こんにちは。9月下旬からラマッラー事務所に加わりました、廣本です。ラマッラーは坂が多い街で、毎日の通勤がいい運動になっています。
さて、私が赴任した9月下旬といえば、日本ではシルバーウィークのお休みがありましたね。実は同じ頃、パレスチナの人びとも連休を迎えていました!シルバーウィークならぬ、イード・アル=アドハーです[1]。
イード・アル=アドハー(Eid ul-Adha、犠牲祭の意)は、イスラーム教で定められた宗教的な祝日です。世界中のイスラーム教徒は毎年メッカへ巡礼することが恒例ですが、旅の最後に聖地アラファト山に参拝することで、巡礼はクライマックスを迎えます[2]。イード・アル=アドハーは、人びとがアラファト山を下山した翌日、すなわち巡礼の最終日に当たります。また、巡礼に参加していないイスラーム教徒も、この日は動物を1匹生贄として捧げて祝うことで知られています。今年のイード・アル=アドハーは9月25日で、その前後の9月23日~27日の5日間が祝日となりました。
パレスチナ・ガザの人びとは、どのように今年のイード・アル=アドハーを過ごしたのでしょうか。
パルシックガザ事務所スタッフであり、ワーキングマザーであるタグリードとサハールが、それぞれの家でのイード・アル=アドハーについて記事を寄せてくれました。これから2回に分けてご紹介します。
夫のムニールとイードのお祈りに向かう道中、タクビールの詠唱を聞きながら、私はイード・アル=アドハー(犠牲祭)の第一日目の始まりを感じました。
この日は、老若男女も子どももみな正装をして、大きな広場に集い、イードのお祈りを捧げます。お祈りの後、人びとは互いに祝福し合い、それぞれの家に戻ります。経済的に余裕がある家では、家畜(羊やヤギか牛、あるいはラクダということも)の屠殺が行われます。屠殺された家畜は「ウッドヒヤ(Udhiya)」と呼ばれ、その肉は三等分されます。そして3分の1は自分たちの家族用に、3分の1は親戚や友人など親しい人びとに、そして残りの3分の1は貧しい人、助けを必要としている人に分け与えます。
私はお祈りの後、まず母方の叔父の家を訪ねました。叔父の家では羊の屠殺が行われていました。
また、私は親戚の人びとと互いに「クル・アーム・ウ・エントム・ビヘイル(Kul ‘Aam w Entum Bekheir)」と言い合いました。これは「今年もお元気で、お幸せに」といった意味のイードの定型挨拶です。
しばらくして私はその場を後にし、子どもたちを着替えさせるため、家に戻りました。家では、子どもたちが早くお出かけしたくてそわそわしていました。イード・アル=アドハーの際には、子どもたちはお小遣い“アエディア(‘Aedia)”をもらうことができます。出かけた先でそのお小遣いを何に使おうかと、子どもたちはもうワクワクです。
その一方で、父方の親戚の家では少し状況が違いました。
16日前に伯父の一人が亡くなり、喪中だったので、話し合いの結果、今年のイード・アル=アドハーでは家畜の屠殺は行わないことにしたのです。私も亡くなった伯父の家族を訪ねましたが、伯父のことを話しているときの彼らのまなざしや声の調子からは、まだ彼らが深い悲しみに包まれていることがはっきり見て取れました。
そうしたわけで、私の家でも屠殺は行わなかったのですが、その代わりに、親戚や友人たちが、私たち家族にたくさんの羊や牛の肉をおすそ分けしてくれました。それらを使って、私は牛肉のビリヤーニを作りました。下がその写真です。どうです?美味しそうでしょう?
犠牲祭の2日目は、まるでサーカスの一団が来たかのように家の周りがお祭り騒ぎでした。なぜかというと…自宅のバルコニーからの写真をご覧ください。ラクダ、ロバ、馬がやってきたので、子どもたちはこれらの動物に乗って大はしゃぎ。また、小さな移動式屋台では、子ども向けに牛肉のサンドイッチとバラド(Barrad)というキンキンに冷えたジュースが売られていました。
昨年のガザ攻撃がもたらした痛み、傷、貧困は消えませんが、それでもガザの人びとはイード・アル=アドハーを祝います。
(ガザ事務所 タグリード)
[1] イブラーヒーム(アブラハム)が神の試練に従い愛する息子のイスマーイール(イシュマエル)をアッラーの神への犠牲として捧げようとし、神がそれを見て代わりとなる犠牲の羊を使わしてイスマーイールを救った事を世界的に記念する日とされている。
[2] アラファト山は、聖地メッカの東約25キロメートルにある山で、別名「慈悲の山」と呼ばれる。預言者ムハンマドが最後の説教を行った場所として知られ、メッカを訪れた巡礼者は巡礼月の9日にこの山に登る。この日にアラファト山にいない場合、巡礼が無効になると考えられている。