コーヒー生産者の声 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Fri, 30 Jun 2017 01:45:14 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 ヴィセンティ・マリア・ソウザさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11940/ Sun, 28 Jun 2015 05:34:01 +0000 https://www.parcic.org/?p=11940

ハトゥカデグループの会計を担当しているヴィセンティさんは、バリトンの声がとっても魅力的。ひと回りも年下の妻ロザさんとの間に上は21歳から下は5歳まで、11人の子どもがいます。おしゃべりな代表、富農の副代表と並ぶと寡黙なヴィセンティさんの頼もしさがなぜか引き立ちます。毎年メンバーに提出を義務付けている生産者アンケートは、文字の読み書きのできないメンバーから聞き取ってヴィセンティさんが代筆します。「メンバー一人ひとりを探して家まで行くのは大変」といいながら、美しい筆致でどこよりも早くアンケートを提出してくれます。

ハトゥカデ集落生まれのハトゥカデ育ち。生い立ちを聞こうと手始めにご両親の名前を聞いたところ、11歳のときにお母さんを亡くし、実父は後妻をとった、ヴィセンティさん自身は祭りごとに差し出す財産の代わりに親戚に差し出され養父母のもとで育った、と大変に複雑。理解力がついて行かずに断念しました。

組合に加入する前と比べて生活に大きな変化はないけれど、コーヒーについてはだいぶ変わったといいます。「以前は家の近くまで買いに来る仲買人にパーチメントで売ったり、チェリーを村の中心まで運んで売っていた。いまは自分たちの組合があるから近くで計量できるし、遠くまで重たいコーヒーを担いでいかずに済む」。運営については慎重です。雑貨屋を建てようという副代表の強い呼びかけを表向きは支持しながら、メンバーやパルシックに「雑貨屋に資金は出さない方が良い」と根回しをし、コーヒー収穫終了後の農業資金としてメンバーに30ドルずつ貸付けるという別案を通しました。

妻のロザさんはハトゥカデ女性グループの代表を務めています。はちみつやハーブティの生産を通じて女性たちが集えることが楽しいといいます。ロザさんの出向くところには常に寄り添うヴィセンティさん。美しすぎて疑いたくなるほどですが、ハトゥカデからマウベシまで歩いて4時間「遠いから」という理由でほかのメンバーの夫ではなく必ずヴィセンティさんがガード役で付いてきます。女性が出ていく用事が増えるとどうしても気になるのは夫の理解です。「女性グループのほうはようやく軌道に乗って来たかな」と評価をするヴィセンティさん。家を空けることが増えて大変ではないですか、との問いに「教えてくれることは学んだ方が良い、女性でも」とためらうことなく答えました。ヴィセンティさんの夢は、道路や水へのアクセスの良いところに家を建てること。「これからもコーヒーはずっと送り続ける。わたしたちの状況につねに関心を払い続けてほしい」とのメッセージをいただきました。

(2011年10月)

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ヴィトリノ・ペレイラさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11937/ Sun, 28 Jun 2015 05:33:23 +0000 https://www.parcic.org/?p=11937

16人の子どものお父さん(うち5人は死亡)。グループの中では年長者で、小学校の先生だったこともあり、グループ内のもめ事に常に穏やかに立ち振る舞う人です。

1972年、職を求めてディリに下り、トゥリズモ・ホテルで働いてポルトガル語を学びました。74年に、ポルトガルからの即時・完全独立を訴える「東ティモール独立革命戦線(フレテリン)」のメンバーとなります。75年12月7日にインドネシア軍がディリに侵攻、ヴィトリノさんの部隊はディリ、アイレウ、 マウベシへと次第に山の中に追いやられました。79年に、とうとう山を越えて南海岸のベタノまで来ます。そこで生涯の伴侶となるマリア・エステラさんと出会います。しかしインドネシア軍に捕まり、投降。ヴィトリノさんはマリアさんに両親のもとに留まるように言いましたが、マリアさんは「どこまでも着いて行く」とヴィトリノさんとともにマウベシまでやって来ました。

マウベシに戻されると、インドネシア軍からの拷問が待っていました。森の中で体中を縛られ、監視されながら数日間放置されました。「このまま死ぬ苦しみを味わされるなら、いっそ一突きに殺してくれ、と監視していたインドネシア兵に言いました。するとインドネシア兵のほうがひるんで紐を解いたのです。」

現在のヴィトリノさんは、長身痩躯に短髪のすっきりとしたスタイルですが、当時は腰まで届く長髪、ひげも長く伸びたままでした。ある日、マウベシ市場のバスケット場に連行され、後ろ手に縛られたまま座らされました。群衆の見守る中、インドネシア兵はヴィトリノさんの長いひげをタバコの火で燃やしました。「お前はお前たちの大統領、スハルトのために戦っている。俺たちは俺たちの大統領のために戦うんだ、とそのインドネシア兵に言ってやった」(ヴィトリノさん)。当時まだ2歳だったヴィトリノさんの末の弟を抱いて、マリアさんもその光景を見ていたといいます。

83年には子どもも生まれ、職を得るために教員になろうとディリで研修を受けます。85年から99年まで、スアイ・アイナロ・マウベシで小学校の教員として働きました。99年の住民投票後、2001年に教員採用試験が実施されました。ヴィトリノさんは試験に合格し、3か月分の給与をもらいましたが、赴任するはずの小学校には試験に落ちたほかの教員が入りました。

「東ティモールの教育省は、すでに縁故主義の温床。教育省にアイナロ出身の役人がいるから、マウベシの小学校にまで試験に落ちたアイナロの人間が教員として教えに来ている。ポルトガル語のレッスンを受けながら子どもたちにポルトガル語で授業をしている彼らより、自分のほうがよっぽどポルトガル語が話せる。しかし教育の質で教員が採用されない。インドネシアの悪い習慣がいまだに残っている。そんな環境で働くより、農業に戻ってこうしてNGOと活動するほうがいい」とヴィトリノさんは言います。

ルスラウ集落にはヴィトリノさんの次の世代、99年当時「東ティモール民族解放軍(ファリンティル)」の兵士だった若者が3人います。兵士でなくても、多くの人が独立闘争を自分がどう支持してきたかの武勇伝をもっています。彼らが東ティモールの未来に希望を持ち、子どもたちに夢を語れるような現在を、共に生きたいと思います。

(2008年)

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アルフレド・アルベルト・カルロスさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11934/ Sun, 28 Jun 2015 05:32:37 +0000 https://www.parcic.org/?p=11934

副組合長を二期務めたのち、2009年度の選挙で二代目組合長に選出されたアルベルトさん。組合へのリーダーシップトレーニングに参加して以来「リーダーとは‥」のセリフで代表者たちを叱咤激励してきました。小柄で早口かつユーモラスな語りでコカマウを率いるアルフレドさん。彼の生い立ちを聞いて、彼の明るさの裏側を垣間見たような気がしました。

75年のインドネシア軍侵攻時、アルフレドさんは、東ティモールの独立闘士フレテリン兵士の「逃げないと殺される」という言葉に、両親、兄弟らとともに山中に逃げました。しかし、アルフレドさんだけ親戚に連れられ投降。ディリでしばらくすごしたのち1979年マウベシの出身集落クロロに戻り、両親も兄弟も山中で死亡したことを知らされました。その時、アルフレドさんは12歳の少年でした。

「投降したら殺されると思っていたのに、連れていかれた収容所では山では食べられなかった食事が出された。投降した自分だけが生き延び、両親は野垂れ死にだったと聞いている。遺骨もなかった」。以来、クロロで親戚と暮らし中学校を卒業。現在は5児の父であり、2006年からはクロロ集落の集落長もつとめます。

「組合員の25パーセントは組合を理解し始めている。残りの75パーセントが問題」――こう持論を展開する彼は、四分の三の大多数に組合を理解してもらうため、組合員の現金が底をつき、空腹を抱える時期にトウモロコシなど食料を貸し付ける事業を始めました。安く放出される政府米を組合で購入して遠隔地に住むひとたちへ販売し、組合の収益を増やすということも始めました。

アルフレド組合長の問題解決の手法には、争いをいさめる彼らなりの流儀というのを学ばされます。間違いを正すのではなく、正さないことで相手の羞恥心に訴えかける、という方法です。それで本当に解決されるのか、時間がたってみないとわからないというのが問題ではありますが、真っ向から間違いを指摘しては亀裂を深める組合員たちの性質をよく理解しているからでしょう、決断を下すアルフレド組合長は常に自信に満ち溢れています。

そして事務局には「毎月の会計報告をきちんと提出するように」と指示するなど、アルフレドさんのリーダーシップのもとに、コカマウが動き始めています。

(2009年)

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ヴィセンティ・ダ・コンセサオン・シルバさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11931/ Sun, 28 Jun 2015 05:31:47 +0000 https://www.parcic.org/?p=11931

ヴィセンティさんは、2003年にクロロ集落(26名)がグループを結成したときから毎年、グループの代表に選ばれています。08年1月の選挙で5回目の再選が決まったとき、あまりの荷の重さに涙を流してメンバーに協力を仰ぐ姿が印象的でした。

無口で人望の厚いヴィセンティさん。実はクロロ集落の出身ではありません。1968年、クロロの隣集落ハトゥブティで、6人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは街に住むポルトガル人の家で料理人をしていました。中学校を卒業したヴィセンティさんは、89年にインドネシア公務員の資格を得、軍人や公務員へ支給されるコメの倉庫管理をしていました。クロロ出身のドミンガスさんと結婚し、彼女の家族の畑があるクロロに移り、クロロの「マネ・フォウン(テトゥン語で婿の意味)」となったのです。15歳を筆頭に8人のこどものお父さんでもあります。

インドネシア時代と現在の生活をヴィセンティさんは次のように語ります。「インドネシア時代はなんでも物価が安かった。1ドル分の米でも馬で運ばなければならないくらい重たかった。いまは10ドルでも自分で抱えられるほどしか米が買えない。一方でコーヒー価格は下がり、生活は苦しくなった。東ティモールは独立しても自国通貨をもてずにいるのは皮肉だ。」

ではインドネシア時代のほうがよかったか、というと「いやいや、まだ始まったばかり、これからだよ」とやさしい笑顔。組合にかける想いを語ってくれました。「組合に参加する前は、摘んだコーヒー・チェリーを遠くまで売りに行かなければならなかった。馬に乗せてようやく計量場までたどり着いたら、コーヒーが腐ってしまってそのまま持ち帰らされたこともあった。いまは自分たちの集落内で自分たちの手でコーヒー加工ができる。随分と楽になった。」「組合をより 発展させるために、コーヒー以外の野菜や豆類も共同出荷してみたい。クロロでは豆は年に2回収穫できるし、種芋を10名くらいで分けて栽培してみたら、水遣りさえできればじゃがいもが品薄になる11月ごろに良い値で売れることもわかった。」

ヴィセンティさんにとって、組合とは、子どもたちに遺せる未来だといいます。「子どもたちの将来にとって一番心配なのが、学校が遠いこと。小さい子どもたちは通学途中にお腹がすいてしまう。学校に行かせるには親が送り迎えをしなければならないが、畑仕事もあってままならない。15歳の長男がようやく小学校2年生。13歳の次男は組合の識字教育でアルファベットを覚えたよ。」人前で多くを語らないヴィセンティさんにとって、最大の困難は、信頼を寄せてくれるメンバーが言いたい放題要求をつきつけてくること。それでも本人の信念は強い。「自分たちが死ぬまで組合を存続させて、その後を子どもたちに引き継ぎたい。ひとりで多くのことはできないが、みんなで力をあわせればきっとなにかできる。子どもたちのために、いまは苦労が多くても組合は手放したくない」。

(2009年)

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