PARCIC

コーヒー生産者の声

ヴィセンティ・ダ・コンセサオン・シルバさん

ヴィセンティさんは、2003年にクロロ集落(26名)がグループを結成したときから毎年、グループの代表に選ばれています。08年1月の選挙で5回目の再選が決まったとき、あまりの荷の重さに涙を流してメンバーに協力を仰ぐ姿が印象的でした。

無口で人望の厚いヴィセンティさん。実はクロロ集落の出身ではありません。1968年、クロロの隣集落ハトゥブティで、6人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは街に住むポルトガル人の家で料理人をしていました。中学校を卒業したヴィセンティさんは、89年にインドネシア公務員の資格を得、軍人や公務員へ支給されるコメの倉庫管理をしていました。クロロ出身のドミンガスさんと結婚し、彼女の家族の畑があるクロロに移り、クロロの「マネ・フォウン(テトゥン語で婿の意味)」となったのです。15歳を筆頭に8人のこどものお父さんでもあります。

インドネシア時代と現在の生活をヴィセンティさんは次のように語ります。「インドネシア時代はなんでも物価が安かった。1ドル分の米でも馬で運ばなければならないくらい重たかった。いまは10ドルでも自分で抱えられるほどしか米が買えない。一方でコーヒー価格は下がり、生活は苦しくなった。東ティモールは独立しても自国通貨をもてずにいるのは皮肉だ。」

ではインドネシア時代のほうがよかったか、というと「いやいや、まだ始まったばかり、これからだよ」とやさしい笑顔。組合にかける想いを語ってくれました。「組合に参加する前は、摘んだコーヒー・チェリーを遠くまで売りに行かなければならなかった。馬に乗せてようやく計量場までたどり着いたら、コーヒーが腐ってしまってそのまま持ち帰らされたこともあった。いまは自分たちの集落内で自分たちの手でコーヒー加工ができる。随分と楽になった。」「組合をより 発展させるために、コーヒー以外の野菜や豆類も共同出荷してみたい。クロロでは豆は年に2回収穫できるし、種芋を10名くらいで分けて栽培してみたら、水遣りさえできればじゃがいもが品薄になる11月ごろに良い値で売れることもわかった。」

ヴィセンティさんにとって、組合とは、子どもたちに遺せる未来だといいます。「子どもたちの将来にとって一番心配なのが、学校が遠いこと。小さい子どもたちは通学途中にお腹がすいてしまう。学校に行かせるには親が送り迎えをしなければならないが、畑仕事もあってままならない。15歳の長男がようやく小学校2年生。13歳の次男は組合の識字教育でアルファベットを覚えたよ。」人前で多くを語らないヴィセンティさんにとって、最大の困難は、信頼を寄せてくれるメンバーが言いたい放題要求をつきつけてくること。それでも本人の信念は強い。「自分たちが死ぬまで組合を存続させて、その後を子どもたちに引き継ぎたい。ひとりで多くのことはできないが、みんなで力をあわせればきっとなにかできる。子どもたちのために、いまは苦労が多くても組合は手放したくない」。

(2009年)