16人の子どものお父さん(うち5人は死亡)。グループの中では年長者で、小学校の先生だったこともあり、グループ内のもめ事に常に穏やかに立ち振る舞う人です。
1972年、職を求めてディリに下り、トゥリズモ・ホテルで働いてポルトガル語を学びました。74年に、ポルトガルからの即時・完全独立を訴える「東ティモール独立革命戦線(フレテリン)」のメンバーとなります。75年12月7日にインドネシア軍がディリに侵攻、ヴィトリノさんの部隊はディリ、アイレウ、 マウベシへと次第に山の中に追いやられました。79年に、とうとう山を越えて南海岸のベタノまで来ます。そこで生涯の伴侶となるマリア・エステラさんと出会います。しかしインドネシア軍に捕まり、投降。ヴィトリノさんはマリアさんに両親のもとに留まるように言いましたが、マリアさんは「どこまでも着いて行く」とヴィトリノさんとともにマウベシまでやって来ました。
マウベシに戻されると、インドネシア軍からの拷問が待っていました。森の中で体中を縛られ、監視されながら数日間放置されました。「このまま死ぬ苦しみを味わされるなら、いっそ一突きに殺してくれ、と監視していたインドネシア兵に言いました。するとインドネシア兵のほうがひるんで紐を解いたのです。」
現在のヴィトリノさんは、長身痩躯に短髪のすっきりとしたスタイルですが、当時は腰まで届く長髪、ひげも長く伸びたままでした。ある日、マウベシ市場のバスケット場に連行され、後ろ手に縛られたまま座らされました。群衆の見守る中、インドネシア兵はヴィトリノさんの長いひげをタバコの火で燃やしました。「お前はお前たちの大統領、スハルトのために戦っている。俺たちは俺たちの大統領のために戦うんだ、とそのインドネシア兵に言ってやった」(ヴィトリノさん)。当時まだ2歳だったヴィトリノさんの末の弟を抱いて、マリアさんもその光景を見ていたといいます。
83年には子どもも生まれ、職を得るために教員になろうとディリで研修を受けます。85年から99年まで、スアイ・アイナロ・マウベシで小学校の教員として働きました。99年の住民投票後、2001年に教員採用試験が実施されました。ヴィトリノさんは試験に合格し、3か月分の給与をもらいましたが、赴任するはずの小学校には試験に落ちたほかの教員が入りました。
「東ティモールの教育省は、すでに縁故主義の温床。教育省にアイナロ出身の役人がいるから、マウベシの小学校にまで試験に落ちたアイナロの人間が教員として教えに来ている。ポルトガル語のレッスンを受けながら子どもたちにポルトガル語で授業をしている彼らより、自分のほうがよっぽどポルトガル語が話せる。しかし教育の質で教員が採用されない。インドネシアの悪い習慣がいまだに残っている。そんな環境で働くより、農業に戻ってこうしてNGOと活動するほうがいい」とヴィトリノさんは言います。
ルスラウ集落にはヴィトリノさんの次の世代、99年当時「東ティモール民族解放軍(ファリンティル)」の兵士だった若者が3人います。兵士でなくても、多くの人が独立闘争を自分がどう支持してきたかの武勇伝をもっています。彼らが東ティモールの未来に希望を持ち、子どもたちに夢を語れるような現在を、共に生きたいと思います。
(2008年)