マルハバ(こんにちは)!ラマッラー事務所の盛田です。
4月11日でパレスチナに赴任してちょうど一か月。ラマッラーの雰囲気にも慣れ、週末には近くの街まで足を延ばせるようになってきました。私のいるヨルダン川西岸地区は、大きさが三重県と同じくらいという小さな地域ながら、方言や料理の味付けが少しずつ違い、豊かな地域的多様性を誇ります。その中から今日は、ヨルダン川西岸北部の街ナブルス(Nablus) を紹介したいと思います。
ラマッラーから乗り合いタクシー(セルヴィス)で北へ1時間程度走ったところに位置するナブルス。パレスチナでは、どこに行くにもイスラエルの検問所を見かけますが、この短い道のりの途中にも検問所が2か所設置されています。1つは、常設のザアタル検問所(Za’atar)。もう1つが状況に応じて設置されるフッワラ検問所(Huwwara)です。どちらも常時イスラエル兵が駐在しており、時々行き交う車を止めて調べるので、検問付近に長い渋滞ができていることもしばしば。幸い、今回は止められずに通過できましたが、この辺りからイスラエルの違法入植地の案内板も現れ始めます。
出典:UNOCHA
ナブルスは、南をゲルジム山、北をエバル山に囲まれた谷合に広がり、古く聖書にもシェヘムという名前で登場しています。水資源に富むためオリーブの生産が盛んで、オリーブオイルを使った石鹸は街の特産品です。甘味も有名で、特にアラブ世界でよく見かけるホワイトチーズのお菓子クナーファ(Kunafah)は絶品。パルシックの現地スタッフも「クナーファを食べるならナブルスで!」と言い切ります。2009年にはここで全長74メートル、重さ1,765キロのクナーファを作り、ギネス世界記録にも登録されました。その一方で、西岸に8つある4年制大学のうち最もレベルが高い3大学の1つ、ナジャーフ大学を擁する学問の都市でもあり、たくさんの学生でにぎわっています[1]。
[1] 他の2つはビルゼイト大学(ビルゼイト)とアムリキーヤ大学(ジェニン)。
この街では昔からムスリム、クリスチャン、サマリア人など様々な人びとと宗教が共存してきました。サマリア人は、聖書の「善きサマリア人のたとえ」で聞いたことがある方も多いかもしれませんが、ユダヤ教の一宗派を信仰している人びとです。彼らのコミュニティは、ナブルスを除けばホロンテル・アビブにしかなく、規模もかなり小さくなっています。街を案内してくれたムハンマドさんによると、サマリア人と結婚するには同じコミュニティの人か、相手が改宗するかしなければならないため、特に男性は婚活に苦労しているとか。
バス停から5分も歩くとナブルスの旧市街に入りますが、中心街とはがらりと雰囲気が変わります。エルサレムを思わせる美しい石造りの街並みはローマ時代の名残があり、街の名家が住んでいたというシリア風の邸宅跡や現在も開業中のトルコ風呂、イギリス植民地時代の郵便局跡などを見ることができます。現在は未曾有の苦境にあるシリアのダマスカスに似ていることから「リトル・ダマスカス」と呼ばれることもあるそうです。
一方で、地元の人びとにとって旧市街はつらい記憶が満ちた場所でもあります。
2000年9月に始まった第二次インティファーダ(パレスチナ人による反占領抵抗運動)は、イスラエルの過酷な軍事弾圧を受け、パレスチナ側で4,000人以上の死者を出しました。2002年ナブルスもイスラエル軍の侵攻を受け、旧市街は占領・封鎖されました。特にナブルスでは280日以上の長期にわたって厳しい外出禁止令が敷かれ、外出した市民が狙撃されて亡くなったり、住居・遺跡が破壊されたりしたことに加え、物資の出入りが制限されて経済的に困窮しました。これによって街を離れざるを得なくなった人も多かったといい、閑散としたエリアが目立ちました。当時は40か所近くあった石鹸工場も、今では2つまで減ったといいます。
街を歩いている途中、ムハンマドさんが何もない街路でふと立ち止まり、すぐそばの建物を指しながら教えてくれました。「ここは病院でした。治療を受けに来た住民7人が、隣の建物にいたイスラエルの狙撃兵に撃たれて亡くなったのです。病院は今ではもうやっていません」
外から来た私には、説明されなければ気付かず見過ごしてしまいそうなものも多いですが、気を付けてみればこの時の犠牲者・戦死者を悼む碑やレリーフがあちらこちらにひっそりと存在を主張していました。住民にとってはたった15年前の話であり、まだ記憶というには生々しい体験であることを感じた訪問でした。
(ラマッラー事務所 盛田)