2007年12月の大統領訪日
1970年代後半以降、日本は30年間にわたって、スリランカに対する最大の開発援助国であった。非政府組織による支援は、欧米の主要援助国に比べて極めて少なかったが、政府開発援助の規模は他に比類のないほど大きかった。国連機関、世界銀行、アジア開発銀行などの国際機関経由で支出される日本の援助資金を考慮に入れると、日本政府の開発援助予算を財源とする公的資金は、スリランカ政府が受け入れる外国援助総額の5割をはるかに超える時代が続いた。
他方、スリランカ政府予算は、肥大化した政府機構の人件費や管理費に加えて、長期化する内戦のために軍事費支出のため、経済基盤整備に充当する余裕がほとんどない。病院、道路、港湾、空港、電力、灌漑などの整備は、日本の援助なしに考えることもできない状態であった。政府部局には援助依存病が生まれ、海外からの援助資金なしには、事業を始められない分野も少なくない。
日本の政府開発援助が巨大な比重を占めていた時期と、民族抗争が内戦に拡大してゆく時期とが重なっている。公的な援助資金を活用して、問題の非軍事的な解決に乗り出す方策も可能であった。しかし、インドやノルウェーと違って、日本にはこの問題に関心を払って尽力する援助関係者はほとんどいなかった。貴重な機会を失ったともいえる。
2002年2月22日ノルウェー政府のあっせんにより、反政府軍のLTTEとスリランカ政府の間で停戦協定が締結され、話し合いによる解決の機運が強まった。最大援助国の日本政府が明石康氏をスリランカ和平の特別代表に任命したのが、同年10月25日である。それ以降日本は、ノルウェー、米国、およびEUとともに和平プロセスと戦後復興を支援する共同議長国となる。明石代表の熱心な取り組みは、交戦していた当事者だけでなく、スリランカ内外で高く評価され、多くの期待を集めた。
長期化した内戦は、しかしながら、戦争で利益を得る関係者も肥大化させてきた。問題を軍事的に解決しようとする力が強く働き、2006年夏以降、再び戦闘が開始された。LTTEの軍事部門を率いていたカルナ司令官が、6千名の兵士とともに、東部州でLTTEに反旗を掲げ、政府軍に協力を始めた。政府はその協力のもとに、東部州におけるLTTE支配を一掃した。2007年7月のトッピガラ攻防戦の勝利は、鬱屈していたシンハラ民族の優位性を誇示する象徴ともなった。カルナ司令官の権力を抑制しようとする政府軍は、政府軍は外交旅券を交付し、ヨーロッパに亡命させ、後継者としてピッライヤンを養成した。
東部州における軍事的な勝利に自信を得たラージャパクサ大統領は、灌漑担当のチャマル、軍事担当のゴータバヤ、他の行政担当のバジルという3人の弟を要職につけて、4兄弟による統治体制を築いた。2000年前の大津波の後、島の南東部から北西部へ攻め上り、北部を支配していたタミール王エララを滅ぼしたという故事にならい、LTTEを滅ぼそうという作戦を始めた。前政権の遺産である停戦協定を破棄するという政治決断の重要な時期に、日本を訪問することにした。
迎える側の福田康夫首相は、野田卯一自民党議員が政界を引退したのち、約15年間も日本スリランカ協会の会長を務めた政治家である。明石代表の任命を閣議決定した時の内閣官房長官でもあった。コロンボと東京だけでなく、ノルウェー、米国、EU、インドなどの政府関係者やNGOの間で、再び話し合い解決への転換を期待する人々が多かった。
12月10日、18時から約1時間にわたり、両国の首脳会談が行われた。日本の外務省から、次のようなその概要が発表されている。
コロンボのNGOや知識人の間では、日本政府が和平プロセスや人権問題に関して、他の共同議長国に比べて消極的である、という批評を耳にする。しかし、上記の政府発表をみる限り、福田首相は和平と人権に関して明瞭なメッセージを伝えている。そればかりか、明石代表を派遣しLTTE指導部に働きかける上で、スリランカ政府が協力するよう要請している。ラージャパクサ大統領側も、協力の用意があると答えている。
ところが、コロンボに帰った大統領は、福田首相との会談内容とは異なった方針を進めることにした。タミール人の祝日タイ・ポンガルの2008年1月16日をもって、停戦協定を破棄すると決定しその通告を行った。それに応じて、北欧諸国から派遣されていた、停戦監視団も帰任することになった。東京宣言の共同議長国を代表して、明石康日本政府特別代表がコロンボに赴き、軍事解決ではなく、話し合いによる紛争解決を再考するよう求めた。しかし、その成果は思わしくない。LTTE指導部に働きかけるため、キリノッチを訪問する上での協力もなされなかった。
このような方針転換の背後には、中国とイランの経済援助と軍事援助があると報道されている。この1年間に、日本はスリランカに対する最大援助国ではなくなり、第3位に転落した模様である。中国もイランも大統領の訪問に際して、1千億円を超える援助資金の供与を約束し、港湾、発電、製油などの開発援助に力を入れている。共同議長国のように、和平や人権を強調しないので、スリランカ政府としては、対応が容易である。
停戦協定の破棄以前の06年7月から始まった戦闘の再開、急増する難民、LTTE空軍の爆撃、政府軍の東部州制圧、LTTE政治代表のタミールセルヴァンの爆死、政府軍事予算の増額など軍事対決が進んでいる。政府批判の報道機関に対して、ジャーナリストの暗殺、印刷工場の放火などの破壊活動が行われても、加害者が検挙されてない。新政権下の言論抑圧の特徴である。政府軍とLTTE軍との戦闘は拡大するばかりであり、従来のゲリラ戦から正規軍の陣取り合戦に変貌している。双方の空軍機も、戦略目標の空爆を進めた。その結果、非戦闘員の犠牲者が多くなった。増加した。双方の政治家の暗殺も少なくなく、その都度閣僚や国会議員の補充が行われている。
07年10月後半に、南インドのタミール・ナードゥ州にあるジャフナ・タミール人の難民キャンプを訪問した。難民支援活動をしているOFERR(イーラム難民再定住機構)のチャンドラハサンによれば、2006年半ばから、新たに来る難民が急増したそうだ。タミール・ナードゥ州にある115難民キャンプに居住する人口は、05年以前の旧難民が59,792名、それ以降の新難民が19,987名である。このような難民の苦境に対して、なすべきことは少なくない。日本の法務省でも、タミール人による難民申請が増加している。しかし、その認定作業は進んでいない。
筆者は、本年に入ってから3月と4月にスリランカを訪問する機会を持った。この1年近く、戦闘が激化するものの、政府軍支配地域の拡大が遅々として進まない戦況に、シンハラ民族主義者の間にも焦燥感が感じられる。国防省は連日のように、多くの敵兵を殺傷して政府軍が勝利したと発表している。LTTE側の発表を伝えるタミール・ネットによれば、同じ戦闘場面でも政府軍の死傷者のほうが多い。
戦闘再開時に、政府軍はLTTE軍の兵力を約5千名と推定していた。国防省の発表によれば、07年におけるLTTEの戦死者は2752名、08年1月から4月までに3359名である。通常、戦死者の2倍以上の戦傷者がでるので、LTTE軍は壊滅していることになる。しかし、4月23日のムハマライ攻略戦では、政府軍の戦死・戦傷者のほうが多かったようである。
ジャフナ半島の付け根にあるムハマライは、国道9号線でキリノッチに向かうよう路であるため、繰り返し大きな戦闘がおこなわれてきた。当初国防省は、政府軍の戦死者43名、行方不明33名、戦傷者126名を出したが、激しい戦闘に勝利したと公表していた。
LTTE軍の戦死者は、約300名とされていた。しかし翌日、LTTEから国際赤十字委員会を通じて28名の兵士の遺体が政府軍に渡され、それ以外に143名の遺体が火葬されたことが判明し、戦死者を残して部隊が敗走していたことが明らかになった。
戦傷者のうち、ジャフナで対応できない重傷者がコロンボへ空送された。ラトマラーナ空港から121名がスリジャヤワルダナ病院、10名が眼科専門病院、35名がコロンボ中央病院、40名が陸軍病院に救急車で運ばれた。救急車の出動の多さに空港近くの住民が、不審に感じないようサイレンを鳴らしたり、赤色灯を点滅さえたりしないよう指示されたと伝えられている。このような敗戦のあとは、報道規制が厳しくなる。
ラージャパクサ大統領は、5月5日から6月5日まで議会を休会にする布告を出した。5月10日に予定されている東部州の州議会選挙において、旧カルナ派(ピッライヤン派)の兵士が、武器を携行したまま選挙活動をしていることについて野党の批判が強いことが大きな理由である、ピッライヤン候補は、州政府の首相を目指しているが、統一国民党や人民解放戦線は、選挙の無効を主張する可能性が強い。このほか、公企業の汚職問題、燃料や食糧の急騰、政府が出資しているミヒン航空の破産(35億ルピーの負債)などについて委員会の構成を変えたり、審議を避けたりするためだといわれている。
年率約30%のインフレに対して、低所得層の反発が強い。政府は4月中旬に消費者米価の上限をキロ当たり70ルピーに決めたが、在庫不足が深刻である。5月に入って、ビルマから米穀2万5千トンの緊急輸入を発注した矢先に、サイクロン被害のニュースが入り、対応に苦慮している。IMFは周辺の南アジア諸国に比べて、スリランカの消費者物価指数が突出して上昇していると指摘している。人びとの生活の困難が深刻化すればするほど、軍事的な勝利への期待が高まることは、日本近代の経験と重なる。
(パルシック 中村尚司)