コーヒー生産者支援 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Fri, 21 Sep 2018 09:51:52 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 アジャイとのお買い物 https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/13207/ Wed, 09 May 2018 08:28:50 +0000 https://www.parcic.org/?p=13207 コーヒーチームはコーヒーの収穫期を前に、集落にいってアフリカンベッドを作っている。
アフリカンベッドというのはアフリカ人が寝るベッドではなくて、収穫したコーヒー豆を乾燥させる台のことだ。
高さは1mくらいで、幅90cm×長さ6mの木枠を作り、その上にネットを張る。
ネットの上にコーヒー豆を広げて乾燥させるのだ。

完成したアフリカンベッド。オレンジ色のTシャツがコーヒーチームのリーダーのネルソン

完成したアフリカンベッド。オレンジ色のTシャツがコーヒーチームのリーダーのネルソン

お調子者のアジャイがマウベシの市場に行こうと誘ってきた。
アフリカンベッドに使うネットを買いに行くのだという。
コーヒーチームのリーダー、ネルソンからネットのことは聞いていたので一緒に行くことにする。

なぜ僕が行くのかというと、事務所の現金を管理しているからだ。
スタッフはお金が必要になると、僕のところにもみ手をしながらやってくる。
たまにスタッフには僕の顔が$に見えているのかもしれない、と思うことがある。

事務仕事をするアジャイ。見ての通り左利きだが、ティモール人は左利きが多い気がする。計画を立てずに直感で動くのはそのためだろうか。

事務仕事をするアジャイ。見ての通り左利きだが、ティモール人は左利きが多い気がする。計画を立てずに直感で動くのはそのためだろうか。

ネルソンは

「俺の体にはコーヒーが流れてるんだ。ほら、腕を切ってみろ。コーヒーがあふれだすぜ!」

といっているコーヒー狂だが、人柄はまともでしっかりしている。
そのネルソンからアフリカンベッドに使うネットは2種類あって、ひとつはプラスティック製、もうひとつは金網だと聞いていた。
プラスティックの方はディリから持ってくるので、マウベシで買う必要があるのは金網だという。

マウベシの市場で金網を売っているのは雑貨屋だ。
いくつかある雑貨屋の中でも、品ぞろえが豊富なのは中国人が経営している店である。
中国人は朝から夜まで定時で店を開けているし、探しているものをうまく説明できなくても、スマホで画像検索をして

「これじゃないか?」

と見せてきたりする。
とても商売熱心な人たちなのだ。

マウベシ市場の雑貨屋。中国人経営のものは4軒ほどある。ティモール人の中で商売をしている中国人にはたくましさを感じる。

マウベシ市場の雑貨屋。中国人経営のものは4軒ほどある。ティモール人の中で商売をしている中国人にはたくましさを感じる。

それに比べてティモール人の店は開いていたりいなかったり、開いていても店の人がいなかったりで、不安定なことこの上ない。
やる気があるのかもわからない。
領収書を頼むと、緊張のためか手が震えだして、数字に意味不明なカンマをつけたり、0がやたらと多かったりする。
領収書1枚もらうのにもスリル満点だ。
そんなわけで買い物をするときは、最初に中国人の店に向かうことになる。

金網はすぐに見つかったのだが、アジャイに聞いても

「ちがう。これじゃない」

という。
店員にも聞くが、アジャイが探しているものはないらしい。
何軒かそんなことを繰り返したら、雑貨屋に行きつくしてしまった。
マウベシにはないな、と判断して事務所に帰る。

ティモール人は書く時にノートなどを90度傾ける人が多い。本は傾けずに普通に読んでいるので書くとき限定のようである。

ティモール人は書く時にノートなどを90度傾ける人が多い。本は傾けずに普通に読んでいるので書くとき限定のようである。

事務所でネルソンと話して判明したのだが、アジャイは金網ではなくプラスティック製のネットを探していたらしい。

「マウン・ダイにも金網だって説明してあるぞ」

とネルソンはいうが、アジャイは

「マウン・ダイは理解してないんだ」

と答えている。
これには温厚で名高い(本当か)僕もさすがにカチンときた。

「俺は店であれだけ何度も、『金網は必要ないのか?』って聞いただろうが」
「プラスティックのがいるのかと思ったんだよう」
「それはディリにあるんだよ。ここで買わなきゃならないのは金網なんだよっ」
「まあ、また買いに行けばいいじゃないか」
「それもそうだな」

というゆるい言い合いの後、市場に戻って金網を買った。
領収書の数字も合っていたし、変なところにカンマもついてなかった。
金網を買うだけで一時間もかかってしまったが、お買い物を終えたアジャイは、大仕事を成し遂げたかのように上機嫌だ。

「バクソ(肉団子スープ)でも食べていくか? マウン・ダイのおごりで」

とか言っている。

東ティモールは水道やガスのインフラもまだ整っていない貧しい国だ。
店に人がいなかったら探しに行かなければいけないし、物価もほかの東南アジアの国に比べたら高いかもしれない。
でも、ふんふんと楽しげに鼻歌を歌っているアジャイを見ているようなとき、ティモール人になりたい、と思うことがある。

先日馬を見ていてひらめいたのだが、馬のたてがみは首を冷やさないためにあるのではないだろうか。おしゃれ目的ではないと思う。

先日馬を見ていてひらめいたのだが、馬のたてがみは首を冷やさないためにあるのではないだろうか。おしゃれ目的ではないと思う。

(東ティモール事務所 大島 大)

 

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インターン日記:フェスティバル・カフェ・ティモール / Festival Kafe Timor https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/12627/ Tue, 21 Nov 2017 09:58:18 +0000 https://www.parcic.org/?p=12627 Festival Kafe Timor がマウベシにやって来た。このフェスティバルは去年から始まったコーヒーの祭典である。去年は首都のディリだけで行われたが、今年は開会式をエルメラ県のファトゥベシ、そして閉会式をマウベシ、その間の1週間にディリや各地で関連イベントと、コーヒー産地を巡業するように企画された。コーヒーの品評会も行われ、ティモールNo.1のコーヒーも決まる。このフェスティバルは、東ティモールコーヒーをより多くの人に知ってもらうこと、コーヒーの品質向上そしてコーヒー生産者に畑の手入れの大切さを伝えることを目的として行われている。

私は、マウベシで行われる閉会式の主催者の一人としてこのフェスティバルに関わらせてもらった。そもそもなぜ、今年閉会式がマウベシでそして、主に地方でフェスティバルが行われたかというと、“首都のディリで行われたために参加者に外国人が多く、東ティモール人ではなく、外国人のお祭りになってしまった”という去年の反省があったからだ。その反省を活かし、地元住民にフェスティバルにより来てもらうのはもちろんのことの他にも2つ、私は目標を立てた。

1.コーヒーが最高にかっこいいものであることを生産者に伝える
2.地域の人たち、特に子どもたちと一緒にフェスティバルを作る

これが、私の中でのフェスティバルのテーマであった。

まず“コーヒーが最高にかっこいいものであることを生産者に伝える”ことについて、なぜそのように思ったか。

これまでコーヒーの集荷で数多くの集落を回り、たくさんの生産者たちと話をしてきた。そのなかで必ずしもすべての生産者が、自分がコーヒー生産者であることに誇りを持っているわけではないと気づいた。生まれた時から、コーヒー畑があり、コーヒーと共に生まれ育った彼らにとって、コーヒーに特別な感情を持たないのは普通かもしれない。しかし、マウベシのコーヒーは世界に誇れるコーヒーであるし、そもそもコーヒーというものに関わっていること自体が誇れることだということを生産者に知って欲しいと思ったからだ。そこで、フェスティバルでカッピングのワークショップを企画した。カッピングとは、ワインにおけるテイスティングのようなもので、コーヒーの味や品質の良し悪しを総合的に判断する方法である。そして、このカッピングをする姿、これがかなりかっこいい。様々な地域で作られる数種類のコーヒーを用意し、まず東ティモール人のカッパーたちにカッピングを披露してもらった。その姿にコーヒー生産者のみならず、農水省の大臣も釘付けになっていた。

カッピングの様子

カッピングの様子

カッピングを観覧する農水省の大臣(最前列左から2番目)

カッピングを観覧する農水省の大臣(最前列左から2番目)

そのあとに、生産者たちにもカッピングを体験してもらった。普段、自分が作っているマウベシのコーヒーしか飲まないコーヒー生産者にとって、カッピングを通して、他の地域で作られているコーヒーとマウベシのコーヒーを比較するのは初めてだったであろう。地域によって、製法によってコーヒーの味が異なるということに驚きの表情を浮かべるコーヒー生産者を見ることもできた。

このワークショップに、予想をはるかに超えるほど多くの人が関心を持って参加してくれたことに胸が熱くなりっぱなしであったが、特に、コーヒー事業スタッフのネルソンが堂々とカッピングについての説明をし、それを農水省の大臣と生産者たちが聞き入っていたのには感動した。

このカッピングを通して、もう一度自分の仕事、コーヒー生産者であるということを考え直す機会となったら嬉しい。また、コーヒーがかっこいいものであるということに気づいてもらえたら尚嬉しいことだ。

カッピングの説明をするスタッフのネルソン

カッピングの説明をするスタッフのネルソン

次に“地域の人たち、特に子どもたちとフェスティバルを作る。”についてである。私はこのフェスティバルを自分たち実行委員だけで作り上げるのではなく、マウベシに住む地域の人たちと共に作り上げ、盛り上げたいと思っていた。特に、地域の子どもたちに参加してもらいたいと思った。そこで、巨大モザイクアートを作り、フェスティバルで飾ろうと決めた。モザイクアートとは、既存の画像を小さく分解して、エクセルのデータに変換して、その指示通りに色を塗り、それらをつなげることで、1枚の絵に仕上げるというものである。コーヒー生産者協同組合コカマウの初代代表、ヴィトリーノさんをモデルにした今回のアートは、縦に14枚、横に14枚、合計でA4用紙が196枚も必要だった。1枚の紙を仕上げるのに約30分必要とするこのアート、作り始めたのが本番の5日前ということもあり、本当に間に合うのか、という否定的な意見もあった。が、絶対に作りあげると心に決めた。教会の神父さんを訪れ、教会で勉強している子どもたちとこのアートを作る時間をもらったり、AHHA英語学校に行き、そこの生徒と一緒にアートを作り行ったりもした。このアートは、すべてのパートを組み合わせて初めて絵になるというもの、色を塗っている段階、塗り終わっても正直何が何だかよくわからない。それでもみんな丁寧に塗り、1枚終わると「もう1枚やりたい!」と言って手伝ってくれた。

モザイクアートを手伝ってくれた子どもたち

モザイクアートを手伝ってくれた子どもたち

子どもからペンと紙を奪い取ってまで熱中する教会の先生と奪い取られた子ども

子どもからペンと紙を奪い取ってまで熱中する教会の先生と奪い取られた子ども

最終的に、196枚のうち1枚も欠けることなくアートが集まり、縦4メートル×横3メートルのモザイクアートがフェスティバル当日の明け方にギリギリ完成した。特に、パルシック水事業担当スタッフのアデリーノの助けは大きく、毎晩遅くまで色塗りを一緒に手伝ってくれた。準備の最終日、コカマウの農家の人たちにもモザイクアートを手伝いに来てもらったが、その時私は手が離せなく、アデリーノに農家の人たちに色塗りの仕方を説明するようにお願いした。彼は、年配の人達に教えるのが恥ずかしいのか、嫌だと言ったが、「頼む!」と半ば強引に押し付けた。10分ぐらいして自分の仕事が終わり、彼らの様子を見に行ってみると、アデリーノが農家の人たちに、笑顔で教えていて、上手く色塗りしている農家の人に「そうそうそうそう!!」と言って、優しく接していた。普段見ることのできないアデリーノの一面を見ることができた。

フェスティバル当日には、アート作りを手伝ってくれた子どもたちも来てくれ、自分たちの作ったアートに感動した様子で、自分が色を塗ったパートを探す子もいた。

モザイクアートとモデルになったビットリーノさん(左から4番目)

モザイクアートとモデルになったビットリーノさん(左から4番目)

この閉会式のために1か月前から準備を開始したが、インターナショナルゲストを含め600人の来場者があった今回のフェスティバル、時間に追われる場面が多々あった。しかしそんな時にこそ、パルシックスタッフのみならず、コカマウのメンバーや地域の人の助けがあった。会期は朝から晩まで、フェスティバル終了後の後片付けまで、一生けん命共に汗を流してくれた。今回の閉会式はたくさん反省点もあったが、一人でも多くの人がコーヒーについて考え直すきっかけになったらうれしいし、来年もまたマウベシでフェスティバルが行われればこれほど喜ばしいことはない。

(マウベシ事務所 インターン 煙草将央)

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コーヒー2015年豆、日本へ向けて出荷しました! https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/9156/ Mon, 07 Mar 2016 09:42:32 +0000 https://www.parcic.org/?p=9156 新コーヒー加工場ではじめて加工したコーヒー豆を、2016年2月初旬、日本へ向けて出荷しました。

コカマウ[i]に加入する18の集落の中から、標高が比較的高い6つの集落を選んで、集落別にロット分けをしました。これまでも、集落ごとの特徴を引き出すために集落別の出荷を試みたことはありましたが、時間と手間がかかる作業に委託先の工場スケジュールを抑えることができませんでした。

コーヒー豆の計量チェックをする工場長のネルソン

コーヒー豆の計量チェックをする工場長のネルソン

集落別にコーヒーを飲み比べてみると、コカマウの中にもいろいろな特徴があることがわかります。標高や土壌、気候といった環境による違いから、コーヒーの木の樹齢、手入れ具合といった畑の違い、収穫後の加工の仕方もコーヒーの味に影響します。それぞれの集落で、生産者のみなさんがどんなふうにコーヒーを栽培、加工しているのか、消費者のみなさんにも想像しながら飲み比べていただけたらと思います。

新加工場では比重選別機で欠陥のある豆を選り分けてくれるため、加工の最終段階、女性たちによる手選別に大きな労力を払わずとも良い状態でコーヒーを出荷することができます。この設備をもっと多くのコーヒー生産者組合のために活用したいと考え、各地の生産者組合を訪ねて調査を開始しました。東ティモールでは、組合として組織されていないコーヒー生産者のほうが圧倒的に多いのが現状ですが、新加工場から各組合の多様なコーヒーを多様な市場に届けることで、コーヒー生産者組合の組織化、ひいては生産者たちの経済的自立につなげていきたいと思います。

(東ティモール事務所 伊藤淳子)

[i] COCAMAU:Cooperativa Agrikultura Moris Foun Unidade Kafe Nain Maubisse=マウベシ・コーヒー生産者協同組合

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コーヒー二次加工場が完成しました! https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/9147/ Sun, 15 Nov 2015 09:20:59 +0000 https://www.parcic.org/?p=9147 2015年8月27日、首都ディリでコーヒー二次加工場の開所式を行いました。

加工場内には不純物の除去から脱殻、比重選別、サイズ選別が一つのラインでできる機械一式を設置し、毎時一トンのコーヒー豆を処理することができます。2002年にコーヒー生産者支援を始めてから13年の歳月を経て、ようやく高品質のコーヒーを出荷するために欠かせない設備を整えることができました。

 

TL_20151115_a

開所式では機械のデモンストレーションも

開所式には環境通産省副大臣や農水省商品作物&コーヒー局長、在東ティモール日本大使やJICA東ティモール事務所長など、これまでお世話になった公職の方々も列席くださり、お祝いと励ましの言葉をいただきました。

また日本からはゼンショーホールディングス・フェアトレード部からはるばるご参加をいただきました。このような晴れの日を、コーヒーの品質向上や組合運営にまつわる試行錯誤を共にし、苦労と喜びを共にしてきた生産者組合のみなさんやNGOの仲間たち、市場となって支えてくださっているお客様と一緒に祝うことができ、わたしたちにとって新たな節目となりました。

2015年はコーヒーが不作で、国際市場価格も下落傾向にあり、生産者にとっては経済的に苦しい年です。10月に入り、コハル[1]、コカマウ[2]から順次コーヒー豆が新加工場に入荷しています。生産者のみなさんの大切なコーヒーを、新加工場の機能を確認しつつ丁寧に加工していきたいと思います。

 

コーヒー畑再生のため、昨年台きりしたコーヒーの木

コーヒー畑再生のため、昨年台きりしたコーヒーの木

(東ティモール事務所 伊藤淳子)

[1] KOHAR :Kooperativa Hamriik Ho Ain Rasik = 自立発展協同組合

[2] COCAMAU:Cooperativa Agrikultura Moris Foun Unidade Kafe Nain Maubisse=マウベシ・コーヒー生産者協同組合

※この事業は、 Secretariat of Pacific Community の助成を受けて実施しています。

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ヴィセンティ・マリア・ソウザさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11940/ Sun, 28 Jun 2015 05:34:01 +0000 https://www.parcic.org/?p=11940

ハトゥカデグループの会計を担当しているヴィセンティさんは、バリトンの声がとっても魅力的。ひと回りも年下の妻ロザさんとの間に上は21歳から下は5歳まで、11人の子どもがいます。おしゃべりな代表、富農の副代表と並ぶと寡黙なヴィセンティさんの頼もしさがなぜか引き立ちます。毎年メンバーに提出を義務付けている生産者アンケートは、文字の読み書きのできないメンバーから聞き取ってヴィセンティさんが代筆します。「メンバー一人ひとりを探して家まで行くのは大変」といいながら、美しい筆致でどこよりも早くアンケートを提出してくれます。

ハトゥカデ集落生まれのハトゥカデ育ち。生い立ちを聞こうと手始めにご両親の名前を聞いたところ、11歳のときにお母さんを亡くし、実父は後妻をとった、ヴィセンティさん自身は祭りごとに差し出す財産の代わりに親戚に差し出され養父母のもとで育った、と大変に複雑。理解力がついて行かずに断念しました。

組合に加入する前と比べて生活に大きな変化はないけれど、コーヒーについてはだいぶ変わったといいます。「以前は家の近くまで買いに来る仲買人にパーチメントで売ったり、チェリーを村の中心まで運んで売っていた。いまは自分たちの組合があるから近くで計量できるし、遠くまで重たいコーヒーを担いでいかずに済む」。運営については慎重です。雑貨屋を建てようという副代表の強い呼びかけを表向きは支持しながら、メンバーやパルシックに「雑貨屋に資金は出さない方が良い」と根回しをし、コーヒー収穫終了後の農業資金としてメンバーに30ドルずつ貸付けるという別案を通しました。

妻のロザさんはハトゥカデ女性グループの代表を務めています。はちみつやハーブティの生産を通じて女性たちが集えることが楽しいといいます。ロザさんの出向くところには常に寄り添うヴィセンティさん。美しすぎて疑いたくなるほどですが、ハトゥカデからマウベシまで歩いて4時間「遠いから」という理由でほかのメンバーの夫ではなく必ずヴィセンティさんがガード役で付いてきます。女性が出ていく用事が増えるとどうしても気になるのは夫の理解です。「女性グループのほうはようやく軌道に乗って来たかな」と評価をするヴィセンティさん。家を空けることが増えて大変ではないですか、との問いに「教えてくれることは学んだ方が良い、女性でも」とためらうことなく答えました。ヴィセンティさんの夢は、道路や水へのアクセスの良いところに家を建てること。「これからもコーヒーはずっと送り続ける。わたしたちの状況につねに関心を払い続けてほしい」とのメッセージをいただきました。

(2011年10月)

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ヴィトリノ・ペレイラさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11937/ Sun, 28 Jun 2015 05:33:23 +0000 https://www.parcic.org/?p=11937

16人の子どものお父さん(うち5人は死亡)。グループの中では年長者で、小学校の先生だったこともあり、グループ内のもめ事に常に穏やかに立ち振る舞う人です。

1972年、職を求めてディリに下り、トゥリズモ・ホテルで働いてポルトガル語を学びました。74年に、ポルトガルからの即時・完全独立を訴える「東ティモール独立革命戦線(フレテリン)」のメンバーとなります。75年12月7日にインドネシア軍がディリに侵攻、ヴィトリノさんの部隊はディリ、アイレウ、 マウベシへと次第に山の中に追いやられました。79年に、とうとう山を越えて南海岸のベタノまで来ます。そこで生涯の伴侶となるマリア・エステラさんと出会います。しかしインドネシア軍に捕まり、投降。ヴィトリノさんはマリアさんに両親のもとに留まるように言いましたが、マリアさんは「どこまでも着いて行く」とヴィトリノさんとともにマウベシまでやって来ました。

マウベシに戻されると、インドネシア軍からの拷問が待っていました。森の中で体中を縛られ、監視されながら数日間放置されました。「このまま死ぬ苦しみを味わされるなら、いっそ一突きに殺してくれ、と監視していたインドネシア兵に言いました。するとインドネシア兵のほうがひるんで紐を解いたのです。」

現在のヴィトリノさんは、長身痩躯に短髪のすっきりとしたスタイルですが、当時は腰まで届く長髪、ひげも長く伸びたままでした。ある日、マウベシ市場のバスケット場に連行され、後ろ手に縛られたまま座らされました。群衆の見守る中、インドネシア兵はヴィトリノさんの長いひげをタバコの火で燃やしました。「お前はお前たちの大統領、スハルトのために戦っている。俺たちは俺たちの大統領のために戦うんだ、とそのインドネシア兵に言ってやった」(ヴィトリノさん)。当時まだ2歳だったヴィトリノさんの末の弟を抱いて、マリアさんもその光景を見ていたといいます。

83年には子どもも生まれ、職を得るために教員になろうとディリで研修を受けます。85年から99年まで、スアイ・アイナロ・マウベシで小学校の教員として働きました。99年の住民投票後、2001年に教員採用試験が実施されました。ヴィトリノさんは試験に合格し、3か月分の給与をもらいましたが、赴任するはずの小学校には試験に落ちたほかの教員が入りました。

「東ティモールの教育省は、すでに縁故主義の温床。教育省にアイナロ出身の役人がいるから、マウベシの小学校にまで試験に落ちたアイナロの人間が教員として教えに来ている。ポルトガル語のレッスンを受けながら子どもたちにポルトガル語で授業をしている彼らより、自分のほうがよっぽどポルトガル語が話せる。しかし教育の質で教員が採用されない。インドネシアの悪い習慣がいまだに残っている。そんな環境で働くより、農業に戻ってこうしてNGOと活動するほうがいい」とヴィトリノさんは言います。

ルスラウ集落にはヴィトリノさんの次の世代、99年当時「東ティモール民族解放軍(ファリンティル)」の兵士だった若者が3人います。兵士でなくても、多くの人が独立闘争を自分がどう支持してきたかの武勇伝をもっています。彼らが東ティモールの未来に希望を持ち、子どもたちに夢を語れるような現在を、共に生きたいと思います。

(2008年)

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アルフレド・アルベルト・カルロスさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11934/ Sun, 28 Jun 2015 05:32:37 +0000 https://www.parcic.org/?p=11934

副組合長を二期務めたのち、2009年度の選挙で二代目組合長に選出されたアルベルトさん。組合へのリーダーシップトレーニングに参加して以来「リーダーとは‥」のセリフで代表者たちを叱咤激励してきました。小柄で早口かつユーモラスな語りでコカマウを率いるアルフレドさん。彼の生い立ちを聞いて、彼の明るさの裏側を垣間見たような気がしました。

75年のインドネシア軍侵攻時、アルフレドさんは、東ティモールの独立闘士フレテリン兵士の「逃げないと殺される」という言葉に、両親、兄弟らとともに山中に逃げました。しかし、アルフレドさんだけ親戚に連れられ投降。ディリでしばらくすごしたのち1979年マウベシの出身集落クロロに戻り、両親も兄弟も山中で死亡したことを知らされました。その時、アルフレドさんは12歳の少年でした。

「投降したら殺されると思っていたのに、連れていかれた収容所では山では食べられなかった食事が出された。投降した自分だけが生き延び、両親は野垂れ死にだったと聞いている。遺骨もなかった」。以来、クロロで親戚と暮らし中学校を卒業。現在は5児の父であり、2006年からはクロロ集落の集落長もつとめます。

「組合員の25パーセントは組合を理解し始めている。残りの75パーセントが問題」――こう持論を展開する彼は、四分の三の大多数に組合を理解してもらうため、組合員の現金が底をつき、空腹を抱える時期にトウモロコシなど食料を貸し付ける事業を始めました。安く放出される政府米を組合で購入して遠隔地に住むひとたちへ販売し、組合の収益を増やすということも始めました。

アルフレド組合長の問題解決の手法には、争いをいさめる彼らなりの流儀というのを学ばされます。間違いを正すのではなく、正さないことで相手の羞恥心に訴えかける、という方法です。それで本当に解決されるのか、時間がたってみないとわからないというのが問題ではありますが、真っ向から間違いを指摘しては亀裂を深める組合員たちの性質をよく理解しているからでしょう、決断を下すアルフレド組合長は常に自信に満ち溢れています。

そして事務局には「毎月の会計報告をきちんと提出するように」と指示するなど、アルフレドさんのリーダーシップのもとに、コカマウが動き始めています。

(2009年)

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ヴィセンティ・ダ・コンセサオン・シルバさん https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/voice_coffee_producer/11931/ Sun, 28 Jun 2015 05:31:47 +0000 https://www.parcic.org/?p=11931

ヴィセンティさんは、2003年にクロロ集落(26名)がグループを結成したときから毎年、グループの代表に選ばれています。08年1月の選挙で5回目の再選が決まったとき、あまりの荷の重さに涙を流してメンバーに協力を仰ぐ姿が印象的でした。

無口で人望の厚いヴィセンティさん。実はクロロ集落の出身ではありません。1968年、クロロの隣集落ハトゥブティで、6人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは街に住むポルトガル人の家で料理人をしていました。中学校を卒業したヴィセンティさんは、89年にインドネシア公務員の資格を得、軍人や公務員へ支給されるコメの倉庫管理をしていました。クロロ出身のドミンガスさんと結婚し、彼女の家族の畑があるクロロに移り、クロロの「マネ・フォウン(テトゥン語で婿の意味)」となったのです。15歳を筆頭に8人のこどものお父さんでもあります。

インドネシア時代と現在の生活をヴィセンティさんは次のように語ります。「インドネシア時代はなんでも物価が安かった。1ドル分の米でも馬で運ばなければならないくらい重たかった。いまは10ドルでも自分で抱えられるほどしか米が買えない。一方でコーヒー価格は下がり、生活は苦しくなった。東ティモールは独立しても自国通貨をもてずにいるのは皮肉だ。」

ではインドネシア時代のほうがよかったか、というと「いやいや、まだ始まったばかり、これからだよ」とやさしい笑顔。組合にかける想いを語ってくれました。「組合に参加する前は、摘んだコーヒー・チェリーを遠くまで売りに行かなければならなかった。馬に乗せてようやく計量場までたどり着いたら、コーヒーが腐ってしまってそのまま持ち帰らされたこともあった。いまは自分たちの集落内で自分たちの手でコーヒー加工ができる。随分と楽になった。」「組合をより 発展させるために、コーヒー以外の野菜や豆類も共同出荷してみたい。クロロでは豆は年に2回収穫できるし、種芋を10名くらいで分けて栽培してみたら、水遣りさえできればじゃがいもが品薄になる11月ごろに良い値で売れることもわかった。」

ヴィセンティさんにとって、組合とは、子どもたちに遺せる未来だといいます。「子どもたちの将来にとって一番心配なのが、学校が遠いこと。小さい子どもたちは通学途中にお腹がすいてしまう。学校に行かせるには親が送り迎えをしなければならないが、畑仕事もあってままならない。15歳の長男がようやく小学校2年生。13歳の次男は組合の識字教育でアルファベットを覚えたよ。」人前で多くを語らないヴィセンティさんにとって、最大の困難は、信頼を寄せてくれるメンバーが言いたい放題要求をつきつけてくること。それでも本人の信念は強い。「自分たちが死ぬまで組合を存続させて、その後を子どもたちに引き継ぎたい。ひとりで多くのことはできないが、みんなで力をあわせればきっとなにかできる。子どもたちのために、いまは苦労が多くても組合は手放したくない」。

(2009年)

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パルシック自前のコーヒー二次加工場を建設中! https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/9144/ Fri, 30 Jan 2015 08:59:28 +0000 https://www.parcic.org/?p=9144 東ティモールのコーヒーをより良い状態で市場へ出荷するために、2015年1月、ディリで自前のコーヒー二次加工場の建設を開始しました。

2015年度から、コーヒー生産者協同組合から買い取ったコーヒーパーチメントは、この工場で脱殻、選別、袋詰めをしてから船積みすることになります。建設にあたっては、用地の選定、加工場建設作業、専用の機械購入から設置まで、すべてが新しい経験で文字通り右往左往の日々ですが、積年の夢がいよいよ実現するとあって、コーヒー事業担当スタッフたちは週末も返上して作業を進めています。

この二次加工場を通じて、東ティモールのさまざまなコーヒーを世界各地の市場へ提供できるようになると同時に、東ティモールのコーヒー生産者協同組合の発展をさらに支えていきたいと夢見ています。本格稼働は今年のコーヒーシーズンが始まる7月以降の予定です。

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ディリにあるコーヒー二次加工場の内部。手前に見える機械はコーヒー豆のサイズ分けをするもの。

(東ティモール事務所 伊藤淳子)

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2013年ニュークロップ、一次加工が進行中 https://www.parcic.org/report/timor-leste/timor_coffee_producer/4699/ Fri, 06 Sep 2013 02:20:06 +0000 https://www.parcic.org/?p=4699 マウベシでのコーヒー集荷は、例年8月がピークになります。今年は、一番早いグループでは6月1日から加工をはじめる予定にしていました。ところが、5月・6月は雨が一段落し雨期が終わったかなあと思うと、再び大雨が続く毎日で、なかなか収穫・加工をはじめることができませんでした。長雨はマウべシだけでなく、東ティモール全土に影響を与え、6月の大雨では南部地域で洪水のため3名の命が奪われました。道路はあちらこちらで、陥没や土砂崩れが起こり、パルシックスタッフも悪路と闘いながら、集落を訪問していました。

土砂崩れで寸断された道路

土砂崩れで寸断された道路。この日、スタッフは集落を訪問できず、引き返すことに

7月中旬になってやっと雨も落ち着き、毎年監査を受けているJAS有機認証の現地調査も無事に終了しました。監査日程がもう1週間早ければ、大雨が続いており、訪問できる集落はかなり限られるところでした。

昨年のコーヒーは大豊作で、組合員の中には3千ドルの収入を得る強者も出ました。しかし、大豊作の翌年は裏作となり、収量が落ちてしまいます。加えて、季節はずれの大雨の影響で、せっかく赤く色づいたチェリーも収穫することができず、地面に落ちてしまうものが多く出ました。そのため、悲しいことですが、今年の収量はかなり減る見込みです。さらなる追い打ちは、コーヒーの国際市場価格が昨年12月から下落傾向にあり、コーヒー農家にとってとても厳しい年となりそうです。

コーヒーの実(チェリー)を加工場まで運ぶ家族

コーヒーの実(チェリー)を加工場まで運ぶ家族

 

摘み取ったコーヒーを脱肉する組合員

摘み取ったコーヒーを脱肉する組合員

しかし、そのような逆風にも負けることなく、組合員たちはチェリーの収穫・パーチメントへの加工を懸命に行っています。そして、倉庫にはすでに68トンが集まっています。一番の繁忙期の8月が過ぎ、集荷量は少しずつ減ってきていますが、それでも先週から今週にかけて16トンを集荷しました。

ディリ倉庫で二次加工を待つパーチメント

ディリ倉庫で二次加工を待つパーチメント

先週からはマウベシの倉庫からディリの倉庫にパーチメントの運搬も開始、パーチメントからグリーンビーンへの二次加工の準備をしています。第一陣の二次加工は今月中旬からの予定です。パーチメントを機械で取り除き、その後女性たちがハンドピックで生豆を丁寧に選別します。そうして選ばれた豆が麻袋に詰められ、輸出の準備が整います。新豆を日本の皆さんに向けて送り出すまであともう少し。そして新豆は長い船旅を経て、日本に到着します。どうぞお楽しみに。

(東ティモール事務所 高橋茂人)

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