PARCIC

緊急救援の時代(1999年~2002年)

1999年8月30日、インドネシアの下にとどまるか否かの住民投票が行われ、78.5%という圧倒的多数が独立を選びました。緊張が高まる東ティモールで、パルシック(当時は、PARC=アジア太平洋資料センター)は、何とか平和的な手段で人びとに手を差し伸べたいと考え、緊急救援を開始しました。

1999年8月30日、国連監視団の監視の中で、インドネシアの下にとどまるか否かの住民投票が行われ、結果、78.5%という圧倒的多数が独立を選びました。

9月4日頃、この結果が明らかになってくるにつれて、東ティモールではインドネシア軍の周囲で緊張が高まってきました。銃が民兵に配られたなどという情報がとびかいました。国連が撤収した後、インドネシア軍と民兵は、独立派の住民を襲撃したり、家々を襲って強奪したり、火を放ったりという事態になりました。国連安保理事会で国際軍の派遣が承認されました。パルシック(当時は、分割前でしたのでPARC=アジア太平洋資料センター)は、何とか平和的な手段で、市民の連帯として人びとに手を差し伸べたいと考え、他の団体にも呼びかけて東ティモール市民平和救援プロジェクト(PPRP)を立ち上げました。そして、ピースウインズ・ジャパンや東ティモールに自由を!全国協議会、シェア、キリスト教団体など、性格の異なる団体が共同して、10月には医薬品を満載した船を送ることができました。その後、本当に何もなくなった人びとに食料、鍋釜など、その時々に必要なものを配布しました。

約半年たって、緊急事態は一段落し、2000年4月からは各団体が個別に活動を始めました。私たちは、リキサ県で、学校の修復を行いました。それは、家々も学校も壊れたり焼き払われたりしていましたが、村ごとにある学校が修復されればとりあえず村人がそこに帰り集まったりすることができるようになるからです。続けて、職のない村の青年たちに家具作りの研修を行い、学校に机やいすを提供するという活動を、独立の2002年まで続けました。