緊急人道支援 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Wed, 12 Oct 2022 07:57:00 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 スリランカ経済危機 北部の漁村に緊急食料・生活用品を配付しました https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/21323/ Wed, 12 Oct 2022 07:56:08 +0000 https://www.parcic.org/?p=21323 2022年8月末までに皆さまからいただいたご寄付を、現地に暮らす元スタッフのアジットさんに託し、2022年9月24日にムライティブ県タンニムリップ村の全世帯(120世帯)と、スリランカ北部の他の村で暮らすサリー事業に参加する女性たち(15世帯)の合計135世帯に、米や米粉、小麦粉、ココナッツオイルなどの約1週間分の食料と石鹸や生理用品などの生活用品を届けました。

配付した食料と生活用品(1週間分の食料と石鹸などの生活用品)

支援物資の決定から配布まで

皆さまからいただいたご寄付を最大限生かし、できるだけ多くの物資を届けられるよう、経済危機で物価が変動する中での商品選びには幾分の時間を要しました。タンニムリップ村のサリー・グループのリーダーのランシラさんから、村の人たちが希望する商品のリストを受け取り、アジットさんがそれらの商品の価格を複数の店舗で調べ、注意深く価格と予算とにらめっこしながら支援物資とその数量を決めていきました。 価格調査は慎重に時間をかけて行いましたが、いったん購入先の店舗と商品を決めてしまえば、そこからは発注、配付へと一気に進みました。

配付日の様子

支援物資の配付は、タンニムリップ村のコモンホールで行われ、ランシラさんとアジットさんが、受け取りにきた各世帯の代表者の名前を確認し、一世帯ずつ物資を渡していきました。

支援物資を受け取りに来たタンニムリップ村の人びと

一人一人確認をするランシラさん(右)と受け取りの署名をする村の女性(左)

緊急救援物資を受け取りに来た人たちは皆さん大喜びで、「このような支援はこれまでなかった。とてもうれしく大変ありがたい。支援をしてくださった日本の皆さんに心から感謝している」と口々に話していた、とのことです。

母親に連れられて支援物資を受け取りに来た子どもたち

経済危機による物価の高騰は今も続き、今回の配付で村の皆さんの暮らしが解決するわけではありませんが、「当面の食料を心配しなくてもいい」、「子どもたちに食べさせられるものがある」ということは、一時のことであっても、人びとにとって大きな助けとなったようです。

支援物資を家へと運ぶ家族

配付を担当したアジットさんからは、窮乏の中に暮らす村の人たちのこの日の喜びを直に感じ、「日本の皆さんの支援に心から感謝申し上げたい、経済危機に苦しむスリランカの人たちにこのような温かい支援をありがとうございました」とのメッセージを受け取りました。

物資の手配、調達を担当した元スタッフのアジットさん(右)と、当日の配付を取り仕切ったランシラさん(中央)、物資を受け取りに来た村の女性(左)

今回は急な呼びかけにもかかわらず、スリランカ北部の漁村に暮らす人びとにご支援をいただきありがとうございました。

(スリランカ事業担当 西森光子)

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スリランカ経済危機 支援物資の配付準備と7月以降の動き https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/21196/ Wed, 14 Sep 2022 06:09:12 +0000 https://www.parcic.org/?p=21196 202277日、オンラインイベント「スリランカ経済危機:そこに暮らす人びとの今」を開催しました。そこで皆さんにスリランカの現状を知っていただくとともに、緊急支援のためのご寄付を募りました。その後の緊急支援の進捗とスリランカ国内の状況について、ご報告します。

緊急支援の進捗について

スリランカの現状を心配されている多くの方からご支援をいただき、スリランカへの寄付は目標額の60万円を超えることができました。ご支援くださった皆様、本当にありがとうございました。

現在、ジャフナ事務所の元スタッフのアジットさんが、経済危機の影響を受けて困窮するスリランカ北部ムライティブ県タンニムリップ村の家族に食料や生活用品など必要な物資を届ける準備を進めています。配付する物資のリストを作成し、数軒のお店から見積りをとっていますが、小麦粉などは在庫が減り価格がさらに上がっています。予算内で、困窮する人びとが本当に必要とする物資を配付できるよう、タンニムリップ村の人とも協議しながら進めています。

物資や燃油の調達などで問題が起きなければ、9月中には配付を終える予定です。配付完了後にまたご報告します。

スリランカの政治状況

7月7日の時点では、今後何が起こるのか予測するのは大変難しい状況で「ゴタバヤ・ラージャパクサ大統領(7月7日時点)が退任し大きく政治体制が変わらない限り状況は好転しないし、残念ながらゴタバヤ大統領がすぐに退任することはないのではないか」と、アジットさんはオンラインイベントで話していました。しかし、翌々日の7月9日からコロンボだけではなく地方からの市民がコロンボに集まって大規模なデモとなり、その結果7月15日にゴタバヤ大統領が退任となりました。その後、国会議員による大統領選出投票が行われ、同月21日にUNPのリーダーで首相兼大統領代行を務めていたラニル・ウィクラマシンハ氏が大統領に就任しました。

ラニル大統領は経済政策についての経験が豊富であり、また欧米諸国ともうまく関係を築いてきた政治家です。ラニル氏が大統領就任前から進めていたIMF(国際通貨基金)との交渉では、9月1日に最終合意ではないものの、4年間のプログラムで29億ドルの金融支援を受けることに決まりました[1]。今後、スリランカはIMFからの融資を受け経済の立て直し目指して、二国間の債務の交渉、国内税制の改革、歳入の拡大など、難しい課題に取り組むことになります。また、米国は主に稲作に必要な化学肥料や農業資材のための大規模な農業支援を行うと発表しています[2]。ただし、今後の政治的な安定が続くかは見通せない状況です。

さらに、大統領は変わりましたが、大統領含め新しい内閣のメンバーなどはこれまでと同じ顔ぶれで、政治体制が刷新されたとは言い難い状況です。

人びとの生活については、前述のとおり、物価高は相変わらずで生活が苦しい状況が続いています。国連は、8月5日時点でスリランカでは570万人が人道支援を必要としており、人口の22%にあたる490万人は食料を安定的に得られない状況に陥っていると発表しています[3]。停電もひきつづき度々起きています。一方、ガソリンなどの燃料に関しては販売管理が改善され、真夜中までガソリンスタンドに並んで結局購入できなかったということはなくなってきたようです。

今後ともスリランカの動きを追っていきます。

[1]  https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/09/14a05216a8b592c7.html
[2]  https://www.dailymirror.lk/latest_news/USAID-to-provide-US-20-Mn-as-humanitarian-aid/342-244671
[3]  https://reliefweb.int/report/sri-lanka/sri-lanka-multi-dimensional-crisis-situation-report-no-2-5-august-2022

関連動画

(スリランカ事業担当 西森光子 高橋知里)

 

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内戦の終結と民族問題(後編) https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1526/ Thu, 24 Jun 2010 16:00:42 +0000 http://test.parcic.org/?p=1526 人権擁護と難民支援の課題

西ヨーロッパのメディアによれば、今回の戦闘の最終段階において、政府軍とLTTE軍の戦闘地域に住んでいたタミル人住民が、2万人以上殺害され多くの負傷者を出した。戦争末期には、無抵抗の捕虜を殺害し、白旗を掲げて投降したLTTE幹部を殺戮したとの報道もある。旧LTTE支配地区の住民約三十万人が政府軍に拘留され、2009年12月まで難民キャンプから出ることを許されなかった。南インドを始め海外の難民キャンプに逃れているタミル人も多い。これらの人権侵害事例を重視したEUでは、従来輸入関税を免除してきたスリランカの縫製品に、課税すべきであると決定した。

日本国内におけるスリランカに対する関心は、決して少なくない。2002年の国交樹立50周年記念には、日本からの強い要請を受けて国会議員団に2頭の野象が贈られた。インド洋大津波に際したNGOの活動も記憶に新しい。日本政府の明石康特別代表は、2003年の東京会議の共同議長国として、スリランカの復興支援を取りまとめている。2008年には、福岡アジア文化賞が国際法やジェンダー論の分野で活躍するグナセーカラ教授に授与され、創設されたばかりの堺市国際貢献賞がジャーナリストのペレーラ氏に授与されている。

しかしこれらの支援の動きも、相互の関連性がなく進められ、継続性に欠ける。今回の内戦終結を機会に、さまざまな分野で徹底的な話し合いが必要であろう。スリランカ国内の諸勢力、在外タミル人の支援団体、外国政府や国際NGO、国際金融機関などとも、日本の政府機関やNGO団体が広範なネットワークづくりに参加すべきであろう。

2010年に入って、国連人権評議会などの場で、欧米諸国は人権侵害の調査の必要を強調したが、キューバを先頭とする非同盟諸国は、中国やロシアとともにスリランカ政府軍事的な成果を称賛した。欧米の人権団体からは、ラージャパクサ大統領を、人権無視の戦争犯罪人として国際法廷で裁くべきだという声も強くなった。日本政府は両者の中間的な立場で、問題の非軍事的な解決や少数民族の権利擁護を強調するかたわら、復興支援への協力を表明している。

このような内外の難問に取り組むため、ラージャパクサ政権は大統領選挙を繰り上げて実施し(2010年1月26日)、その勝利を受けて4月8日に議会の総選挙を行い政権の基盤強化を図った。

ラージャパクサ家への権力集中と山積する難問

総選挙の結果、13の政党が連合した大統領与党が大勝利した。しかし、選挙管理委員会は不正行為が行われた2選挙区において、4月20日に再投票命じた。翌21日に判明した全225議席の最終結果は、下記の通りである。

統一人民自由連合UPFA(与党) 144議席
統一国民戦線UNF(最大野党) 60議席
タミル国民連合TNA(少数民族) 14議席
人民解放戦線DNA(分裂後の野党) 7議席

投票率は61.26%であり、スリランカの総選挙としてはきわめて低かった。最高得票数は、大統領の実弟バジル・ラージャパクサ経済開発相の42万票強であった。ボーゴラガマ外相、モラゴダ法相など有力閣僚で落選する現職も少なくなかった。

大統領の長男ナマル・ラジャパクサ(24歳)は、父親のハンバントタ選挙区を受け継ぎ15万票強を得て当選した。得票率としては、全国最高であった。新国会議長には、大統領の兄であるチャマル・ラージャパクサが就任した。新首相には、79歳の老政治家ジャヤラトナ議員が任命された。筆者は、同氏がドルワ村郵便局員だった1960年代からの知友である。強力な大統領一族の下で、その政治力を発揮できるかどうか未知数である。コロンボの消息通によれば、大統領の親戚数百名が、各省庁の重要なポストに就いているといわれる。

4月23日に新内閣が成立し、5月5日に4名の閣僚が追加任命され、合計44名の閣議構成員が決まった。前内閣が50名の閣僚から構成されていたので、6名の削減である。とはいえ、閣議において重要政策が審議されるかどうかは、疑問である。閣僚ではないが、ゴータバヤ・ラージャパクサ国防次官(大統領の弟)やB.P.ジャヤスンドラ経済開発次官(最高裁の判決によって財務次官を失職し横すべり)の権限は、閣僚より大きいと見られている。たとえば、総選挙後のNGO管理行政は国防省に移管された。

LTTEを殲滅した1年後の5月になっても、なお非常事態宣言による統治がおこなわれている。内戦後の経済発展が期待されているが、財政赤字も貿易赤字も拡大し、為替レートは1米ドル当たり113ルピーに下落した。アラブ産油国などへの出稼ぎ労働者からの送金増(33億ドル)が頼りで、消費の拡大による経済成長政策が採られている。

内戦終了後も、少数民族居住区に配備された兵力は維持される一方、国内難民の再定住は遅れている。プタラム県選出議員のミルロイ・フェルナンド元水産相が、再定住担当相に任命された。少数民族の期待に応えることができるかどうか、その実行力に期待したい。

(パルシック 中村尚司)

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内戦の終結と民族問題(前編) https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1524/ Thu, 24 Jun 2010 15:00:19 +0000 http://test.parcic.org/?p=1524 政府軍の勝利宣言

2009年5月19日、スリランカのマヒンダ・ラージャパクサ大統領は、「全国民と全世界が偉大な勝利を祝福する機会に、スリランカ議会第四会期の開会を宣言」した。宿敵LTTE(タミル・イーラム解放のトラ)への勝利宣言を行ない、5月21日を国民の祝日と定めた。この日の議会演説の末尾で、ラージャパクサ大統領は、19世紀における英国軍への歴史的な敗北に触れ、次のように付け加えた。「1815年の敗北後、われわれは喪失した国家の誇りと尊厳を回復できないでいた。しかし本日、他のいかなる国も克服できなかったような挑戦に勝利することができた。国家の尊厳を守ることは、あなたがた国民と為政者である私の義務である」

19世紀初頭以来の英国支配以来失われていた国家の誇りを回復したというのである。スリランカ国軍の最高司令官でもある大統領の喜びもさることながら、この勝利は、外国の侵略に対するものではなく、同じスリランカ国民との闘いの結果である。この点にこそ、今後の問題の難しさも集約されるといえよう。

スリランカ国民に対するスリランカ国家の軍事力の行使である以上、スリランカ大統領の最大の課題は、国内の民族和解である。しかしながら、外国の侵略軍に対する戦いではないにもかかわらず、テロリストとの戦いに勝利したと言い換えることによって、自国民に対する大規模な軍事力の行使を正当化してきた。スリランカ島の北東部に住む少数民族であるタミル人が、民族自決権を求めて、多数民族の政権と武力衝突を繰り返してきた限りでは、スリランカ社会内部の問題である。

しかしながら、この内戦をもっぱら国内問題として扱うことができないところに、難しさが加重される。たとえば、政府軍とLTTE軍が用いた主要な武器は中国製やインド製である。スリランカ政府軍に中国政府やインド政府が援助を行ったことは、よく知られているが、対立するLTTE軍には武器弾薬がどのような経路から届いたのか、いまだ解明されていない。

ことは軍事援助にとどまらない。民族抗争とその和平過程で、内外のさまざまな勢力が関与してきた。そのことが問題をいっそう複雑にし、当事者間の和解を困難にしてきたともいえる。

武装蜂起と和平交渉

1970年代から、議会の立法過程や中央政府との協議だけでは、少数民族であるタミル人の社会的な地位は向上しない、と判断した青年たちが武装蜂起の準備をした。その動きに呼応して、南インドのタミル・ナードゥ州には、青年グループの軍事訓練を行う組織が生まれた。国内だけでは処理できないと判断したスリランカ政府は、インド政府の調停による和平会議に参加した。1985年にブータンの首都ティンブーで開催された会議では、少数民族居住地区における自治の拡大と戦闘集団の武装解除が主たる議題であった。

インド政府の説得を聴き入れず、武装解除を拒否したのがLTTEである。当時のジャヤワルダナ大統領は、問題解決をインド政府の仲介に期待して、1987年にインド・スリランカ和平協定を締結した。この協定に従って、タミル人居住区の自治権拡大と引き換えに、十万人を超えるインド平和維持軍が派遣され、武装解除を強行しようとした。反インド感情の強い民族主義者の支援を得たプレマダーサ大統領は、LTTE軍に武器を供給して、インド軍への抵抗を強化した。1990年にはインド軍が撤退し、翌91年には和平協定を提案したガンディ首相が暗殺され、インド政府による和平の斡旋が頓挫した。

その後、さまざまの外国政府や団体が調停に乗り出すが、最終的に成果を上げたのは、ノルウェー政府と北欧諸国による2002年の停戦協定の仲介と停戦監視団(北ヨーロッパの軍人で構成)の派遣である。

このときの和平交渉をスリランカ側で担当したピーリスとモラゴダ両担当相は、政権交代に伴い野党から与党に議席を移し、停戦協定を続けないで軍事力によるLTTE鎮圧方針を採用した現政権の有力閣僚でもある。同じことは、LTTE側にもみられる。反政府軍のカルナ陸軍最高司令官は、LTTE代表団に加わり、箱根会議にも来ていた。しかし、2004年3月に6千名の兵士とともに、政府軍に加わり、現政権の要職に就いている。このような国内の離合集散も、話し合いによる問題解決をこじらした要因である。

海外からの支援の比重

停戦協定が実現した背後には、それまでLTTE軍の支援をしていた欧米諸国や東南アジアに住む在外タミル人の諸勢力の合意がある。スリランカ国内に住むタミル人よりも、在外タミル人の方が人口も経済力も大きい。いくつもの勢力に分かれているとはいえ、スリランカ・タミル人の地位向上を願う点では共通している。さまざまのルートで、資金援助が行われてきた。強固な武装闘争を主張する在外組織は、国内におけるLTTE軍の敗北に影響を受けることなく存続している。当面、スリランカ国防省の最大の関心事は、誰がLTTEの軍事資金をどのような形で受け継ごうとしているのか、という問題である。

他方、スリランカ政府も長期に及んだ内戦への支援を諸外国から得ていた。公然と軍事援助を行った国もあるが、「死の商人」として武器市場で利益を上げた国もある。日本のように、国是として軍事援助を行わない国もある。しかしながら、最大の経済援助国となれば、政府開発援助によって建設される港湾、空港、道路、発電所、灌漑施設、学校、病院などが、これらの分野で必要だったスリランカ政府の歳出削減に貢献し、その分だけ軍事費支出を拡大できた。そのような要因まで配慮すべきではなかったか、という課題も残る。

(パルシック 中村尚司)

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ジャフナ、内戦終了の「その後」 https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1519/ Wed, 31 Mar 2010 16:00:37 +0000 http://test.parcic.org/?p=1519 2009年5月18日に26年間続いた内戦が終了して、約1年。ジャフナは急激な変化の中にあります。まず6月20日、約3年間続いた漁業規制が緩和され、漁師たちは海に出られるようになり、海産物がジャフナの市場に豊富に出回るようになりました。


喜びいっぱいの女性たち

そして高度警戒地域(High Security Zone)として政府軍以外は立ち入り禁止だった地域が徐々に縮小され、国内避難民たちも少しずつではありますが帰還が可能になりました。3月にジャフナ県北部の農村テリパライを訪れました。ここは、パラリ空港とKKSという港に近く、ジャフナでの戦闘が激しかった1990年に高度警戒地域(High Security Zone)となっていましたが、3月12日に解除されたとのこと。5500世帯の住民達が強制的に退去させられ、避難民キャンプや北部の各地を転々として暮らしてきたのです。中には海外に移住してしまった人たちも多いことでしょう。誰も入れなかった間に木がうっそうと茂って、畑も住居跡も井戸も埋もれてしまっています。20年ぶりに戻ることが認められた住民達は嬉しそうです。NGOから提供されたカマで木を切り、雑草を払って帰還の準備をしていました。子供のころに出たきり、帰れなかったという人たちですが、皆、帰れる喜びを語っていました。未だ高度警戒地域(High Security Zone)として指定されていて入れない地域もたくさん残っています。KKSという港は、戦前はすぐれた漁港だったと言われていますが、今は軍港となっており、周辺の漁民たちは未だアクセスできません。


20数年ぶりの「我が家」

ジャフナとコロンボなどの大都市をつなぐ国道A9号線は2006年8月以来通行禁止になっていましたが、2009年秋ころから徐々に開放されました。最初は政府軍の護衛(あるいは監視)がついている場合にのみ認められていましたが、軍の許可さえ取れば民間の商品輸送トラックの通行が認められ、ジャフナ市民が乗れる一般バスの定期便が通るようになりました。
2010年年明けころからは、観光バスが通るようになり、今は、毎日のように大型観光バスが南部のシンハラ人たちをジャフナに運んできます。もともと海に囲まれて風光明媚で、水産資源も豊富なジャフナはスリランカの人々にとって有名な観光地でした。そのうえジャフナ人口約60万人(ほぼ100%がタミル人)のジャフナに内戦中4万人から6万人の政府軍が駐留し続けたわけです。この兵士たちの家族、縁者たちがジャフナを訪れています。バスでやってきて1-2泊して、有名な仏教寺院やビーチ、史跡を訪ねるのです。小さなジャフナの中心街がそのために交通渋滞に陥るほどです。


雑草を払う人びと

ジャフナの西岸にオランダが昔、建造した石造りの砦があります。ここは政府軍によって警備されており、今も住民には立ち入り禁止です。が、観光バスで訪れたシンハラ人たちは中に入ることができます。地元のタミル人たちが入れない史跡に、シンハラ人観光客が観光バスを連ねて入っていく光景は心痛いものです。また、シンハラ人観光客が地元のタミル人にシンハラ語で話しかけて、通じないことを知って驚くという光景を目にしたこともありました。

内戦の終結が話し合いによってではなく、軍事力によってもたらされた結果、民族問題の解決を困難にしています。とりあえず戦争が終わって復興が始まったことは嬉しいことですが、経済的な支援以外に、内戦による傷を癒し、民族の和解につながるような支援の在り方を考えていきたいと思っています。

(パルシック 井上礼子)

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ムトゥール学校修復事業が終了しました https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1512/ Wed, 31 Mar 2010 15:00:20 +0000 http://test.parcic.org/?p=1512 この3月をもって、スリランカ東部のムトゥールという町での、内戦により損壊した学校の修復事業が終了しました。

パルシックでは損壊の激しい学校を12校選定し、学校職員と保護者の会(SDS: School Development Society)を実施主体として、修復計画から資材の調達、工事までを支援してきました。


修復された教室を喜ぶ子どもたち

事業では机や椅子、トイレ、給水施設や簡易教室の製作・設置や校舎の修理をしました。

以前は椅子・机がないために子ども達は床でノートを取っていたり小さな長机にぎゅうぎゅうに座ったりして授業を受けていたのが、今は自分の机で落ち着いて勉強できるようになりました。

教室が不足していて木陰で授業を行っていた学校では、炎天下や雨など天気の心配をしないで済むようになりました。教室の傍に給水施設がないために毎日井戸の水を汲み、何往復もして教室近くのドラム缶に溜めておかなければいけなかった学校では、水道を引いたことで先生や生徒の苦労が減りました。他にも、穴だらけの教室の床や、壁のひび割れ・崩れを修理した学校では、特に先生たちから「やっと学校をきれいにできた、ありがとう」とお礼を言われます。


机の贈呈式

始めは見慣れぬ私を警戒と好奇心の混ざった目で見ていた子どもたちは、今では元気よく挨拶をしてくれるようになりました。

学校の全ての不足や問題を解決できたわけではありませんが、事業によって子どもたちや先生がより快適に学校生活を送っているのを見てこちらも嬉しく、安心しています。

不便な学校生活を送っている子どものために、現状を早く改善したいという切な思いはどの保護者も学校も一緒です。しかし一時は作業が予定より遅れていた学校もあり、3月までに終わるか私自身不安になったことがあります。

その理由は、全ての作業をSDSが中心となって行うという、SDSにとって不慣れな作業であったためと言えますが、他にも宗教の行事(事業の対象となったのはイスラム教とヒンドゥー教の地域で、それぞれ学校により独自のプログラムがあります)、2010年1月末に実施された大統領選挙に伴う地域の仕事など、あまりこちらが予想していなかった「休み」があったからです。


井戸を設置するSDSメンバー

でもそんな時はカウンターパートが活躍してくれました。カウンターパートのラフマンさんはこの村出身の教育省の学校教育のアドバイザーです。彼はこの地域や宗教の実情を考慮しながら、事業が円滑に進むように頻繁に学校側に連絡を取って的確に次にすべきことを促し、作業中に起こった問題など学校側からの相談にものる、とても頼れる存在です。

また私はラフマンさんの家にホームステイしていることもあって、SDSの役員や校長先生たちからお茶や食事に招いてもらうなど、学校外でも交流の時間があり、事業以外でも楽しい時間を過ごすことができました。

最近になって、新たにスリランカ政府や国内/外NGOの学校支援が始まっています。町全体では道路工事や水道工事なども進んでいます。この3月で学校修復事業は終了しますが、パルシックとしてのスリランカの復興に向けた取り組みは深化させていきたいと考えています。

(パルシック 松井愛珠)

*本事業は国際ボランティア貯金の助成を受けて実施しました。

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ジャフナの難民キャンプで再会した女性 https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1495/ Thu, 05 Nov 2009 16:00:22 +0000 http://test.parcic.org/?p=1495

パルシックが食糧配布を行っている難民キャンプには、ジャフナの東海岸の漁民の家族が多く収容されています。この地方は、タミル人の自治権の獲得を掲げた『タミル・イーラム解放の虎』(LTTE)とスリランカ政府軍が激しい攻防戦を重ねた地域です。ジャフナ半島の中心部であるジャフナの町は、1995年からスリランカ政府軍の支配下に入っていますが、海岸地帯や南部はその後も両勢力が奪い合っており、ヴァダマラッチ・イースト郡は2002年の停戦合意に際してLTTE支配地域となっていました。それ以外の地域は、スリランカ政府軍が「高度警戒地域(High Security Zone)」と指定しており、立ち入り禁止措置がとられていました。この「高度警戒地域(High Security Zone)」の住民は、内戦が激化する以前から難民となって、スリランカ政府軍支配地域かLTTE支配地域のいずれかで暮らしていたのです。

このヴァダマラッチ・イースト郡にウドゥトライという漁村があります。

2004年の暮れに、スマトラ沖地震による津波がスリランカを襲ったとき、この漁村も被災し、人口1,500人くらいの村ですが270人が亡くなりました。多くの死者を出しました。パルシックはジャフナの政府軍支配地域を中心に活動していましたが、津波の被災者支援のときには、このウドゥトライという漁村も支援対象としました。その後、この村の内戦や漁の事故で夫を失った女性たち15名によるグループをつくって、干物作りの支援をしました。とても勤勉な女性たちで、彼女たちがつくる干物は好評で、遠くワウニヤからも仲買人が買いに来て普通の干物の2倍近い値がつくので、彼女たちも喜んでいました。日本の鰯の干物のようなもので、スリランカの人たちはこれをカレーに入れたり、油で揚げてスパイスと絡めたりします。

2006年夏に内戦が再燃したとき、この地域はスリランカ政府軍から爆撃を受けていたので、この女性たちの多くは、さらに南のLTTEが強かったムライティブに逃げました。そして不幸にして、このムライティブがLTTEと政府軍との最後の激戦地となったのです。2006年夏以降、このウドゥトライの女性グループとは連絡が途絶えてしまい、内戦のニュースが届くたびに彼女たちはどうしているのかと心配したものでした。

8月にパルシックが食糧支援を開始して、ジャフナ県内の各キャンプをまわったとき、当時のウドゥトライの女性グループのリーダーのバヌマティさんと3年ぶりに再会することができました。バヌマティさんは夫を内戦で亡くしています。船をもっていない漁師だった彼女の夫は、1991年に労働者として知人の漁船に朝乗り込んで漁に出かけましたが、頭と肩をスリランカ海軍に撃たれ、海岸までたどり着きましたがそこで事切れたと言います。寡婦となった彼女は、内戦のなかできることは何でもして5人の子どもを育ててきましたが、津波で長女と末息子の2人を失ったのでした。22歳の長女は結婚して隣に住んでいたのですが、妊娠中だったので、波にさらわれてまだ見ぬ孫とともに亡くなり、唯一の息子(当時13歳)も死亡しました。残された19歳、17歳、15歳の3人の娘と一緒に暮らしていた彼女は、3人の娘を守るために、内戦が激化したあとムライティブに逃げていたのですが、LTTEの敗色が濃くなると、娘たちも兵士として徴兵され始めたので、娘を守るために1月15日にムラティブから船を出して、ジャフナの北端の町ポイントペドロまで一夜舟を漕いで逃げてきて、難民キャンプに収容されたのでした。彼女は「難民キャンプのなかでもお金を持っていたり、ジャフナ市内に親戚がいたりする人は、差し入れをもらったり食糧を買ってもらったりもできるけど・・・」と語っていました。筆者がカメラを向けると娘たちともども恥ずかしそうに笑い、生涯でただ一枚の写真は、津波後にウドゥトライで干物作りをしていたときに筆者が訪れて撮った写真だったけど、今回の内戦のなかで逃げ惑ううちに失くしてしまった、と語りました。

同じウドゥトライの女性グループの1人プシュパラタさんも、結婚した娘夫婦と未婚の娘と一緒に難民キャンプにいました。4月15日の早朝にムライティブから船を出して5時頃にポイントペドロに着いたと言います。軍の事情聴取を受けたあと、今のキャンプに収容されたそうです。2007年6月頃に、ウドゥトライはもう危険だということで、ムライティブに避難したそうです。2008年1月に、一度ウドゥトライの家に帰ったけれど、連日激しい砲撃で、ずっと塹壕の中で暮らさなければならない毎日だったので食べ物もなく、2008年6月に再びムライティブに戻ったけれど、1ヵ月後には塹壕のなかで暮らさなければならない状態になったといいます。毎日10人から20人位ずつ死亡していったそうです。ある日砲撃の音で塹壕に身を伏せ、終わったので体を起こすと、子どもの1人が立ち上がらなかった、砲弾のかけらが貫通して死亡していたと語ってくれました。

かつての女性グループのメンバー15人のうち、3人は亡くなってしまいました。

(パルシック 井上礼子)

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ジャフナ難民キャンプに食糧を届けています https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1489/ Thu, 05 Nov 2009 15:00:40 +0000 http://test.parcic.org/?p=1489

スリランカ北部で激しく続いていた内戦がとりあえず終結を見たのは今年の5月18日。今年初めから戦火を逃れた難民が、相次いで周辺のジャフナ、ワウニヤ、マナーなどの地域に急ごしらえした難民キャンプに収容されました。内戦の最終段階には、スリランカ政府軍は、キリノッチ県、ムラティブ県、マナー県の一部など旧LTTE支配地域(スリランカでは一般にワンニ地方と呼んでいます)から住民を一掃しました。その結果、30万人近い人々が難民キャンプに収容されることになりました。2つの県の人口をゼロにして、全員が難民キャンプに入れられる、という他に例を見ない異様な事態が民族紛争の解決策とされたのです。難民キャンプとして一般に想像される状況とはかなり違っています。周囲を有刺鉄線の柵で囲まれた上に、スリランカ政府軍が周辺を警備し、難民はキャンプから外へ出ることが認められていませんし、電話などもかけられません。キャンプのある地域にアクセスするのには政府軍の許可が必要ですし、さらにキャンプ内に入る許可が得られるのは、そのキャンプ内で活動しているNGO職員などだけです。その意味では難民キャンプと言うより少数民族であるタミル人の収容所と言ったほうがいいかも知れません。スリランカ政府は、ワンニ地方の地雷が撤去されるまでの間難民を留め置かねばならないと言っています。

とはいえ、度重なる戦火をくぐりぬけてきた難民たちもそれなりにしたたかに生きています。7月にワウニヤの難民キャンプを訪れたときのこと、その有刺鉄線の柵越しに面会をしている家族や友人たちを大勢見かけました。数万人がいる広大な難民キャンプです。「どうしてあの人たちは親戚が面会に来たとか分かるのだろうか」というと案内してくれていたスリランカのNGOの友人はウインクしながら、「電話がなくても情報はちゃんと伝わるのさ」と言っていました。女たちは限られた水しかないテント住まいでも、子供たちに水浴びさせ、清潔に過ごさせようとしています。

難民をこのような閉鎖空間に収容しながら、膨大な戦費に財政を圧迫されたスリランカ政府は、食糧や生活必需品を配布する資金がないということです。みんな着のみ着のまま戦場から逃げてきた人々です。国連機関やNGOの間でも、この難民たちの支援を行うことは不当な拘束状態を正当化、長期化させることになる、支援を行わずに、先ずスリランカ政府に難民たちの移動の自由を認めさせるべきではないかと言う議論がありました。しかし、キャンプには子供や妊婦、老人なども多くいるのです。そしてこの人たちは、内戦の間も、内戦が終わってからも、いつも戦う両勢力間の人質とされているのです。

そこで国連機関とNGOは、スリランカ政府にこのような事態を早期に終結させるようにという要望を出しつつ、テントや水の配給、医療、食糧の供給、子どもたちの教育などを分担して行ってきました。

パルシックは、事務所のあるジャフナ県内に散在する10箇所(当初は11箇所)の難民キャンプに収容されている約1万人の難民に8月の初めから食糧の配布をしてきました。国連機関の世界食糧計画(WFP)が最低限の食糧を保障することになっており、米、小麦粉、砂糖、缶詰の魚を配布しています。でもスリランカ人に言わせれば、チリやフェンネルといったスパイス、そして塩がなければ、こんなもの食べられないと言います。日本人だったら醤油がなければ、というところでしょうか。そこでパルシック・ジャフナ事務所のスタッフ(タミル人)が栄養もとれ、輸送しやすく、傷みにくいものを考えて毎日のメニューをつくって必要なものを難民キャンプに配布しました(下記メニュー参照)。いずれも比較的安価なものですが、何しろ1万人前後の難民ですから、1日の食費がざっと15万円、1ヶ月で450万円かかります。9月中旬以降、ジャフナ市内に親戚や身元引受人がいる人、妊婦、老人、学生などが順次釈放されて人数が減ってきました。他方でワウニヤ難民キャンプからジャフナ出身の人が移送されてくるなど動きは急になり11月1日現在、3760人にまで減っています。

この食糧配布は、まずジャパン・プラットフォーム(JPF)からの1000万円の助成を受けて可能になりました。そして皆様からの寄付金です。11月に入ってからも食糧配布は続けています。当初、妊婦のための粉ミルクということでご寄付をお願いしましたが、妊婦の人数把握が難しかったこと、難民キャンプの管理を担当している地元の郡事務所からも、とにかく難民全員にわたる最低限の食糧配布を優先して欲しいと言われたこと、私たちもそれが必要と判断し、皆様からのご寄付もこの食糧配布に使わせていただいています。残った難民たちに引き続き食糧を提供できるように、ご寄付をお願いします。

(パルシック 井上礼子)

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スリランカの友人からの手紙 https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1481/ Tue, 21 Apr 2009 15:00:22 +0000 http://test.parcic.org/?p=1481 政府軍による北東部制圧が最終段階に達しているスリランカですが、シンハラ人の友人からの手紙をご紹介します。この戦争のもうひとつの側面を憂うる気持に満ちたものです。

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今、私たちはスリランカで起こっていることを理解してくれる友人を切実に必要としています。スリランカ政府は、テロに対する戦争を遂行しています。2009年1月現在、政府はテロリスト支配地域を占領し、政府軍はLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)のリーダーが潜伏している場所に近づいています。政府軍司令官は、間もなく北東部全域を占領しテロリストを永久に葬り去ると宣言しています。けれども戦争が終わった後どうなるのか、私たちには見当もつきません。政府は、LTTEの本部や主要機関が置かれていた町を奪取した直後から、南部の政府批判を行っている団体への攻撃を始めています。最初の攻撃は数日前、LTTE寄りの報道をしたとされたテレビ局に対して行われました。先日は、政府や政治指導者の腐敗を強く非難していた主要ジャーナリストのひとりが、武装した暴漢によって殺害されました。今や、政府に反対する国民に対して戦争が行われているのです。なぜなら、国民の大多数は反テロ戦争に勝利したことを喜んでおり、LTTEを支持していると特定・分類された個人もしくは団体を破壊することが愛国的な行為と見なされているからです。

こうしている間にも、スリランカ経済は日々下降し続けています。外国の銀行や金融機関への負債は莫大な金額にのぼります。信じられないくらいの巨額になっています。このような状況を伝える短い記事を以下にご紹介します。

タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)が間もなく敗北し、民族紛争は終結するであろうというのは、希望的観測である。歴代のスリランカ政府は、1950年代に始まった民族紛争の根本的な原因に取り組んでこなかった。そして、タミル人に十分な自治権を認めることに関心を示してこなかったのである。現政府の行っていることは、戦争を利用して政権を維持すること、兵器売買によって金儲けをすることである。大統領とその兄弟はまた、戦争を口実に利用してあらゆる反対勢力の口封じをしている。以下に、その事実をいくつか示す。

  1. 国際圧力団体である国境なき記者団によれば、報道の自由度ランキングにおいてスリランカは最近、民主主義国の中で世界最低と評価された。
  2. 政府に後押しされたと見られる暴漢により最近、MTVスタジオが攻撃された。その理由は、少し前に起こった民族紛争についての報道の仕方にあった。
  3. 2008年3月にスリランカのジャーナリスト(JS Tissainayagam氏)が逮捕され、以後ずっと拘留されていることは、いかにスリランカ政府がテロリズム防止法を利用して、政府批判を行うジャーナリストやその他の人々の口封じをしてきたかを示している。政府と意見の合わないタミル人やその他の民族が言論の自由の権利を行使することは、犯罪行為とされるのである。
  4. ヒューマン・ライツ・ウォッチはスリランカ政府が「反テロ法を利用して、平和的な方法で政府批判をする者たちの口封じをしているのは恥ずべきことである」と非難している。
    参照:https://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/7813043.stm
  5. サンデー・リーダー紙の編集者であるLasantha Wickramatunga氏がつい先日殺害された。国境なき記者団は、次のように述べている。「マヒンダ・ラージャパクサ大統領とその側近たち、そして政府メディアにはその直接の責任がある。なぜなら、Lasantha Wickramatunga氏に対する憎悪を引き起こし、報道機関に対する暴力に認められる刑事免責の基準を途方もなく引き下げることを許可したからである。この殺害事件により、スリランカのイメージは著しく汚された。これは全くもって言語道断な話であり、罰を免れさせるわけにはいかない。」

スリランカにおける民主主義は単なる見せかけだけであり、この国は現在、世界でも五指に数えられる独裁国家になろうとしている。スリランカがブラックホールの奥深くに落ちてしまう前に、今こそ国民が目を覚まし、行動すべきである!

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*この手紙は2009年1月9日に、パルシック代表理事の井上礼子宛に送られたものを翻訳したものです。送信者の名前は秘しています。

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スリランカ内戦の急展開と戦場における住民の苦境 https://www.parcic.org/report/srilanka/srilanka_humanitarianaid/1478/ Sun, 08 Feb 2009 15:00:13 +0000 http://test.parcic.org/?p=1478 LTTE支配地域の縮小

2009年に入ってから北部州の戦局は、大きく展開した。前年の夏以来、スリランカ政府は、LTTE(タミルイーラム解放のトラ)支配地区の首都であるキリノッチ攻略作戦に、総力を投入してきた。装備と兵力において圧倒的な優位に立つ陸軍は、三方からキリノッチを包囲した。ジャフナ半島の付け根にあるムハマライから、国道9号線沿いに南下してキリノッチに向かう部隊、マンナール半島から西部海岸沿いの地域を制圧し東方に進軍する部隊、および南部のオーマンタイから北上する部隊が少しずつ包囲網を縮小していった。ミグ戦闘機を主力にする空軍は、LTTE支配地域に対する空爆を執拗に行い、LTTEの戦闘能力を低下させた。トリンコマリーに司令艦隊を置く海軍は、西部海岸の封鎖し、海上から漁港を経由するLTTEの補給路を絶った。2月7日、スリランカ空軍は、LTTEのスーサイ海軍司令官宅を爆撃し、11名の幹部とともに殺したと発表している。

年初にキリノッチを占領されると、国道9号線の西側にあるタミル人の小都市は次々と陥落していった。西部海岸の主要都市であるムライティヴが政府軍の手に落ちると、LTTE支配地区は、北西部の内陸ジャングルにおけるおよそ80平方キロに局限された。国際赤十字委員会などによれば、軍事対決の最終局面を迎えたこの地域に、20〜30万人のタミル人住民が閉じ込められている。2月4日の独立記念日に、マヒンダ・ラージャパクサ大統領は、政府軍の全面勝利が目前であると表明した。同じ日に、国連のヴァイス報道官は、住民避難のために設けられた安全地帯で52名の民間人が死亡し、80名が負傷し、残っていた最後のプドゥックデイル病院もクラスター爆弾の空爆を受け、死傷者を出して閉鎖に追い込まれたと発表した。

戦場に取り残されたタミル住民の困窮については、実情を知る手掛かりが乏しい。戦果を発表する政府軍の公式報道以外に、内外のジャーナリストの取材は許されていない。1月以降、政府批判の報道を行った民間テレビ局が襲撃されたり、現政権批判の代表格であった「サンデー・リーダー」紙のラサンタ・グナトゥンガ編集長が出勤途上に銃殺されたりした。しかし、他の同種の事件と同じく、犯人は検挙されていない。

当面の緊急課題

戦局の急展開を憂慮して、1月21日にコロンボに飛んだ日本政府の明石康特別代表は、非戦闘員の戦争犠牲者を少なくするため、双方が軍事作戦を一時的に停止するよう求めた。さらに2月3日、東京会議(2003年)の4議長国(ノルウェー、EU、米国および日本)は、戦場の住民や難民が安全に移動できるよう、政府軍とLTTEが一時的な停戦を行うよう要請した。続いて、英国のミリバンド外相と米国のクリントン国務長官は、ワシントンで会談し、民間人が戦闘の犠牲者にならないよう配慮すべきであるとの声明文を発表した。これに伴い、双方が48時間に限って、非戦闘員である住民の安全通行が認めた。2月5日にニューデリーでHindu紙のラーム編集長と対談したバン・キムン国連事務総長は、ラージャパクサ大統領に電話し、民間人の犠牲者を出さないよう求めると述べた。

しかし、戦場に残されたタミル住民にとっては、政府軍側に進むも、LTTE軍側に残るも地獄である。長年LTTE支配地区にいたタミル人には、家族や親族の誰かがLTTE軍のメンバーである場合が少なくない。政府軍支配地区に行くと、爪をはぐなどの拷問を受け、LTTEに関する情報を求められるという恐怖感が根強く、よほど決心しないと動けない。事実、48時間に政府軍支配地区に移動したタミル住民や難民はきわめて少ない。5月7日現在の政府軍発表によれば、ムライティヴのLTTE支配地区から移動してきたタミル住民は、累計で5100名である。

国際社会も市民団体も繰り返して、政府軍にタミル人の安全を求め続ける必要がある。スリランカ政府は1971年以降、武装蜂起を繰り返した人民解放戦線(南部のシンハラ人)に対して、2度の特赦を施行したことがある。LTTEの若い兵士にも、同様の措置が必要であろう。

戦闘終息後の課題

2月6日に、筆者は南インドのタミル・ナードゥ州を訪問し、スリランカ・タミル人の難民支援活動をしているOFERR(イーラム難民再定住機構)のチャンドラハサン代表に会った。OFERRは非政府組織であるが、インド政府、とりわけタミル・ナードゥ州政府のスリランカ政策に、大きな影響力を及ぼすまでに成長している。チャンドラハサン代表が強調した戦闘終息後の中長期的な課題は、LTTE軍制圧後のタミル人居住地域における経済復興と地域住民による自治権の拡大である。経済復興に関しては、国際機関やインドを含む外国政府の役割が大きい。

スリランカ政府による分権化に必要な憲法改正案や全政党会議による州政府の強化案は、議論が続くばかりで具体化していない。他方、1987年のインド政府との間で締結された和平協定は、いまだに廃棄されていない。当時、両国政府がインドの州自治と同様に、言語を基準とする州政府の制度と実質的な自治権の拡大について合意している。チャンドラハサン代表によれば、20年以上も昔の和平協定に立ち帰って、再出発を図るべきである。改めて傾聴すべき提言であろう。

(パルシック 中村尚司)

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