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自然・文化

石巻の大津波と縄文時代の海進

阪神淡路大震災と比較すると、東日本大震災は、「大震災」という名称は共通するものの、実相は大きく異なる。高層ビルや高速道路が瓦解し、多くの死者や負 傷者を出した前者に比べて、東北では建物の倒壊による死傷者が少ない。死者や行方不明者は後者が多いものの、そのほとんどが津波の被災者である。言い換え ると、地震のあと津波が来るまでの数十分、多くの被災者が生き残り、予期される津波からの避難や、地震被害の善後策に大わらわだったにちがいない。数十分 間にできることは、限られていたであろう。

福島第一原子力発電所を管理している人たちの脳裏に去来した万感の思いが、いずれは明るみに出ると思われる。筆者は東日本大震災のあと、福島原発被災地の 南相馬市や川俣町へ、毎月のように足を運んだ。2012年の正月休みに、10回目の訪問をした機会に、宮城県石巻まで足を伸ばした。

福島の浜通り同様、宮城でも津波に襲われなかった地区は、一時的に交通網やライフラインが寸断されたとはいえ、日常生活を再建する目途が立っている。 2004年12月26日コロンボ市内のホテルに滞在中、インド洋大津波に襲われたスリランカの沿海地域を思い出す。午前8時半ごろ過ぎに大きな揺れを感じ たものの、大津波の来襲による被災まで約4時間、人びとは無策だった。この日、家屋、学校、病院、道路、鉄道だけでなく市場や墓地まで焼失し、2千万人の 島民のうち、約4万人の人命が失われた。他方、津波に襲われなかった地域では、学校や病院の再開も容易であった。予知しがたく、前兆の乏しい地震に比べ て、大津波は大地震のあとに来る。その分だけ、なにほどか人災の匂いがする。

日本列島における定住の歴史という点から見ると、石巻地域は類例の少ない顕著な地位を占める。大規模な貝塚の深い地層が、その歴史の長さを教えてくれる。 貝塚研究の歴史も、全世界に先駆けている。江戸時代の安永2(1773)年に仙台藩士の田辺希文が編纂した『牡鹿郡陸方沼津村風土記』に、石器や土器が混 在する貝塚の存在が報告されている。ヨーロッパにおける貝塚研究より、百年近くも早い。


▲宮城県 海進図

郷土史家の今野照夫(石巻市北上総合支所課長補佐)によれば、今回の大津波は、<縄文海進>に重なる。通説では、氷河期が終わった縄文早期(約一万年前) の地球温暖化により、太平洋の水位が上昇したといわれる。貝塚の分布線が、縄文時代の海岸線と想定され、<縄文海進>説を根拠づける。しかし通説に逆らっ て、縄文人は大津波の襲来に備えて、高台に生活の本拠を置いた、と見ることも可能である。次世代に向けた居住地区の復興計画は、縄文人の知恵を学び「縄文 海進」線にすべしという。筆者も同感である。

北上川はたいへん大きな河である。波浪状起伏地形の狭小な盆地に暮らす関西人が、北上川の下流域を歩くと、まるで大陸の大平原を旅している感懐を抱く。定 住系倭人が長く生活の本拠を置いた水系である。彼らはエミシと呼ばれたが、アイヌ系とは限らない。日本列島における定住生活者の原像である。この地域は、 古墳時代以降、朝鮮半島由来の稲作技術を手に北上する渡来系日本人の軍事拠点となった。多賀城と石巻は、エミシの在地権力とヤマト政権が、長期にわたって 攻防を繰り返す最前線でもあった。

信仰のかたちがアニミズムや素朴な祖霊崇拝から大きく出ることのないエミシに対して、ヤマト側には鎮護国家や加持祈祷を掲げる奈良仏教が対応していたであ ろう。奥州仏教界指導者の徳一と征夷大将軍の坂上田村麻呂はともに法相宗(興福寺や清水寺)に属し、中国から最先端の仏教思想を持ち帰った比叡山(最澄) や高野山(空海)からは守旧派と見られていた。現代の石巻にも、人生の危機に際して神仏の加護を求める祈祷が、民間信仰として残っている。


▲北上川 河口付近の風景

多くの住宅では、敷地内に小祠が祭られている。大津波で家屋が流失したあと、家屋を再建する場合も屋敷内の祠が優先される。祖先崇拝の証人である。石巻の 街並みを見おろす日和山の鹿島神宮は、長くヤマト側の祖霊を鎮め、慰めてきた。奥州支配を強固にした坂の上田村麻呂は、攻めのぼるヤマト権力側から見れ ば、古代における「坂の上の雲」である。稲作文化を掲げる支配者の北上とともに、北上川の水利開発が進む。定住系倭人と渡来系日本人との最終戦は、平泉で 戦われた。その後、中世武将の主要任務は、土木開発に豹変する。

彼らの土木事業は、北上川上流部で盛岡を涵養し、下っては花巻、平泉、一関の順で流路変更をしながら都市の形成を支えてきた。その終着点が石巻である。伊 達政宗の重臣、川村重吉は護岸改修工事と流路変更工事により水利の安定化に力を尽くし、新田開発を進め、水稲40万石(6万トン)の増産を可能にした。か つて派手な衣装を身にまとい、江戸や上方の郭でキセルの雨を浴びた「伊達男」は、北上川下流域開発の賜である。このような稲作偏重の開発事業は、伊達藩が 西南雄藩に対抗できるほどの富を蓄積する一方、冷害の年には多くの餓死者を出す過剰開発であった。宝暦(1755年)、天明(1783年)、天保 (1833年)の大飢饉に際して、石巻郷土史が記憶する一揆や打ち壊しの頻発は、近世における過剰開発の副産物でもある。

明治以降も増産を目指す土木事業は、<縄文海進>に学ぶことなく進められた。その結果、東日本大震災で人命を奪ったのは、地震や原発より圧倒的に大津波で あった。人口当たりでみて、最も多くの死者を出した自治体は石巻市である。長面地区に押し寄せる大津波を前にして、百名を超える犠牲者が逃げ惑った大川小 学校の苦難は、今後の復興計画を立てる上で多くの事柄を教えてくれるに違いない。

(パルシック 中村尚司)