ラジャパクサ大統領
スリランカでは内戦が終わったということになりました。まず、「戦争が終わったので大統領がヨルダン訪問を切り上げて帰ってくる」という報道がありました。空港に着いた大統領は派手な演出で迎えられ、「私は内戦のない国に降り立ったのだ」と言ったけれど、コロンボに住む私の周りの人たちは「終わったってどういうこと?」「プラバーカランはどうなったの?」と腑に落ちない様子でした。その日の夜のニュースでは「わずかに残っていたLTTE支配地をスリランカ軍が占領し、同支配地に取り残されていた人々はすべて救出された」と報道され、「元LTTE支配地」らしき場所から煙がもうもうと立っている様子が写しだされました。この時、気の早い人たちが勝利を祝う爆竹がいくつか聞こえたけれど、多くの人は「煙は立っているけどいったいどうなったのだ」とよくわからない気持ちだったようです。
次の日、大統領が国会で「内戦は終わった。これからは一つの国だ」と演説したり、コロンボの上空をジェット戦闘機がお祝いに飛んだりし、私も「どうやら内戦が終わったのかもしれない」と思い始めました。しかし「本当に戦争が終わったようだ」と多くの人が信じるようになったのは、その次の日の昼過ぎ、「プラバーカランの死体が見つかった」という報道がなされてからです。それからコロンボ周辺では、若い人がバイクやトラックにのってスリランカ国旗を振って道を走りまわったり、爆竹をバンバンならしたり、喜んだ人たちがキリバット(お祝いのときに食べるミルクライス)を路上で振る舞ったりして、ちょっとお祝いムードになりました。また翌日は国民の祝日になり、子供たちは突然学校が休みになり喜んだというわけです。
街の至る所で国旗がたなびいています
私自身は「戦争が終わったのは良かったけれど、あんなにたくさんの人が死んだのに(私たちには数は知らされていませんが)爆竹を鳴らすのはちょっと気がしれないなあ」という気持ちでした。子供を失った親や親を失った子供がさぞたくさんいるだろうと思うと気の毒でなりません。コロンボのシンハラ人のなかにも、私と同じように感じている人は結構いたようです。「自分たちは北の状況の100分の1くらいしか知らされていない」「北部のLTTE地域から脱出してきたタミル人が『ありがたい、これで助かった』と言っているテレビの報道はたいがいヤラセだ」「北部のタミル人が『今回の屈辱をいつかはらそう』と思わないようにこれからせいぜい仲良くしないとね」という常識的な人たちもいて少し安心しました。
また、多くの人々が「北部にはこれまで開発の恩恵を何も受けてこなかった。北部のタミル人にはこれから沢山支援しないと」と考えていることも感じ取れました。「爆竹を買うお金があるなら北部の難民キャンプに送ったほうがいい」と同情を示す人たちもいました。武力制圧したことに対する、ちょっと後ろめたい気持ちもあるようです。
ところで、タミル人の多く住むコロンボのウェッラワッタ地区や北部のジャフナで、内戦が終わったニュースを聞いて人々はどう反応しているのかという報道は全くありませんでした。同じタミル人が多く犠牲になった末にスリランカ軍が北部を武力制圧したのですから、タミルの人たちは喜んでいるはずはありません。しかしタミル人が、喜んでいるシンハラ人に「そんなに騒ぐな」と言えるムードでもありませんでした。ヨーロッパ諸国などではスリランカ軍の武力制圧に反対してデモが起こったり、タミル人が商店を閉めて抗議の意を表したようですが、スリランカでは報道の自由も制限されているし、「身分が怪しい」となるとすぐに警察に引っ張って行かれますので、そのような抗議の意を表したりしたら「LTTEの味方」と判断されて大変なことになりかねないからです。
このような状況の中で私はしばらく、「勝利気分で祝っている人たちは政府の報道に乗せられているのだ」と思っていました。しかし、先日地方出張に行った時にはっと気がついたことがあります。中年の女性たちが村の人たちに混ざってトラックに乗り、国旗を振って大騒ぎでお祝いパレードをしていました。コロンボ周辺ではこのような自発的勝利パレードに中年の女性が混ざっていることはあまりありません。まして普段控えめな農村のお母さんたちがなぜそこまで、と不思議に思い地元の人に聞いてみると、「息子が軍隊にいるにちがいない」と教えてくれました。息子が戦地から帰ってくるというのは格別の喜びでしょう。こればかりは喜んでいることを誰も責めることはできません。
スリランカ南部の田舎に行くと、息子を2人も3人も戦地に送り出している家庭があります。中には「長男はもう戦死した」といって写真が飾られている家庭もあります。このような家庭は息子たちの給料で豊かになるかというと、実はそうでもありません。残された両親はめったなことでは息子の給料に手をつけないからです。家族は、北部に送り出された息子たちが「もう帰ってこないかもしれない」と心を痛めつつ、食べるにも事欠く貧しい生活をしていたりします。