PARCIC

緊急対応:避難所への物資配布(2011年3月~5月)

30日東京事務所で打ち合わせ、31日被災地へ向けて出発しました。まずは情報収集から始め、物資調達をしながら東松島市を目指しました。毎日変わっていく細かなニーズにできる限り対応するため、パルシック現場スタッフ+多くのボランティア、被災地内外の協力者、パートナー団体、東京事務所が連携し合い、日々寝る間も惜しんで活動を展開しました。

支援活動を振り返って

地震発生

3月11日の地震発生時、私はスリランカのコロンボというところにいました。3時間半時差があるため、スリランカに一報が伝えられたのはちょうどお昼前位だったかと思います。「大規模な地震」「津波も発生しているらしい」スリランカ人からその様な連絡を受けてウェブを確認したのですが、その時はまだその被害の全貌について 全くメディアも掴めていない状況でした。そのため、それほどたいしたことないかなと、また仕事を進めていました。結局、こちらで被害の全体像が少しずつ分かり始めたのが翌日12日からだったと記憶しています。その後、数日間はウェブのニュースにくぎ付けになり、被災地域にいたと思われる友人たちの安否確認を必死にしていました。スリランカからは“なにもできない”というもどかしさを強く感じた日々でもありました。ちょうどその頃、パルシック東京事務所のスタッフたちもスリランカへ来ており、「何か支援を行うのであれば是非参加したいので声をかけてほしい」と話をしたのを覚えています。スリランカ側での事業も年度末を迎えて決して暇な時ではなかったのですが、もうその時は“心ここにあらず”という状況でした。その後、パルシックが災害支援を行うことを決めたのを受けて、ドタバタと準備を行い、29日の夜に日本に到着、30日東京事務所で打ち合わせ、31日被災地へ向けて出発という運びになりました。

被災地へ

31日は、私と一緒に支援活動に参加した三上氏、村山氏と共にハイエースに乗り込み一路新潟を目指しました。断片的に入ってきた情報では、被災地では物資調達も難しい、燃料も手に入らないというものでしたので、先ずは比較的物資が残っているという新潟に入り調達を行うとともに、すでに被災地に行ったことのある知人が山形県小国町にいたため、そこで情報収集するつもりでその様なルートを選びました。車の中ではずっと携帯とパソコンを手に情報を集めていました。

小国の方の紹介で、IVY(国際ボランティアセンター山形)の方とも電話で話し「今どんな状況で何が必要か」ということを聞かせて頂き、そこで「長靴と下着が必要!」というリクエストがあり、長靴を探し求めて新潟市内のホームセンターを周りました。大量の長靴・下着を購入できる場所は少なく、それらを揃えるのに結局数時間かかり、小国にたどり着いたのはすっかり夜遅くになってしまいました。4月1日、IVYの方と合流し東松島市を目指しました。被災地はすでに“超緊急事態”を抜け出している様子でしたが、支援が十分行き渡っている感じではありませんでした。すでに、支援の偏りが出ているなというのが最初の印象で、「さてどうやって手をつけるか・・・」と正直悩みました。しかし考えている暇もなかったため、先ずは物理的な僻地を目指し、南三陸、気仙沼の避難所や在宅避難者の所へ足を運び、様々な物資を配布しました。当時はまだ寒い日も多く、雪がちらつく時もありました。泊まる所もなく、テント泊を覚悟で動いていたのですが、立ち寄った岩盤浴施設のおじさんが「休憩所で寝てもいいよ」と場所を提供してくれたこともありました。避難所でも、少し遅い時間帯にたどり着いた時には、「ここで寝て行きなさい」と言われたこともありました。そして「配給のご飯が余っているから食べて行きなさい!」とご飯を頂いたことも何度となくありました。

日々変わるニーズ

毎日変わっていく細かなニーズにできる限り対応するため、パルシック現場スタッフ8名+多くのボランティア、被災地内外の協力者、パートナー団体、東京事務所が連携し合い、日々寝る間も惜しんで活動を展開しました。5月中旬には、物理的にアクセスも難しい“僻地”のギャップが少しずつ解消しつつあったため、都市部で支援を受けられていない人たちへの支援に力を入れました。

1階は大破している自宅の2階で、ロウソクの明かりを頼りに生活していた人びとにはソーラー式電灯を配布し、市からの食料配給を知らずに自宅の2階で厳しい生活を送っていた老夫婦には近くの配給所を紹介しました。また、要介護の方の面倒を見なくてはならず、家の片づけが進まなかったお宅へ片づけボランティアを派遣し、母子家庭のお母さんへ、新しい仕事を見つけるために必要といわれたパソコンの使い方を指導し、町内会が在宅被災者の況把握をしたいというので、そのアンケート作りの支援等も行いました。その支援は、“物資” “サービス” “情報”の提供と、とても幅広いものとなりました。しかしながら、これだけの被害でしたので、我々の活動は大海の一滴に過ぎなかったと考えています。それでも、この活動によって少しでも何かのお役に立てたのであればとても嬉しいことだと思っています。

多くの出会い

普段はスリランカにいる私にとって、今回の2ヵ月半の活動を通して、普通であれば10年間くらいかけて「会う」であろう人びとと出会うことができました。支援活動中、様々な問題にも直面しました が、出会った人びとの“力”に支えられ活動を進めることができたと思っています。この場をお借りして改めて全ての方々に感謝の気持ちをお伝えしたいなと思っています。ありがとうございました!これらの出会い、そして“つながり”のおかげで、歩き回った被災地域・そこで生活する人びとを、今もとても身近に感じています。スリランカに戻り、また日々の仕事を進める傍らで、どのように被災地の復興に係ることができるかを考える日々です。

まだ終わっていない

震災後4カ月以上が過ぎ、色々な意味で支援の難しい時期に入っているのだろうと思います。そんな中、復興に向けたパルシックの支援活動は今も続いています!ぜひみなさんもこの活動にリンクし、多種多様な方法で被災地の復興に係って頂けると幸いです。これからも、ご支援どうぞ宜しくお願いします!!

パルシック 石川直人

スタッフレポート

ボランティアレポート

8月の前半にボランティアに来てくださった、奥田さんによるボランティアレポートです。 「山形屋」という…