルートスタイルの豪邸が作られていきました。そうした様式をベースに、レバノンの建物は徐々に、現代よく見られるような建築へと変化していきました。

日本では爆発の威力ばかりが取り上げられ、あまり詳しいことは報道されていませんが、まさにそうした歴史の中で紡がれてきた多くの文化遺産的建造物が、大きな被害を受けたのです。

19世紀にたてられたベイルーティハウス(手前の青色)、1930年台に建てられたとみられるアパート(その左後ろ)、21世紀にたてられたとみられる高層マンション(左奥)

さらに、レバノンでは爆発以前より、歴史的建造物の経年劣化や、1975年から1990年にかけて起きたレバノン内戦による破壊、その後の不動産ブームの中での歴史的建造物取り壊しと高層ビル建設という乱開発が問題となっていました。 短期的な経済的効率性の視点から見れば、それは正解なのかもしれませんが、特に多様な人々が住むレバノンにとって、地域の歴史や文化の記憶を守り、アイデンティティを形成するものとしての歴史的建造物や景観の歴史的、社会的、文化的価値は、大きいと言えます。実際、多くのNGOや国連により、ダメージを受けた歴史的建造物を補修し保全しようという動きが爆発発生後に活発化しています。

放置されたことによる経年劣化と大規模爆発でダメージを受けたレバニーズハウス。保全・管理するNGOが決まり、ずいぶん前からそのロゴの入った横断幕が掲げられているが、2021年12月末時点ではまだ補修は開始されていなかった

その一環で、2021年、国際連合人間居住計画(UN Habitat)が、在レバノン日本大使館の資金を受け、爆発地点から1km弱にあるルメイル(RMEIL)地区内の建物群等の文化財的建物群の補修事業を開始しました。そしてパルシックもその事業の一部を担っています。

事業地は赤のピンがたっている場所。爆発地点から800mほど

この地域は、ベイルートと北部の都市トリポリを結ぶ道沿いにあり、現在はおしゃれなカフェやバー、レストラン、昔からある雑貨店、住居等が立ち並ぶような地域です。対象の建物は、19世紀半ばから1930年頃に建てられ、爆発があった時には、住居やレストランとして使われていました。

パルシックの事業では、100人の人たちにこの補修事業に参加してもらっています。冒頭に述べた通り、レバノンに住む多くの人びとは、シリア人、レバノン人、パレスチナ人等、国籍に関わらず経済的に疲弊し、貧困状態に置かれています。経済危機により仕事の機会が減少し、レバノンポンドの暴落による給与の目減りと物価高騰に苦しんでいます。そのような人たちに労働の機会を提供し、少額ではありますが価値変動の小さい米ドルで支払いを行うことにより、比較的安心して働くことができるよう工夫しています。

現在、パルシックが参加している事業で修復工事が行われている建物をご紹介しましょう。

立派なレバニーズハウス。特徴的な3つのアーチは、窓、壁、屋根が破壊されていることがわかる。内部も壁や床等、傷みが激しい

1930年頃の初期のレバニーズハウスと現代建築の間の移行期に作られたアパート用住居。右奥には、爆発地点の目の前に立つ国営のレバノン電力のビルが見える

3つのアーチの窓と広いバルコニーが特徴的な建物。1階のおしゃれなレストランは爆発後に復活したが、上層階の補修が必要

この事業は20222月までを予定しています。事業終了後、建物がどうなったか、お見せできればと思います。

[1]UNICEF “VIOLENT BEGINNINGS: Children growing up in Lebanon’s crisis December 2021” 2021年12月
[2]Republic of Lebaon Ministry Of Public Health “Monitoring of COVID-19 Infection In Lebanon – 6/1/2022” 2022年1月6日
[3]AL-MONITOR “Six killed in shooting at Hezbollah protest over Beirut explosion probe” 2021年10月14日
[4]Beirut Heritage Initiative “Introduction to the Beiruti Houses: 1860 – 1925, Fadlallah Dagher” 2021年7月30日
[5]The Silk Museum “History of Silk The origins of silk and its Introduction to the Middle East” 2021年1月9日アクセス

(レバノン事務所 風間)

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