南三陸町荒砥地区は、町の中心だった志津川漁港岸から車で10分程度の所、志津川湾の北端に位置しています。全100世帯程度の集落で、ワカメ、ホヤ、ホタテ、サケ、など漁業に従事する人が多く、漁業協同組合の正組合員が4~50人ほどの漁村です。
3.11の津波で亡くなった人は9名で、被災家屋は地区の3割程度。海岸からすぐ近くに高台があるため、地区の壊滅という事態にまでは至りませんでした。 津波直後は、200人以上の方々が旧荒砥小学校へ避難しました。南三陸町防災庁舎で最後まで防災放送を続けた女性職員の方の実家もこの地区にあります。
パルシックは、4月から5月にかけて宮城県北部の避難地域で救援物資の配布活動をしていたとき、旧荒砥小学校避難所を訪れました。4月始め時点で50名ほどが避難生活を送っていました。そこで、避難所代表の高橋源一さんと出会いました。源一さんは、宮城県漁協志津川支所の副委員長も務めています。震災前は 漁業と並行して、妻の敏子さんと一緒に20年ほど前から民宿「荒砥」を経営していました。アワビ、アイナメなどを名物料理として、全国の釣り客や県内の宴会客を通年で迎え入れていました。
震災当時、源一さんは自らの船を沖に逃がし、沖で夜を明かしました。翌朝岸へ戻ると、家族は無事に高台へ避難していましたが、民宿と自宅はほとんど形を残 さずに流されていました。地区で残った船はたったの15艘。しばらくは、漁業の再開に向けて何から手をつけてよいかわからない状況でしたが、5月中ごろに 志津川湾で水中ロボットによる海底の状態を調査が行われ、がれきなどのごみがほとんどないことが分かり、希望が湧いてきたそうです。
パルシックでは、緊急救援としての物資配布活動に続く中期の復興支援として、プレハブでなく木造の仮設住宅の建設支援をこの地区で実現できないかと一時期模索しましたが、いろいろな壁があって実現にはいたりませんでした。
ある日、源一さんと敏子さんは私たちに語ってくれました。民宿の跡地で、お弁当屋をやりたい。ほそぼそであっても商売を始めていきたい。やってみないこと には始まらない。役場や漁協の事務所などが復興するにつれて注文が入ってくるかもしれない。民宿のあった場所は海が見えて見晴しがよく、また地区の中でも 目立つところにあり、みんなが注目する。仮設住宅に移った後も、地域のお母さんたちが手伝いにきてくれるだろう。夜は赤ちょうちんでも吊るせば、漁師の男たちが集まってくるだろう。
そこで、私たちは7月に入って、源一さん夫妻のお弁当屋さん立ち上げの支援をすることにしました。石巻のコミュニティ・カフェ「街の駅おちゃっこ」でもサポートしていただいていた、山形の自由教育団体「小国フォルケ・ホイスコーレ」に協力を依頼しました。そして、小国の米農家が本業である腕利きの素人大工、川崎吉巳さんと、その弟子であるパルシックの若きスタッフを中心に、津波で更地になった土地の一角に、木造の3坪ほどの建物を作り始めました。
建物は8月中旬に完成しました。同じ頃、源一さんたちは5か月に及んだ避難所生活に終止符を打ち、応急仮設住宅に移りました。また、8月初旬のある日、源一さんたちが自分の船で沖へ出ていくのを、大工仕事中のスタッフが目にしました。
漁師として漁業復興へ向けての取り組みを着実に進めながら、仮設住宅でのコミュニティの新しい暮らしを始めながら、秋の気配が色濃くなってくる頃には、お 弁当屋さんの内装づくりにも着手していくことでしょう。そしていつか、地域の人たちの憩いの場として、また、地域復興のシンボルの一つとして、根付いていくことでしょう。
(パルシック 加藤 俊嗣)