ジャフナ県は1983年から2002年までの内戦期間中、繰り返し激戦の対象となった地域です。そのため、住民たちは住み慣れた土地を離れて、避難生活を 送らなければなりませんでした。2002年、LTTE(タミール・イーラム解放のトラ)と政府軍の停戦合意が締結されると、平和を待ち望んでいた人びとは、避難先から出身地の漁村に戻ってきました。しかし、住宅や道路などのインフラ設備はほぼすべてが破壊されていました。
ジャフナ県では漁業が盛んであり、住む場所だけではなく、多くの漁民たちが漁船や漁具を失いました。それでも、人びとはヤシの葉で葺いた簡易住宅を自分たちで建てて、海外からの支援により提供された漁具や伝統的な小型の船を得て、ようやく2002年から2004年にかけて本格的に漁業を再開したのです。
しかし、2004年12月末にインド洋津波が、スリランカの沿岸地帯を襲い、スリランカ全土で3万人以上が死亡し、80万人以上が被災する事態となりました。とくに、沿岸地域であるジャフナ県の被害は激しく、2,640名が亡くなりました。その大半は、沿岸部にすむ漁民世帯の逃げ遅れた女性や子どもでした。そして、漁民たちは再び住宅や船を失い、漁業の再開がはばまれることになりました。
ジャフナ県では冷蔵システムや製氷器もないために、せっかくの漁獲を低価格で販売せざるをえません。そのため、零細漁民の所得は少なく、厳しい生活を強いられています。
スリランカでは、日本人と同じように干物を食べる習慣があります。消費量が多いので、海外から輸入しなければならないほどです。干物であれば、高価な機械に頼らずとも、太陽の光さえあれば魚を保存できます。しかし、地面で直接魚を乾かすため砂がかぶってしまったり、鳥などに食べられてしまったり、塩分が多すぎたりと商品価値が高いとは言えませんでした。そのため、パルシックでは2005年に乾燥台などの機材を提供し、干物の加工に関する技術的な指導を行いました。その結果、干物の品質がよくなり、今までより10%から20%程度高く売れるようになりました。 伝統的に、スリランカでは女性が漁業に直接たずさわれないのですが、水揚げされた魚介類の分別や雑魚の販売などにより現金収入を得ています。漁獲が減れば、このような女性たちの収入は激減します。女性たちの生計が少しでも向上するように、パルシックは内戦終結後の2013年9月まで支援しました。
ミーティングに出席する女性たち
町の干物やさん