PARCIC

ガザ人道支援

戦争を知る子どもたち① ― ディーマのケース

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ディーマ・ラビア・ムザイン(Deema Rabe’e Muzain)は8歳の多感な女の子。5歳の時、2012年のガザ攻撃で消防士だった父を亡くし、祖母、母、脳性麻痺を患う双子の兄と妹とともに、父の退職積立金と親を亡くした子どもへのスポンサーシッププログラムで何とか生計を立てながら暮らしてきました。

2014年7月、イスラエルがガザ空爆を開始。ディーマの家も被災します。

その日はちょうどラマダン(断食月)の時期で、家には伯父・叔母が12人、生後1週間から15歳までの子どもたち30人と祖母が一堂に会していました。電気は来ていなかったためランプで明かりを取りつつイフタール(断食明けの夕食)を終え、一部の子どもたちは就寝し、あるいは自分たちのお母さんのそばでくつろいでいました。他方、大人たちは皆空爆の状況を把握するため、ラジオに聞き入っていました。その時、ディーマの叔母の一人の携帯電話が鳴りました。所用で別の場所にいた夫からでした。「すぐみんなを連れて家を離れなさい」。聞けば、ディーマの家の近くにすむ家族に誰かから「いますぐ避難しなさい」という電話がかかってきたというのです。

当時、イスラエルは空爆の際、攻撃の数分前に対象地域に住む一般市民に電話をかけ、数分の猶予を与えるという戦略をとっていました。それからアパッチヘリ用のシグナルとして攻撃誘導ロケット(Shooting guiding rocket)を打ちあげ、その後本攻撃がやってくるのです。状況を理解するにつれ、その場は恐慌状態となりました。大人たちは慌てて子どもたちを起こして回り、子どもたちを抱いて避難し始めました。猶予時間は短く、みな着の身着のままで、女性たちもお祈り用の服を着替える間もありませんでした。持ち出せたものはほとんどありませんでしたが、そんな混乱の中でもディーマのいとこは、イードのために買ってもらったドレスを一生懸命とりに戻ったといいます 。後からパルシックのスタッフが危険を顧みずにどうして取りに戻ったのかと尋ねたところ、「私のお父さんはこのドレスために一生懸命働いていました。もし失くしたら、もう買えないとわかっていたんです」と答えてくれました。しかし、この時ディーマは、お気に入りの服もイードのためのドレスも、何も持ち出すことができませんでした。

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彼らが家を出てすぐ、誘導ロケットがアパートの3階に着弾し、爆発。人びとは凍り付き、さらに恐慌状態となって泣き叫びました。この時の衝撃はディーマの脳裏にも強く焼き付けられ、スタッフによる聞き取りの際、2014年の戦争の際一番印象に残っているものを聞かれ、ディーマはこのロケット着弾のシーンを挙げています。幸いこの時死傷者はなく、脱出した隣家の人びとも子どもを誘導するなど避難を手伝ってくれました。

ディーマたちは歩いて10分ほどの距離にあった親戚の家に一時的に避難。時刻はすでに夜11時を回っていました。みんな興奮状態にありましたが、大人たちは手分けして全員が揃っているかどうかを確認して回りました。その際、ディーマのおばあさんがおらず、攻撃時トイレにいてまだ家に残っているということがわかり、携帯電話もつながらない中、慌てて近所の人に連絡をしておばあさんを安全な場所に連れ出してもらうということもありました。大人は、混乱して泣き叫ぶ子どもたちを集めて輪を作り、お互いの手を握らせ、歌を歌ったり祈ることで気を静めようとしました。「誰もあなたを傷つけたりできないから」「神さまに祈ってごらん」と声をかけるうちに、だんだん子どもたちも落ち着きを取り戻し始めました。ディーマの叔母の一人は「悲惨な状況にあっても大人は混乱して泣き叫ぶことすら許されない。心を強くもたなければならなかった」と振り返ります。その夜は誰も眠れませんでした。

ディーマは避難から3日後、家に戻りました。結局、ロケットは自宅のアパートビルに別々のタイミングで3回着弾していました。かろうじて倒壊は免れましたが、停戦後には自治政府が危険だからと取り壊しを決め、今では瓦礫の山となっています。この出来事の直後から、ディーマの様子が一変し、お母さんのもとを離れたがらなくなりました。停戦後はさらに悪化し、ちょっとしたことで怒って兄妹を叩いたり、自分の意見が通らないとぐずり続けるなど、とにかく融通が利かなくなりました。また、夜は、頻繁に悪夢に苦しみ、「死んだはずの父が車でみんなを迎えに来た」というものや、「海辺でいとこと遊んでいると津波がやってきて飲み込まれ、それが炎に変化したので、叫びながらいとこを探して逃げ回る」という夢を見ることもありました。

パルシックの提供している心理ケアプログラムに通い始めてから、ディーマはプログラム内の活動に積極的に参加してきました。普段の態度は落ち着いており、先生たちも落ち着いていていい子だと口をそろえますが、おもちゃを他の子どもにとられて泣き叫ぶなど、時々変化もあるといいます。また、家ではいつもしかめ面をして、ほかの子どもが一緒に遊ぼうとしても自分のおもちゃに触らせない、と頑固な態度をとることがありました。

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それでも「プログラムに通ううちに少しずつ落ち着いてきた」とお母さんは言います。現在では友達が何かちょっかいをかけてくることがあっても、少し時間を取って考えたり、協調したりしようとする態度が見られるようになりました。また、悪夢をみる回数も減り、最近は他の子どもたちと遊んだり、休暇に行ったりする夢も見るようになりました。以前は学校に行きたがらず、ベッドから出るのを嫌がってお母さんとよくけんかになっていましたが、心理士や教師、保護者で相談を重ね、常に彼女を年相応の「お姉さん扱い」をすることによってディーマにある種の責任感を認識させようと努めてきたことで、現在ではお母さんをよく手伝い、脳性麻痺のある双子の兄のお世話も率先して行うようになってきています。最近は、プログラムで自分が描いた絵を進んでおばあさんに見せてくれるそうです。

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※プログラムで提供しているサイコセラピー(子どもたちをリラックスさせる活動)では、先生が「寝る前に、目を閉じて自分の大好きなものを考えなさい」と教えています。プログラム中でも実践しており、瞑想が終わった時に何を考えたかを尋ねます。

(ラマッラー事務所 盛田)