学ぶ – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Thu, 28 Jan 2021 08:37:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 レバノンの山田君 ~インターン日誌~ Vol.7 休日の過ごし方 https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/17715/ Wed, 16 Sep 2020 05:50:27 +0000 https://www.parcic.org/?p=17715 みなさんこんにちは。レバノン事務所(元)インターンの山田です。

日本に帰国しておよそ9か月が経過しました。現在は東京にあるパルシックの事務所で、インターンをしています。
新型コロナウィルス、債務不履行(デフォルト)、ベイルート爆発事故などを経て、レバノンは大きく様変わりしてしまいましたが、インターン当時を振り返り、レバノンでの生活を懐かしむために、この日誌を更新していこうと思います。

今日は、休みの日の生活について。

「中東なんかで働いて、休みの日何してるの?国内旅行以外することなくない?」
レバノン滞在中、日本の友人によく言われていました。
東京とは違い、たしかに渋谷や池袋のような繁華街はありません。
それでも私が、レバノンでスクランブル交差点の雑踏を恋しく思うことはありませんでした。

ここでは、週末の過ごし方を一部ご紹介します。

まずは首都ベイルートの散歩から。あまり大きな都市ではないので、バスや自分の足で一日あればすべて見て回ることができます。
古い街並みやおしゃれなブティック、海沿いの並木道を歩けば、エリアによって全く異なる姿を楽しめるのも、ベイルートの魅力の一つです。

私のお気に入りは、海に面したレストラン。暑い夏の日に、波しぶきを間近に感じることのできるテラス席で、大好きなミントレモネードをいただきます。

家から徒歩10分の場所にある博物館に行くこともしばしば。

鉱物博物館と呼ばれる、こじんまりとした建物には、世界中から集められた貴重な鉱石が所狭しと飾られています。
暗室で光り輝く色とりどりのクリスタルや結晶の展示は、鉱石に興味のない文系の私でも惹き込まれるものばかりでした。

毎週日曜日には、ベイルート近郊のパレスチナ難民の子ども達と一緒に、サッカーをします。
子ども達のエネルギーに圧倒されて、終わるころにはへとへとに。

私はアラビア語がまったく喋れませんが、言語が通じなくても一緒にサッカーをすることでコミュニケーションが取れる、貴重な経験でした。
またみんなに会いに行きたいな。
次会うときには、背が伸びてサッカーももっと上手になっているでしょうか。

ベイルートの外に出ることももちろんあります。

国土が小さい(岐阜県と同じ大きさとよく形容されます)ので、中央に位置するベイルートから南北の様々な街まで、大体二時間強あれば行くことができます。

世界遺産の遺跡を訪問したり、友人とドライブに行ったりしました。
北部の都市トリポリに住む知人に会いに行くこともあれば、きれいなビーチでゆったりと過ごすために南部のリゾート地スールという街へ行くことも。
スールは地中海を代表するビーチとして知られています。私は10月末まで海で泳いでいました。

その他にも、ベイルートのバーで友人と歓談したり、レバノン産の珍しいお酒を飲みながらパーティーしたり、とにかく濃い毎日を送っていました。

 そんなベイルートは、84日の爆発事故で大きな被害を受けました。
美しかった街並みは一変し、国籍関係なく多くの死傷者を出すなど、厳しい状況に置かれています。
友人に連絡を取ると、幸いなことに全員無事でしたが、それでも何人かの家は壊滅的なダメージを受けてしまったそうです。

 パルシックは現在、ベイルートで被災者への食糧バスケットの配布を実施しており、皆様からのご寄付でレバノンでの支援を行っています。

皆様のご理解とご協力を、どうかよろしくお願いいたします。

ご寄付のお願い

【ベイルート大規模爆発レポート】#4 皆さまからのご寄付で食糧・衛生用品の配布を実施しました!

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(山田蒼太)

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COVID-19:ロックダウン下のレバノンにおけるシリア難民の苦境【後編】 https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/16700/ Mon, 27 Apr 2020 08:54:05 +0000 https://www.parcic.org/?p=16700 【前編】からの続き

こんにちは。レバノンの首都ベイルートに駐在中の風間です。前編に引き続き、新型コロナウイルスによる経済への影響や、シリア難民の生活、事業への影響についてお話します。

新型コロナウイルス対応によるロックダウン前のレバノン経済状況

新型コロナウイルス発生前からレバノンはシリア危機以降、不況状態でした。経済成長率は1-2%で推移し、2019年の失業率は25%、25歳以下では37%[1]にもなっていました。過度に輸入に頼る経済構造のため、GDPの550億ドルに対し、その150%の850億ドルの負債を抱え、政府の支出は負債の返済と公務員の給与に消え、毎日3-12時間の停電、ごみ処理が機能しないことによる環境破壊が問題になるなど、基本的な公共サービスもままなりません。一方で、格差は大きく、下位50%の人びとの資産総額が国民所得の約10%しかないにもかかわらず、上位1%が国民所得の4分の1を占めています[2]。そして、こうした問題に対する改革を怠ってきたこと等に対し、国民の不満が爆発し、2019年10月17日以降、道路封鎖、ゼネラルストライキを伴う大規模抗議デモが発生し、経済活動が麻痺した状態が10月から12月にかけて続いていました。

通貨危機も加速します。1ドル=約1,500レバノンポンドの固定レートが、2020年1月から2月にかけては、非公式両替所では2,000-2,400程度で交換されるようになり、多くのレストランなどが廃業に追い込まれました[3]。レバノンでは、レバノンポンドと米ドルの2つの通貨を日常的に使うため、レバノンポンドの暴落は、人びとの生活に大きな影響をもたらします。物価は、昨年10月1日から2月15日の時点で45%も上昇しています[4]。その後、レバノンは3月9日に償還期限を迎えた12億ドルの外貨建て国債の支払いができず、債務不履行(デフォルト)となり[5]、4月に入ってからの交換レートは1ドル=3,000レバノンポンドに達する勢いで、更なる物価上昇が見込まれます。

デモに参加するため、集まった人びと

デモに参加するため、集まった人びと

道路封鎖により、先に進めません

道路封鎖により、先に進めません

【4月27日追記】4月24日、非公式両替所でのレバノンポンドの対ドルレートが4,000ポンド目前にまで下落https://lirarate.com/。多くの在外レバノン人がレバノン国内に住む家族へ送金する際に利用する電信送金の引き出しに関しては、固定レートの1ドル約1,500レバノンポンドでなく、3,625ポンドのレートを適用すると発表したTHE DAILY STAR: Lebanese central bank sets rate of 3,625 pounds per dollar at transfer firms直後でした。

[1] Ghadir Hamdi, Annahar紙 “Unemployment: The paralysis of Lebanese youth”
[2] WORLD INEQUALITY DATABASE, Income inequality, Lebanon, 2005-2014
[3] Yaliban, “785 restaurants shut down, 25,000 employees laid off in Lebanon” 通貨危機により10月以降2月までに785のレストランが閉店。
[4] ASHARQ AL-AWASAT紙,  “Lebanon’s Living Costs Soar over Dollar Crisis”
[5] Dana Khraiche, Bloomberg, “Lebanon to Default on $1.2 Billion Payment, Seek Restructuring”

ロックダウンの影響

こうした状況で、今回の新型コロナウイルスによるロックダウンが実施されています。多くの建設業や農業などの日雇い労働者、その他商店等で日雇いのような形で働いていた人びとは、突然、収入がなくなりました。政府からの保障もありません。急激な物価上昇と多くの世帯が労働収入を失うなか、4月10日に行われたレバノンの国連食糧安全保障セクター会議では、次のようなショッキングな予測が共有されました。

– 2019年のレバノンにおけるシリア危機対応計画(LCRP:Lebanon Crisis Response Plan)では、約80万人とされていた、生きるのに最低限必要な1日当たり2,100キロカロリーを満たす食糧、料理用燃料等を購入するのに必要な金額(SMEB:Survival Minimum Expenditure Basket)以下で暮らすシリア人の人口は、2020年には約120万人に、またレバノン人でもSMEB以下の人口が約40万人から約80万人になる[6]
– その場合、生きるのに最低限の食糧も買えないSMEB以下で暮らす約60万人のシリア難民が、何の支援も受けることができない見込みである。

[6]レバノン人口をざっと600万人(400万人のレバノン人、150万人のシリア人、50万人のパレスチナ難民)とすると、その3分の1が生きるのに最低限必要な食糧すら自力で購入できない状況になるということ。

パルシックの活動

長引く難民生活、経済危機に新型コロナウイルスが追い打ちをかけています。パルシックは昨年11月から開始したベカー県ザハレ郡バル・エリヤス市とバールベック県アルサール市での脆弱なシリア難民世帯への食糧バスケットと灯油の配布を、新型コロナウイルスの影響を受けながらも今年3月まで実施しました。また、バル・エリヤス市において運営している教育センターで、センターに通う子どもたちに給食を提供しました。教育センターは新型コロナウイルスの影響で2月末で閉めざるを得なかったものの、シリアの子どもたちが住むキャンプを主な対象として、衛生用品と食糧バスケットの配布を準備中です。また新規事業として、アルサール市の脆弱なシリア難民に対し食糧バスケットの配布を4月から開始し、イスラム教徒の義務の1つである断食(ラマダン)が開始する4月末に第1回目の配布を予定しています。これらの活動については、また追ってお知らせいたします。

給食を喜びながら食べる子どもたち

給食を喜びながら食べる子どもたち

昨年実施した配布の様子

昨年実施した配布の様子

最後に

日本の皆さんも、6週間の外出制限はいろいろな意味でストレスや負担がかかる時期になるかと思いますが、とにかく皆様のご健康をレバノンより願っています。

(レバノン事務所 風間)

 

 

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COVID-19:ロックダウン下のレバノンにおけるシリア難民の苦境【前編】 https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/16647/ Thu, 16 Apr 2020 10:42:20 +0000 https://www.parcic.org/?p=16647 こんにちは。レバノンの首都ベイルートに駐在中の風間です。

最近(4月第2週時点)のレバノンは、冷たい雨や雪が降る冬は終わり、暖かく天気の良い日が増えてきました。色とりどりのたくさんの花が咲いており・・・(名前を知らないので写真だけ載せておきますね)。ビワも春の代表的な果物のようで、ベイルートの街中にもたまに見かけます。

空き地に咲く色とりどりの花(名前は不明)

空き地に咲く色とりどりの花(名前は不明)

4月末には食べられそう

4月末には食べられそう

実はレバノン、緯度が北緯33度から34度と、日本の高知県から広島県のあたりと重なっています。地中海に面し、山あり高原ありで農業が盛んなレバノンでは、チェリーの栽培も行っているということで「レバノンの桜でお花見をしよう!」と呑気に考えておりました。ところが、世界中で人びとの生活に大きな影響を与えている新型コロナウイルスがレバノンにも拡大し、あれよあれよという間にレバノンで生活する人びとの生活が大きく制限される事態になっています。今回は、そんなレバノンの状況とパルシックの活動をお知らせしたいと思います。

レバノンの新型コロナウイルス感染状況

先にレバノンの最新の新型コロナウイルス感染状況をお伝えすると、全感染者数は4月13日時点で630人、死者は20人と報告されています。ただし、レバノンに暮らす人びとは3月15日に始まったロックダウン[1]を遵守しており、最近では感染者数が徐々に減ってきています。経済危機で医薬品の輸入ですら綱渡り[2]で医療機関のキャパシティーが小さいレバノンにとっては、特に感染のスピードを緩やかにすることが重要で、完全に収束するにはまだまだ時間がかかるものの、これに関してはある程度成功しているようです。

レバノンでのCOVID19感染者数の推移グラフ(2020年4月7日時点)

(出典:Misitry of Public Health Lebanon, WHO, “COVID-19 Surveillance in Lebanon 07 APRIL 2020 UPDATE”, 2020年4月7日)

レバノンにおける新型コロナウイルスへの反応

レバノンで新型コロナウイルスの影響を感じ始めたのは1月末頃でした。私は2019年9月からレバノンに赴任し、それ以来中国や日本など、当時新型コロナウイルスが発生した場所には行っていないため、ウイルスを保有しているとは考えにくい状態でしたが、街を歩くと「コロナ!コロナ!」と叫ばれ、すれ違いざまに口を服で覆って歩く人に出会うといったことがありました。レストランや商店では入店拒否されるのではないかとも考え ―― 実際にはありませんでしたが ――、外出しにくく、ストレスを感じていました。こうした状況は、初めてレバノンで患者が確認された2月21日から数日でピークに達し、差別に反対する中国人留学生がSNSで窮状を訴えたことも話題になりました[3]

レバノンにおける新型コロナウイルスへの対応

レバノン国内で感染が確認されたことで、レバノン社会のウイルスへの意識・対応が変わっていきました。レバノンでは、これまで一般の人がマスクをつける習慣はありませんでしたが、マスクや消毒ジェルといった衛生用品を皆が買いに走り、路上で人びとがマスクをつけ始めました[4]。2月29日には、幼稚園・小中高・大学が閉鎖され[5]、3月6日には スポーツイベントやナイトクラブに加え、ジム、映画館、劇場が閉鎖されました。そして遂に3月15日午後から店が閉まり始め、翌16日からレバノン全土でロックダウンが始まりました[6]。更に3月18日からは空路と陸路の国境を閉鎖しています。レバノンにおけるロックダウンは、パン屋やスーパーなどを除き、生活する上で必須ではない店や施設は閉鎖され、一般の人びとの外出は、食品を買いに行くなどのどうしても必要な場合にしか認められていません[7]。例外的に、レストランの一部はデリバリー営業を行っている他、外交官や国連・NGO関係者らの活動は認められています。

パルシック、私の対応

パルシックのレバノン駐在員は3月16日から在宅勤務に切り替え、現地提携団体とはメールや、電話、web会議でやり取りし、事業を継続しています。事業地である非公式シリア難民キャンプ[8]は、栄養状態や衛生環境も良いとは言えず、狭い場所にテントが密集しているため、一旦ウイルスが広まれば一気に拡大し大惨事になることから、パルシック駐在スタッフはそのような自体を懸念して事業地訪問を控えています。

密集するテント

密集するテント

衛生状況が想像できる写真

衛生状況が想像できる写真

私がロックダウンの中、行っているストレス対処法は、食品の買い出しのついでに散歩・軽いランニングをする、おいしいごはんやデザートを作って食べる、部屋でストレッチや筋トレをする、ラジオを聞く、音楽を聴く、映画やドラマを見る、SNSを通して友人らとコミュニケーションをとる、かわいいアラク(この地域の蒸留酒)の瓶に道端でつんできた植物をさす、ベランダで仕事をする、野良猫に鰹節をあげる、です。しかし、それでもいつの間にかストレスが溜まっているようで、集中力が続かない、イライラするといった日もあるのが実際のところです。

人通りのない道

人通りのない道

猫に鰹節をあげる

猫に鰹節をあげる

さて、このロックダウンはウイルスの新規感染者を減らす点では機能しているものの、経済的な打撃は大きく、特に脆弱層の人びとの生活に悪影響が出ています。

【後編】では、新型コロナウイルスによる経済への影響や、シリア難民の生活、事業への影響についてお話ししたいと思います。

[1] 4月10日現在、ロックダウン(都市封鎖)は、4月26日まで延長することが決まっている。
[2] https://thearabweekly.com/lebanon-hospitals-facing-coronavirus-amid-medical-shortages 経済危機による外貨不足で医薬品が不足。 [3] https://www.the961.com/chinese-student-in-lebanon-is-being-harassed-because-of-coronavirus/ 中国人留学生差別
[4] 日本ではマスクを外すとき口の下(あごや首)にずらすことが多いですが、レバノンではおでこにずらしているおじさんをたまに見かけます。また、サイズが合っていない、隙間が空いている、鼻が出ている、といったように基本的な使い方を理解していない人も多く見受けられます。
[5] 子どもの送り迎えの自家用車が減り、近所の渋滞が緩和されたことは良かった。
[6] http://www.naharnet.com/stories/en/270155 ロックダウン開始
[7] https://www.aljazeera.com/news/2020/03/lebanon-shut-airport-restrict-movement-coronavirus-200316101635705.html 国境閉鎖、ロックダウン下の移動制限
[8] 公式に難民を認めていないレバノンでは自発的に作られていった主にテント居住者の難民キャンプを非公式難民キャンプと呼んでいます。

(レバノン事務所 風間)

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レバノンの山田君 ~インターン日誌~ Vol.6 レバノン、若者の革命のエネルギー https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/15694/ Mon, 09 Dec 2019 09:17:23 +0000 https://www.parcic.org/?p=15694 みなさんこんにちは、レバノン事務所インターンの山田です。

現在レバノンでは、国を挙げての大規模なデモが繰り広げられています。今回はその様子を少しだけ紹介したいと思います。

ベイルートの中央銀行前で発煙筒をたく人びと

そもそも抗議活動が起こったきっかけは、1017日に政府が新たな税政策を打ち出したことにありました。国の借金が膨らんでいくのを止めるための緊縮財政政策の一環として、消費税増税などを発表。その政策の1つに、人びとやレバノン事務所の職員も日常的に使用する、スマートフォン用アプリを使った無料通話への課税が含まれていました。この政策が発表されると、その日のうちに大規模デモが国中に広がったのです。

アプリ無料通話への課税などについてはその後すぐに政府から撤回があったものの、デモの参加者は減らず、むしろ日に日に増えていきました。その背景には、低迷する経済と既存の政治体制への大きな不満があるそうです。レバノンでは古くから宗派制度というシステムが導入され、宗派ごとの人口比率に基づいて宗派政党に国会の議席が割り振られ、内閣の役職が分配されています。このシステムが長い間維持されてきた結果、汚職が横行したり一部の特権階級が権力を握り続けたりできる構図が出来上がってしまったのです。国の借金のために人びとに新たな税が次々とかけられ負担が増えていく一方、政治家やごく少数の富裕層が甘い蜜を吸い続ける。その状況を変えよう、今の政権を倒してレバノンを民衆の手で既存の政治家から取り返そうという思いが、人びとをデモへとかりたてました。

首都ベイルートの主要道路や国内のハイウェイは軒並み封鎖され、人びとはベイルート中心部の広場に集結しました。アラブの春の際に各地で叫ばれた「Thawra(革命)」という言葉が再び使われ、彼らは毎晩のように革命を叫んでいます。デモの開始から1か月以上が経ち、勢いは大分和らいだものの、それでも衝突の混乱の中で死者が出るなど、依然として高い緊張状態にあります。

広場に集まりデモを行う人びと

デモ自体は比較的平和なもので、老若男女が参加しています。従来であれば宗派ごとのコミュニティに分かれて固まっていたものが、今回のデモでは宗派の垣根を越え、一様にレバノン国旗を掲げ “レバノン人” というアイデンティティで一致団結しています。南北をつなぐ主要道路170㎞に人びとが一列に並び連帯を示す “人間の鎖” も、国内外で大きな話題になりました。

デモのおこなわれる広場で感じたのは、特に若者の数が非常に多いことです。大学では、教師が自らの意思を発信する機会を求めて授業のストライキを起こせば、学生もそれに呼応して教員と一緒にデモ行進をしていました。自分の友人たちも、皆デモに参加しています。彼らに話を聞くと「レバノンには未来がない。自分たち若い世代には次々に負担がのしかかり、大学はおろか大学院を卒業してもきちんとした職業に就けないことも多い。金持ちが既得権益を手放そうとせず何も変わらないなら、自分たちで立ち上がってレバノンを変えないと。」と話してくれました。

ちなみにレバノンの国の借金は世界第3位です。1位は言わずもがな、日本。彼らの話を聞いていて、国の借金を返すのは自分たち若い世代だということを思い知らされるとともに、レバノンと日本の若者の社会問題に対しての温度差を感じました。

一方、シリア難民はこうした現在のレバノンの「革命」にそこまで大きくかかわっていません。なぜなら、あくまで一時的に滞在しているだけという法的身分に過ぎない彼らにとって、政治に参加することはできないからです。むしろ、道路が封鎖されたり、銀行が閉じてお金が引き出せなくなったり、安全上の理由で学校が一時的に休校になったりと、生活に様々な支障が出ています。そして、今の彼らの大きな関心事は、これからやってくる厳しい冬を乗り越えられるかということ。パルシックはシリア難民が少しでも安心して暮らせるよう食料配布や灯油配布に向けて準備をしていますが、こうした事業もデモの影響を受ける可能性があり、情報を集めながら慎重に活動を続けています。

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(インターン 山田)

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レバノンの山田君 ~インターン日誌~ Vol.5 ベカー高原の教育センター https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/14931/ Thu, 31 Oct 2019 07:02:29 +0000 https://www.parcic.org/?p=14931 こんにちは、レバノン事務所の山田です。

今週は、事業地であるベカー高原の教育センターを訪問しました。この教育センターでは、小学校に入学する前の5歳の子どもたちがアルファベットや数字などの基礎的な教育を受けています。私が到着した際はちょうど休憩時間で、あっという間にたくさんの子どもたちに囲まれて、一緒になって遊ぶことができました。勢いよく握手しようとする男の子もいれば、恥ずかしそうにハイタッチを求める女の子もいたり。全員で束になって自分を倒そうと襲い掛かってきたときには、先生に止めてもらうまで、20人ほどの子どもたちとの激しい「格闘」が続きました。

その後、授業の様子を見学。小さなプレハブで英語や算数を勉強している子どもたちを見ていて、かつて自分が学生NGOで奨学金支援をしていたフィリピンを思い出しました。国籍や置かれている立場は違うけれど、どちらの子どもたちも教育を必要としています。現状のキャパシティでは、NGOによる支援をすべての子どもたちに届けることはできません。あくまで部分的なものかもしれない。けれども、少なくともこの子どもたちには、きちんと支援が届いているんだなと実感しました。フィリピンにもまた行きたいなぁ。

新鮮だったのは、一部の授業で子どもたちにタブレット端末が支給されていたことです。「難民の子どもたちの授業でタブレット!?」という疑問を持った方、私も同じことを感じました(笑)。5歳のころの保育園なんて、遊ぶ・歌う・食べる・寝るしかしていなかった私には、ちょっとした衝撃でした。他団体からの提供で、ゲームや音楽を通じてアラビア文字の書き順だったりを学んだり、一人ひとりの学習状況・理解度をデータで把握できるようにしたんだとか。子どもたちの将来が楽しみになりました。(ちなみに、私が5歳の時にはニンテンドーDSもまだ発売されていません。技術の進歩は恐ろしいですね。)

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(インターン 山田蒼太)

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レバノンの山田君 インターン日誌~ Vol.4  シリア難民とレバノン人の対立 https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/15439/ Tue, 01 Oct 2019 02:36:15 +0000 https://www.parcic.org/?p=15439 「お前の助けたいシリア人ならここにいるぞ。こいつに金をやれ、金をやってシリアに帰ってもらえ。」

国内人口の約5分の1がシリア難民と、人口に占める難民の割合が世界一高いレバノンでは、レバノン人の生活に難民が大きな影響を及ぼしています。上述の言葉は、つい最近あるレバノン人が僕に言ったものです。山岳地帯にある彼の住む小さな村には、シリア内戦以後1,000人もの難民が暮らしているそうです。僕がレバノンでシリア難民の支援に関わっていることを知った彼は、すぐ近くにいたシリア人の男性を馬鹿にするように指さしながら、こう言ったのでした。

ベカー高原を歩くシリア難民の二人。ダマスカス出身だと話してくれた。

ベカー高原を歩くシリア難民の2人。ダマスカス出身だと話してくれた。

ベイルートで生活をしていると、日ごろからたくさんのシリア難民を見かけます。大通りに架けられた歩道橋にはたくさんの難民が座り込んで物乞いをし、水やティッシュを売ろうとする小さな女の子が、交差点で止まった車の間を行きかいます。スターバックスのテラス席に座ると、少年たちがお金をもらおうと何度もしつこくねだってきます。日本のスターバックスでは、難民が他の客に物乞いをしている場面など見たことがありません。しかしレバノンでは、それはよくある当たり前の光景になってしまっています。日々の生活の中でこうした場面に何度も遭遇していれば、そしてそれが8年以上続いていれば、シリア人に対しての不満が出てしまうこともあるかもしれません。

レバノンではシリア難民が増えた結果「自分たちの仕事がシリア難民に奪われた」と考えるレバノン人が一定数います。難民の中にはレバノン人より少ない賃金で働く人も多いので、同じ仕事でも低コストで済むシリア人が優遇され仕事を得る一方、自分たちレバノン人は働き口を失ってしまっているという主張です。シリア難民をはじめ就労ビザを持たない外国人が就ける仕事は限られており、特に高度な能力を必要としない職業において、こうした状況は顕著だそうです。

さらに、現在レバノンは「経済非常事態宣言」を出しており、経済状況の悪化が深刻な問題であるといわれています。これに関して一部の政治家が、経済の低迷の原因はシリア難民にあると断言するような発言をしたことなどもあり、レバノン国内においてホストコミュニティ(受け入れ側の社会)であるレバノン人と、シリア人の関係が徐々に悪化している気がします。

もちろん、レバノン人の中にはシリア難民の支援に携わる人たちもいますし、レバノン社会に溶け込んでいるシリア人もいます。そもそもシリア内戦以前は、旅行やビジネスなど人の行き来も盛んでした。シリア人とレバノン人の友人同士ということも、おかしなことではありません。

パルシックは、シリア難民とホストコミュニティのレバノン人の融和を促進するための取り組みを行っています。先日は提携団体が開催した、複数の国籍の混合チームによるサッカー大会に協力をしました。国籍を超え1つのチームとして戦う人々の姿を見て、だれでも一緒になって盛り上がることのできるサッカー大会は「難民支援」の1つの有用な形であることを感じました。こうしたシリア人を含む多国籍間の交流は、難民とホストコミュニティの間で高まりつつある緊張を和らげる、クッションの役割を果たすことができるのではないでしょうか。今後はサッカーだけでなく、他のスポーツや文化など様々なジャンルで、人びとの交流を図っていきたいと考えています。

提携団体URDA主催のサッカー大会の決勝戦後、健闘を称えあって両チーム一緒に記念撮影。

提携団体URDA主催のサッカー大会の決勝戦後、健闘を称えあって両チーム一緒に記念撮影。

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(インターン 山田蒼太

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レバノンの山田君 インターン日誌~ Vol.3 シェルター(住居)編 https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/15254/ Thu, 12 Sep 2019 07:30:47 +0000 https://www.parcic.org/?p=15254 みなさんこんにちは、インターンの山田です。

私がレバノン事務所でのインターンを開始して間もない201971日、政府軍がレバノン北部のアールサールという場所にある難民キャンプで、20棟のシェルター(住居)を強制的に破壊したというニュースが飛び込んできました。その1か月後の88日と9日には、北部アッカールという地域で、再び軍によって350棟のシェルターが破壊されました。

これに先立ってレバノン政府は、とある法律を公布しています。それは、難民が生活するキャンプなどの場所で、高さ20cm以上のコンクリートを使用したシェルターを禁止するというものです。具体的には、20cm以上の高さに木材及びビニール製(テントの幕など)以外の素材を用いた仮設住宅が破壊の対象となり、シリア難民はこうしたシェルターを期限までに自主的に破壊するよう求められました。この法律は、シリア難民にどう影響を与えるのでしょうか。

難民が自主的に破壊したシェルターの跡。奥にあるのはまだ取り壊されていないシェルター。

難民が自主的に破壊したシェルターの跡。奥にあるのはまだ取り壊されていないシェルター。 

報道のあった北部アールサールやアッカールでは、冬になると大量の雪が降り積もります。また、大雨による洪水被害なども難民キャンプにおける大きな問題となっています。この地域で難民が生活していくうえで、コンクリートブロックの頑丈な壁など、外の寒さを防ぎ内部の熱を逃がさない住居構造は欠かせません。そうでないと、冬を乗り切ることができないからです。こうしたシェルターを壊して新しい基準を満たす家を作るとなると、柱や枠組みは木材、壁はビニール製の幕といういわゆるテント生活になってしまい、室内であっても厳しい寒さと隣り合わせになってしまいます。もともとテント暮らしをしていて断熱材などを壁に貼ることで寒さに対応してきた人たちであれば、ある程度の気候には耐えうるかもしれません。しかしながら、それまで住んでいた比較的快適なシェルターを失った人にとって、断熱材もないゼロからの冬の生活は困難を極めるでしょう。

規格に合わせて新たに作られたテント。夏は熱がこもり、冬は外の寒さを防ぐことができないため、かなり悪環境に置かれている。

規格に合わせて新たに作られたテント。夏は熱がこもり、冬は外の寒さを防ぐことができないため、かなり悪環境に置かれている。 

コンクリートで補強されたある程度頑丈な家に住んでいる難民は、シェルターの耐久性の観点からいえば、半永久的にその家に暮らすことができます。それが政府によって禁止されてしまった今、難民の生活は危機にさらされています。今年の冬の厳しさによっては、シェルターに留まり続けることができなくなった人びとの中で、レバノンからシリアへと帰還する動きが活発化するかもしれません。また、十分な支援が得られず新たに家を建て直す余裕のない人は、それ以上その土地で暮らし続けることができません。実際パルシックの事業地でも、多くの人びとが対象となった家を自主的に破壊し、別のキャンプ地でのテント生活を余儀なくされているそうです。

今年の冬には、テント生活で冬を乗り越えざるをえない例年以上に厳しい環境下におかれたシリア難民が、多くの支援を必要としています。パルシックは、こうした人びとに食料を配給したり、毛布や灯油など配布を行う越冬支援を、昨年度同様実施する予定です。

レバノンの山田君 インターン日誌~ Vol.2へ

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(インターン 山田蒼太

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レバノンの山田君 ~インターン日誌~ Vol.1 自己紹介 https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syrian_refugees_learn/14925/ Fri, 28 Jun 2019 07:00:59 +0000 https://www.parcic.org/?p=14925 はじめまして、私の名前は山田蒼太です。半年間インターンシップ生としてレバノンでのシリア難民支援事業に関わらせていただきます。私は大学で難民問題について研究しており、シリア難民の生活や置かれている立場を本からではなく実際に見て知りたいという強い思いを持っていました。学生NGOに所属していた経験を活かして頑張ります!また、日本に戻った時に、少しでも多くの人に難民問題について知ってもらえるよう、出張授業などをする機会を作りたいと考えています。なので、ただボランティアをするだけではなく、自分の経験をどう伝えていけばいいか、何を伝えたいのか、日々考えながら目の前の問題に取り組んでいきたいです。

個人的な印象として、レバノンはとても不思議な国です。キリスト教の教会の真横にイスラム教のモスクがあったり、英語音声のハリウッド映画にフランス語とアラビア語2つの字幕がついていたり。かつての内戦によって破壊された建物がそのまま保存されている場所があると思いきや「中東のパリ」と呼ばれるほどきれいでおしゃれな地域があったり。また、人口当たりの難民の割合が世界で最も高い国でもあります。実際街を歩いていると、道路で花売る少女や物乞いの方を多く見かけます。難民だけでなく、東南アジアやアフリカ系の人びともたくさんいます。様々な宗教、言語、国籍が入り混じっているので、色んな文化を体験することができそうです。まだ友達がいないので、まずは友達を作るところから始めたいと思います。(笑)

左がブルーモスク/Blue Mosque、右奥がセント・ジョージ・マロニエ教会/St. George Maronite Cathedral。日本でいう浅草寺の横に浅草神社が隣接しているのと、同じような感覚でしょうか?

左がブルーモスク/Blue Mosque、右奥がセント・ジョージ・マロニエ教会/St. George Maronite Cathedral。日本でいう浅草寺の横に浅草神社が隣接しているのと、同じような感覚でしょうか?

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(インターン 山田蒼太)

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トルコでの食糧・衛生用品支援とシリア人世帯のくらし https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syria_humanitarianaid/11630/ Mon, 27 Feb 2017 04:58:50 +0000 http://parcic-ph2-test.jpn.org/?p=11630 トルコに暮らすシリア難民世帯の思い

2017年という新たな年を迎えた今、トルコではシリア難民への市民権の認可、全国規模でのさまざまな用途に使用可能な電子バウチャーの配布、トルコの公立小学校へのシリア人学生の編入といった大きな改革を段階的に進めており、トルコでの難民受け入れ状況が徐々に進展しています。そのような中で、当団体のシャンルウルファ市郊外での支援は、開始より9か月が過ぎようとしています。これまでに行ってきた支援は、毎月の電子バウチャーによる食糧・衛生用品支援、ブルーシートの配布、越冬支援、マイクロガーデニング用の種の配布です。これらの支援によって人びとの暮らしにどのような変化があったのか、支援対象者の皆さんのお声と共にお伝えします。

パンの生地を伸ばし焼き上げてゆく女の子とお母さん。焼きたてのパンは香ばしくとても美味しいです。

パンの生地を伸ばし焼き上げてゆく女の子とお母さん。焼きたてのパンは香ばしくとても美味しいです。

粉ミルクを子どもに与えられるようになったメヘディさん

お母さんに抱っこされたムハンマドくん。当団体の支援が、彼の粉ミルク購入代に。

お母さんに抱っこされたムハンマドくん。当団体の支援が、彼の粉ミルク購入代に。

4人の子どもを持つメヘディさん一家は2年前トルコへ逃れてきてから、綿花の栽培や作物の収穫といった季節ごとに暮らす町を家族と共に移動しながら行う仕事を収入源としてきました。彼の一番末の息子(ムハンマド君)は現在生後8カ月で、支援を受ける前の生後6か月の頃は粉ミルクを買ってあげることができず、乳幼児期にありながら紅茶とパンを食べている状態でした。その頃の彼の体重は生後6か月の乳幼児の体重としてはやや少ない6.7㎏だったそうです。当団体の支援が受けられるようになった現在、毎月の支援金額を粉ミルクの購入に充てることができるようになり、彼の息子の体重は平均的な体重よりもやや多い、10㎏まで増えたとのことです。当団体のトルコ事務所で働く同じような年齢の子どもをもつシリア人スタッフにとっても、メヘディさんが子どもにミルクを与えてあげられることは自分の事のように嬉しいことです。

シリア国内の家族へ仕送りができたことを喜ぶファトマさん

ファトマさんとモニタリングの為の質問をするスタッフたち。スーパーで子どもと共に商品を選び、よりバラエティーに富んだ栄養のある食事を子どもに摂らせてあげられることをとても嬉しく感じていると教えてくれました。

ファトマさんとモニタリングの為の質問をするスタッフたち。スーパーで子どもと共に商品を選び、よりバラエティーに富んだ栄養のある食事を子どもに摂らせてあげられることを、とても嬉しく感じていると教えてくれました。

トルコでの暮らしが8カ月目を迎えるファトマさん一家は、工事現場などでの日雇い労働に従事するご主人と4人の子どもたちの6人家族です。シリア国外へ避難する多くのシリア人がそうであるように、彼らはシリアにそれぞれの親兄弟を残し、トルコで生きていく決断をしました。しかしたとえトルコへ逃れたとしても、当然ながらシリア国内に残った家族がいつ戦闘に巻き込まれるかもしれないという恐怖や、多くの自由を奪われて生活する家族を思う不安から逃れられません。ファトマさんは、当団体の支援を受けられたことにより、僅かながら食費に余裕が生まれ、ご主人の収入をシリア国内の家族へ仕送りをするために蓄えることができたと教えてくれました。そしてその仕送りは、家族の手術費を補うことに使われたそうです。

 

メヘディさん、ファトマさんの語ってくれた言葉は、パルシックの支援が一人ひとりの人生に大きな影響を与えうるものであることを改めて強く感じさせます。現在の支援が支援対象者の未来へと繋がっていくものとなるよう、絶えず、自分たちの支援のあり方を見つめ直していかねばなりません。

 

子どもたちとふれあうスタッフ。恥ずかしがり屋の子どもたちに笑顔で話しかけています。

子どもたちとふれあうスタッフ。恥ずかしがり屋の子どもたちに笑顔で話しかけています。

(シャンルウルファ事務所 宮越)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成と、皆さまからのご寄付で実施しています。

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“シリア難民”としてのトルコ https://www.parcic.org/report/syria_turkey_lebanon/syria_humanitarianaid/8924/ Mon, 18 Apr 2016 09:54:49 +0000 https://www.parcic.org/?p=8924 トルコ事務所のシリア人スタッフであるムナが、故郷シリアの生活や、約3年間にわたるトルコでの生活を綴ってくれました。

私の家であり、心であり、愛する母であるシリアについてちゃんと伝えようとすると、どのような言葉も見つからない気がします。その国はすべてのシリア人を、すべての子ども達を暖かく安全に抱きしめてくれていました。

まずお話しできるのは、シリアが平和だった頃のシンプルで美しい生活です。子どもの頃は毎朝、友だちみんなとふざけて話して遊びながら登校していました。学校から帰ってくると、まず勉強をしたり宿題を終わらせてから、昼食をとっていました。その後は、冬であれば家のなかで過ごしたり、近所の人を訪ねたり、夏であれば家の前の通りに近所の人たちと座って紅茶を飲んだり、夜中まで一緒に素敵な時間を過ごしていました。

なにより素晴らしく幸せな時間は、近所の人たちや親戚が婚約や結婚をした時で、誰もがきれいなドレスを着てダンスをして楽しみました。私はシリアのアル・ハサカに住んでいましたが、この街の伝統として結婚式前の3日間はみなで踊り続けます。4日目の結婚式当日では、親戚や近所の人びと全員がホールに集まります。冬であれば午後1時頃から、夏であれば午後5時頃から結婚式が始まります。また、家族はパンを作ったりラム肉の料理を用意したりして、親戚や訪問者に振る舞います。

このほか特に夏には親戚や友だちと、食べ物やおやつを持って農場へピクニックをしに行ったり、家族とラタキアやタルトゥスなどの街へ出かけたりして、楽しい時間を過ごしました。

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円になってみんなで踊るシリアの結婚式*2

残念ながら、戦争が始まるとシリアのすべてが最悪の状態へ変わってしまいました。人びとは決して安心して過ごせなくなりました。職場も学校も、大学も閉まり、食べ物や家賃、水道代、光熱費などすべての価格が上昇しました。最悪の状況から逃れるため、またこれ以上のリスクを避けるため、次第に多くの家族、特に30歳未満の男性がいる家庭はイラク(クルド地区)やヨルダン、トルコ、レバノンといった他国へ移住するようになりました。

シリア北部のアル・ハサカに住んでいた私の家族が、トルコに渡った時のことをお話しします。なによりまず、シリア国内でも、ある場所から他の場所へ移動したければ、たくさんの検問所を通過しなければなりません。しかも、その検問所を管理するグループは1つ1つ異なるのです。例えば、最初にYPK(クルド人により構成された対ISの人民保護部隊)、2番目がIS(イスラミック・ステート)、その次にアル・アサド勢力の検問所で、それぞれを通過することはとても危険で高いリスクがあります。また、シリアからトルコに越境するためのバスに乗る時には、高額な料金を支払わなければなりませんでした。私たちは午前4時にシリアの自宅を出て、昼の12時にトルコとの国境(タル・アビード)に到着しました。そこはとても混雑していて、何千人というシリア人の人びとが集まっていました。

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トルコへの越境を待つシリア人の人びと*3

国境に到着してからも国境が開くまで丸一日間、同じ場所で待機しなければなりませんでした。それは夏の非常に暑い時期で、とてもつらかったです。周りに水道や配給される水もなく、高いお金を払ってペットボトルの水を買いました。家族で1日間待った後の夜、トルコ政府はやっと国境を開け、私たちが入国することを許可しました。良かった点は、私たちが文句を言わずただ待ち続けたため、トルコ側もシリア側も私たちを悪くは扱わなかったことです。なにも問題はなく、ただただ炎天下を耐えることが大変でした。

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トルコの国境前で待機するシリア人の家族*4

国境を越えてしまえば、当時トルコ国内のどこへでも行くことはできましたが[注1]、知り合いや親戚がトルコ国内にいればとても助かります。私の家族の場合は、まずはすぐに叔父の家へ行き1泊し、その後1ヶ月間は家を借りました。家賃はとても高額でしたが、当時そのほかの選択肢を見つけることができませんでした。引っ越しをして仕事を探し始めましたが、トルコでの職探しはとても困難でした。生活状況はよくなく、トルコでの生活のなにもかもが困難で危険でした。

特に職探しをしているシリア人女性にとって、本当に嫌な思いをすることがあります。例えば、男性のトルコ人オーナーに商店や工場、ヘルスセンターでの働き口をもらっても、シリア人女性は仕事の代わりに性的なハラスメントを受けることがあります。トルコに来て間もない頃、私自身にも、とても嫌なことが起こりました。私はある工場で1週間働いていましたが、仕事を始めた当初から、トルコ人の上司が私のことを性的な目線で見ていることに気づいていました。ある日彼は私を自分の部屋に呼び、話し始めました。すると突然ドアを閉め、私の身体に触れようとしました。私は彼を押し返し、「今すぐドアを開けないなら、叫んで同僚を呼んで、あなたが私になにをしているか、みんなに見せます」と言いました。彼はドアを開け、私はカバンを抱えてその場を去りました。

このほか、例えばシリア人の女性が道を歩いていると、トルコ人の人たちはヒジャブ(ムスリムの女性が頭を覆う布)でそれがシリア人だとわかります。シリアのヒジャブの巻き方は、トルコの巻き方と異なるのです。シリア人の女性に対し、路上でもトルコ人の男性は声をかけ、車でどこかへ連れて行こうとし、またトルコ人の女性は、とても失礼な言葉をかけてきたりします。なぜなら、シリア人の女性のなかにはトルコ人男性と結婚する人もいるので、シリア人女性を「トルコから男性を奪う泥棒」だと考える人がいるのです。

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シリアでのヒジャブの巻き方 *5

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トルコでのヒジャブの巻き方(未婚の場合) *6

“難民”として生活するシリア人はどこにおいても、とても困難な状況で暮らしています。私は心の底から平和を望み、すぐにでも戦争が終わってあの温かな私たちの家、シリアに帰ることを願っています。

(シャンルウルファ事務所 ムナ)

[注1] 2016年現在、シリア難民としてトルコ国内に滞在しているシリア人の人びとは、各県庁からの許可なく自由にトルコ国内を移動することができない。シリア国境付近隣県(シャンルウルファ、ガジアンテップ、ハタイ、キリスなど)以外の遠方へ移動する際は、許可証がないと違法とみなされる。ただし、ムナがシリアからトルコへ越境した2013年8月時点では、この許可証のシステムは設置されておらず、シリア人も自由にトルコ国内を移動できた。

※この事業は、サポート・トゥ・ライフ(Support to Life)の協力のもと、ジャパンプラットフォームの助成により実施しています。

写真出典

*1: http://www.esyria.sy/ehasakeh/index.php?p=stories&category=transportations&filename=201408220147304

*2: http://www.esyria.sy/ehasakeh/index.php?p=stories&category=community&filename=201103210945021

*3: https://www.al-jazirahonline.com/news/2015/20150615/53137

*4: https://alkhaleejonline.net/articles/1434634572852342900/%D9%88%D8%AD%D8%AF%D8%A7%D8%AA-%D8%AD%D9%85%D8%A7%D9%8A%D8%A9-%D8%A7%D9%84%D8%B4%D8%B9%D8%A8-%D8%A7%D9%84%D9%83%D8%B1%D8%AF%D9%8A%D8%A9-%D8%AA%D9%85%D9%86%D8%B9-%D9%86%D8%A7%D8%B2%D8%AD%D9%8A%D9%86-%D8%B3%D9%88%D8%B1%D9%8A%D9%8A%D9%86-%D9%85%D9%86-%D8%A7%D9%84%D8%B9%D9%88%D8%AF%D8%A9/

*5: https://tvdrama010.blogspot.com.tr/2015/07/blog-post.html

*6: http://forum.khleeg.com/250314.html

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