パレスチナの生活も半年が経とうとしている4月末の休日、私はラマッラー市郊外のジフナ村とジャラゾーン難民キャンプの友人宅を尋ねた。
この日は、パレスチナの家庭料理ムサッハンをご馳走になった。
先日までの大雨が嘘のように、晴天の金曜日。
このところ異常気象のパレスチナは、4月末だともいうのに雹交じりの激しい雨が降り注いだ。
水はけが悪く民家の密集するキャンプ内は、川と化していたらしい。
お家に上がると、友人は早速砂糖たっぷりのシャイ(紅茶)でおもてなしをしてくれた。
リビングのテレビには、3月30日のパレスチナの「土地の日」に開始された「帰還の大進行」デモ[1]のライブ映像が流れていた。
4分割された画面に、ガザ数か所で進行中のデモの様子が映し出されていた。
違う局では、西岸のベイト・イル検問所のデモの様子も中継されていた。
ジフナ村までの道中、ベイト・イル検問所の前をタクシーで通過した私も、デモ隊が集まってタイヤを燃やしているところを目撃した。
友人によると「金曜日はタイヤを燃やす日」なのらしい。
パレスチナ人はなぜタイヤを燃やすのだろうか。
それは空に立ち上がる黒煙がスナイパーたちの視界を霞ませるからである。
3月30日の「帰還の大行進」の開始前から、ガザの国境沿いにはイスラエル軍のスナイパーが配置されており、デモ開始以降の死者や重傷者のほとんどは、こうしたスナイパーの狙撃によるものだと言われている 。
またデモ中継を見ると、所々に黄色のベストを着たスタッフたちの姿が発見できる。
パレスチナのデモ隊に対して日常的に使用される催涙弾。
彼らは、地上で催涙弾のガスが広がる前にバケツで封じ込めるチームなのだ。
いつも同じように見えるデモの様子も、よくよく観察してみると、デモ参加者たちの知恵が見えてくる。
それでも催涙弾ガスが一度広がると、あたり一面たちまちガスで充満してしまう。
「Press」のベストを身に着け、さきほどまでインタビューをしていたテレビ局の女性リポーターも、催涙ガスを目に浴び、痛みでうろたえる彼女を救助隊が手当していた。
報道陣たちもまた、危険を冒してデモの様子を伝えている。
しかし、西岸地区、とくに都市のラマッラーでは、ガザで行われているこうしたデモの様子を冷ややかに見る目も少なくないように感じる。
昨年10月末に成立した、ファタハ・ハマス間の和解合意後、国境・治安管理などの権限譲渡が行われたが、とりわけハマスの武装解除をめぐり、ハマスと自治政府の足並みはそろっていない。
「ハマスは統一政権誕生の足かせになっているし、ガザの人たちは過激だ」というパレスチナ人もいる。
友人にそのことを話してみると「たしかに、パレスチナの分裂状態は悪くなるばかり」と一言。
昨年11月の訪問時には、ファタハとハマスの和解合意の写真を「ずっとこのときを待っていた」と嬉しそうに見せてくれたのだが、この日の彼女の表情は深刻だった。
「それでも…」と友人は続ける。
「あの閉ざされた空間で何ができる?自分たちの存在を世界にアピールする唯一の方法がデモで、ガザの人たちはいつも知恵をしぼりながらデモに参加している」。
この時、私は以前カナダのユダヤ系BDS団体を取材した際に、彼らがカナダ国内で行ったパレスチナ連帯のイベントに対して、ガザの市民団体が感謝のメッセージを送ってきたというエピソードを思い出していた。
いつだって、ガザが注目されるのは戦争のときだから。
私は普段見ないテレビ(家に回線がない)の中継を見ながら、近いようで遠いガザのこと、テレビに映る同い年くらいの、ヒジャーブを被ってカメラを構える女性の心情を考えていた。
それから少し経って、ラマッラーのヨガ教室で一緒になった20代前半の若者とも話をする機会があった。その日、じつは予定されていたヨガクラスが中止になったことを知らず、ドアの前で待ちぼうけをくらっていた私たちは、お互いのことを色々と話していた。
キプロスの大学を卒業した彼女は、修士進学を考えていたが、高齢になる両親のことが心配でパレスチナに戻ってきたらしい。
「私見かけによらず勉強もディスカッションも好きなのよ」という彼女に、私はラマッラーの暮らしについて聞いてみた。
「こんな言葉があるの。『私は大きなかごに住む幸せな奴隷』。認めたくはないけど、ガザの生きづらさを見れば、ラマッラーはまし。憩えるカフェがたくさんあって、友人もいる。政権批判だってできる。」
私が「デモについてはどう思う?」と聞くと、
「もっと自由だったらなって思うときがある。でも、デモに参加すれば、多少なりとも危険がある。いつも頭によぎるのは家族や友人のこと。パレスチナのために死んでいった多くの人びとを誇りに思うけど…私はパレスチナのために死ぬのではなく、パレスチナのために生きる。それが一番の抵抗になるから」。
ラマッラー1つをとっても、当たり前のことだが考えは人それぞれ。
どこに住んでいるか、どんな仕事をしているか、海外経験があるか、また世代によっても子どもがいるかどうかによっても、意見や態度は変わる。
もうすぐ「ナクバの日」がやってくる。
ガザで、西岸で、エルサレムで、イスラエルで、また世界各地で、今年で70年目を迎えるナクバはどのような意味をもつのだろうか。
[1] 「土地の日」とは、1976年、現在イスラエル領となるガリラヤ地方にて、大規模な土地の接収に反対するパレスチナ人デモ隊にイスラエル治安部隊が発砲、死者6人を出したことを記憶する日。「土地の日」に始まった「帰還の大行進(the Great March of Return)」と題された大規模デモは、5月15日のナクバの日まで継続される。
(パレスチナ事務所 関口)