政府軍の勝利宣言
2009年5月19日、スリランカのマヒンダ・ラージャパクサ大統領は、「全国民と全世界が偉大な勝利を祝福する機会に、スリランカ議会第四会期の開会を宣言」した。宿敵LTTE(タミル・イーラム解放のトラ)への勝利宣言を行ない、5月21日を国民の祝日と定めた。この日の議会演説の末尾で、ラージャパクサ大統領は、19世紀における英国軍への歴史的な敗北に触れ、次のように付け加えた。「1815年の敗北後、われわれは喪失した国家の誇りと尊厳を回復できないでいた。しかし本日、他のいかなる国も克服できなかったような挑戦に勝利することができた。国家の尊厳を守ることは、あなたがた国民と為政者である私の義務である」
19世紀初頭以来の英国支配以来失われていた国家の誇りを回復したというのである。スリランカ国軍の最高司令官でもある大統領の喜びもさることながら、この勝利は、外国の侵略に対するものではなく、同じスリランカ国民との闘いの結果である。この点にこそ、今後の問題の難しさも集約されるといえよう。
スリランカ国民に対するスリランカ国家の軍事力の行使である以上、スリランカ大統領の最大の課題は、国内の民族和解である。しかしながら、外国の侵略軍に対する戦いではないにもかかわらず、テロリストとの戦いに勝利したと言い換えることによって、自国民に対する大規模な軍事力の行使を正当化してきた。スリランカ島の北東部に住む少数民族であるタミル人が、民族自決権を求めて、多数民族の政権と武力衝突を繰り返してきた限りでは、スリランカ社会内部の問題である。
しかしながら、この内戦をもっぱら国内問題として扱うことができないところに、難しさが加重される。たとえば、政府軍とLTTE軍が用いた主要な武器は中国製やインド製である。スリランカ政府軍に中国政府やインド政府が援助を行ったことは、よく知られているが、対立するLTTE軍には武器弾薬がどのような経路から届いたのか、いまだ解明されていない。
ことは軍事援助にとどまらない。民族抗争とその和平過程で、内外のさまざまな勢力が関与してきた。そのことが問題をいっそう複雑にし、当事者間の和解を困難にしてきたともいえる。
武装蜂起と和平交渉
1970年代から、議会の立法過程や中央政府との協議だけでは、少数民族であるタミル人の社会的な地位は向上しない、と判断した青年たちが武装蜂起の準備をした。その動きに呼応して、南インドのタミル・ナードゥ州には、青年グループの軍事訓練を行う組織が生まれた。国内だけでは処理できないと判断したスリランカ政府は、インド政府の調停による和平会議に参加した。1985年にブータンの首都ティンブーで開催された会議では、少数民族居住地区における自治の拡大と戦闘集団の武装解除が主たる議題であった。
インド政府の説得を聴き入れず、武装解除を拒否したのがLTTEである。当時のジャヤワルダナ大統領は、問題解決をインド政府の仲介に期待して、1987年にインド・スリランカ和平協定を締結した。この協定に従って、タミル人居住区の自治権拡大と引き換えに、十万人を超えるインド平和維持軍が派遣され、武装解除を強行しようとした。反インド感情の強い民族主義者の支援を得たプレマダーサ大統領は、LTTE軍に武器を供給して、インド軍への抵抗を強化した。1990年にはインド軍が撤退し、翌91年には和平協定を提案したガンディ首相が暗殺され、インド政府による和平の斡旋が頓挫した。
その後、さまざまの外国政府や団体が調停に乗り出すが、最終的に成果を上げたのは、ノルウェー政府と北欧諸国による2002年の停戦協定の仲介と停戦監視団(北ヨーロッパの軍人で構成)の派遣である。
このときの和平交渉をスリランカ側で担当したピーリスとモラゴダ両担当相は、政権交代に伴い野党から与党に議席を移し、停戦協定を続けないで軍事力によるLTTE鎮圧方針を採用した現政権の有力閣僚でもある。同じことは、LTTE側にもみられる。反政府軍のカルナ陸軍最高司令官は、LTTE代表団に加わり、箱根会議にも来ていた。しかし、2004年3月に6千名の兵士とともに、政府軍に加わり、現政権の要職に就いている。このような国内の離合集散も、話し合いによる問題解決をこじらした要因である。
海外からの支援の比重
停戦協定が実現した背後には、それまでLTTE軍の支援をしていた欧米諸国や東南アジアに住む在外タミル人の諸勢力の合意がある。スリランカ国内に住むタミル人よりも、在外タミル人の方が人口も経済力も大きい。いくつもの勢力に分かれているとはいえ、スリランカ・タミル人の地位向上を願う点では共通している。さまざまのルートで、資金援助が行われてきた。強固な武装闘争を主張する在外組織は、国内におけるLTTE軍の敗北に影響を受けることなく存続している。当面、スリランカ国防省の最大の関心事は、誰がLTTEの軍事資金をどのような形で受け継ごうとしているのか、という問題である。
他方、スリランカ政府も長期に及んだ内戦への支援を諸外国から得ていた。公然と軍事援助を行った国もあるが、「死の商人」として武器市場で利益を上げた国もある。日本のように、国是として軍事援助を行わない国もある。しかしながら、最大の経済援助国となれば、政府開発援助によって建設される港湾、空港、道路、発電所、灌漑施設、学校、病院などが、これらの分野で必要だったスリランカ政府の歳出削減に貢献し、その分だけ軍事費支出を拡大できた。そのような要因まで配慮すべきではなかったか、という課題も残る。
(パルシック 中村尚司)