観る – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Thu, 08 Jun 2023 06:48:51 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 マルハバ!ラマッラー駐在員のパレスチナ日記 #6 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_see/22357/ Fri, 31 Mar 2023 09:09:52 +0000 https://www.parcic.org/?p=22357 マルハバ(こんにちは)!
パレスチナ・ヨルダン川西岸地区ラマッラーから高橋です。

日本では桜前線が北上中かと思いますが、こちらは2月中旬から3月初めにかけてアーモンドの花が満開でした。今年の冬は、雨も少なく、寒い日も少なかったようで、アーモンドの開花もいつもより早いとのことでした。

日本ではアーモンドというと食べるナッツ、もしくはナッツから作るミルクや、オイルをまず思い浮かべ、花を見かけることはほとんどないと思います。アーモンドはパレスチナなどの西アジアが原産地で、街中でも農村でもいろいろなところで見かけます。薄ピンクや白の花の色、形、咲き方が桜のようで、日本の春を思い出させてくれます。

花の色や形はソメイヨシノのようです。日本の桜並木のように植えられているところは見たことはありませんが(もしかすると、どこかにあるかもしれません、来年探します!)、ラマッラーの街中では、一般家庭の庭に1、2本咲いているのをよく見ます

ちらほら緑の葉っぱが見えるところはソメイヨシノとは違いますが、木の様子も桜の木に似ています

ラマッラーからちょっと離れて、セルフィート県の丘の上から絶景を背景に咲くアーモンド

冬から初春にかけて、アーモンドの花だけではなく、野生のシクラメンを見かけます。シクラメンといえば、クリスマスの時によく見る豪華な鉢植えの花、というイメージを持っていましたが、こちらでは野で可憐に咲いています。最初に見つけたときは、一人で大興奮しました。

ラマッラー郊外の野原でそっと咲いていたシクラメン

もう少しすると、オリーブの花が咲くそうです。オリーブの花は1週間くらいで散ってしまうそうなので、見逃さないように毎日、庭のオリーブの木をチェックしようと思います。

(西岸事務所 高橋)

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「ソフラ~夢をキッチンカーにのせて」相原木ノ実さん映画評 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_see/15233/ Fri, 06 Sep 2019 08:53:03 +0000 https://www.parcic.org/?p=15233 ソフラってどんな映画?「SOUFRA」映画評(ミフターフVol.51 掲載)
  - SOUFRA上映実行委員会メンバー 相原木ノ実さん

 「戦争が終わってぼくらは生まれた 戦争を知らずにぼくらは育った・・・」小学生のわたしは口ずさみ、同級生たちと声高らかに唄った。これは平和の歌なんだと思いながら。小学生のわたしにとって「戦争」は祖母が話す昔話で、父や母が話す子どもの時の思い出話に過ぎなかった。わたしがいる世界のどこにも「戦争」はなく、世界は平和だと信じていた。戦争は終わったのだと。しかし、わたしがこの歌を口ずさんでいるその時にも、世界のどこかで「戦争」はあり、人々は命を失い、故郷を追われていた。そして、「戦争」は今も続いている。

 昨秋、友人から「この映画観たいんだけど、行けないから代わりに行って」というメールが届いた。メールには『ソフラ ~夢をキッチンカーにのせて』『UNHCR 難民映画祭2018』と題された予告編が添付してあった。予告編が始まると「LEBANON」という文字が読めた。そして、ヒジャブを纏った女性たちが色鮮やかな野菜を次から次へとおいしそうな料理に変えていく。女性たちの活気に満ちた笑顔が印象に残った。見たことも食べたこともない料理は、たまらなくおいしそうで美しい。わたしは映画の予約をしようと『UNHCR 難民映画祭2018』のホームページへアクセスした。「観る、という支援。」と書いてあった。

 その日、会場へ向かう足取りは少し重かった。予告編のおいしそうな料理と女性たちの笑顔に魅せられてチケットを予約したが、『難民』をテーマにした映画を観るのである。「中東」「難民」「戦争」「内戦」、ニュースで見聞きするだけで、耳を塞いでしまえば、目を閉じてしまえば痛さも辛さも感じずに日々を送ることができる。わたしは不安を抱いたまま席に着いた。

 『SOUFRA』は、LEBANONの難民キャンプで生まれ育ったパレスチナ難民のマリアムさんを中心に、パレスチナ、シリア、イラク難民の女性たちが、子どもの未来の為、暮らしをよくする為、今を生きていく為に、自分たちの得意とする料理でケータリング事業を行う姿を描いたドキュメンタリー映画である。映画では、キッチンカーを取得し、移動販売を開始するまでの日々が描かれている。クラウドファンディングを成功させ、意気揚々とキッチンカーの購入に向かう。そのシーンでわたしは初めて『難民』の意味を少し知ることとなった。LEBANONの難民キャンプで生まれ育ったマリアムさんには、国籍がない。「国籍がないってどういうこと?」理解出来なかった。それがどういうことなのか、想像すらできない。当たり前のように、何も考えることなく日本国籍を有しているわたしには実感が持てなかった。

 観終えた時、わたしは『SOUFRA』の上映会をやりたいと思っていた。不安を抱いたことなど忘れていた。一人でも多くの人に彼女たちの作り出すSOUFRA(=ご馳走)と笑顔を観て欲しいと思った。そう思うとSOUFRAの皆さんに会いたい、会わなくてはと思い、昨年末ベイルートへ向かった。会えるかどうかもわからずに。

 不思議なことは起こるもので、人が人を繋いでくれ、ホテルに迎えの車がやって来て、なんと、わたしは無事に彼女たちに会うことが出来たのである。

 SOUFRAのあるキャンプは蜘蛛の巣のように電線が頭上に張り巡らされ、迷路のような道が続いていた。映画と同じ風景だった。そして、映画と同じ笑顔で彼女たちは迎えてくれた。わたしは映画の中に入り込んでしまったようだった。 ふと思った。彼女たちの笑顔と作り出す料理は、わたしに現実を見る。知る。勇気を与えてくれたのかもしれない。(相原木ノ実)

パレスチナの平和を考える会 発行 ミフターフVol.51より転載)

関連リンク:

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ラマダン:祝福の月の始まり https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/13330/ Wed, 23 May 2018 06:07:21 +0000 https://www.parcic.org/?p=13330 イスラム歴9月の5月17日(木)、各地のムスリムコミュニティで、年に一度私たちの心に訪れる大好きなお客さま、ラマダン(断食月)がやってきました。イスラム教徒は互いに、「ラマダン・ムバラク」と慎み深く言い交わします。この挨拶は「祝福のあるラマダンを」という意味。あるいは「クッル・アーム・ワ・エンタ・ビヘール」という人も。これはこの神聖な期間に「毎年あなたが健康でありますように」と、友達や行き会った人たちを歓迎する昔ながらの言葉です。

ラマダンの間、イスラム教徒たちは日の出から日没まで断食をします。この断食は飲食を断つことだけを指すのではありません。喫煙、経口薬の摂取、性的行為、他人の悪口、争い、嘘をつくなどのふるまいも控えなければなりません。ただし、病人や妊娠中・授乳中の女性、生理中や旅行中は例外となります。

最初の数日は本当につらいものです。特に道を歩いていて、たくさんのお菓子屋さんや飲み物屋さんが目に入るとき。それにこの一日中続く暑い天気と空腹の苦痛で、エネルギーを消耗しきってしまいます。でも、私たちは知っています。これを乗り越えれば、ラマダンがもたらしてくれるあらゆる美しいものや素晴らしいもので心が満たされるということを。

ラマダンは人と人の距離を近づけ、神、そして友達や家族とのつながりをより強くする月。信仰を新たにし、貧しい人びとを助け、そして痩せたい人にはチャンスをくれる、そんな月なのです。

さらに健康に関する研究によると、断食はあらゆる健康法の中でもっとも効果があるとも言われます。体内にたまった毒素の排出を助けてくれるからです。

ラマダンのお菓子カタイェフの皮を作る男性

ラマダンのお菓子カタイェフの皮を作る男性

ラマダンのお菓子カタイェフの皮を売る特設ショップ

ラマダンのお菓子カタイェフの皮を売る特設ショップ

セルビス乗り場:イフタールの時間は1台もいなくなる

セルビス乗り場:イフタールの時間は1台もいなくなる

この時期になると、道路や家々、ショッピングモール、オフィスなどが綺麗でカラフルなランタンで飾られていることに気が付きます。アラビア語で“ファヌース”といい、星々や月の飾りがついています。アラブ諸国ではそれぞれの国に独自の飾りと準備方法があって、例えば西岸の中心都市ラマッラーは大きなランタンの点灯と、演説や劇、楽しげな雰囲気の中ラマダンを祝います。しかし今年は、ガザやエルサレムの状況[1]を鑑み、ファヌースの点灯イベントは延期され、街頭のファヌースや飾りも少なくなっています。

今年のラマッラーの巨大ファヌース

今年のラマッラーの巨大ファヌース

星と月の飾りがついた電飾

星と月の飾りがついた電飾

星と月の飾りがついた電飾

星と月の飾りがついた電飾

パルシックパレスチナ事務所一同より、神聖なラマダン月を迎えるにあたり、みなさまと皆様の家族の平和と調和を願っています。

(パレスチナ事務所 ヤラ)

[1]「土地の日」からガザ地区で続く市民の抗議デモ。イスラエル軍との衝突でこれまでに死者100名以上、1万2000人が負傷したと報じられる。

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ナクバを前に https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/13247/ Mon, 14 May 2018 10:27:16 +0000 https://www.parcic.org/?p=13247 パレスチナの生活も半年が経とうとしている4月末の休日、私はラマッラー市郊外のジフナ村とジャラゾーン難民キャンプの友人宅を尋ねた。
この日は、パレスチナの家庭料理ムサッハンをご馳走になった。

中央の大きな皿に入ったウージーは人参とえんどう豆の入った炊き込みご飯。焼いた鶏肉と一緒に食べる。周りの小さな皿に入ったムサッハンは、鶏肉と玉ねぎをオリーブオイル、中東の香辛料スマックで味付けした料理。たっぷりのオリーブオイルでお腹を壊すこともあるため、「ムサッハンを食べた日は腹を出して寝るな」というのがこちらの常識。

中央の大きな皿に入ったウージーは人参とえんどう豆の入った炊き込みご飯。焼いた鶏肉と一緒に食べる。周りの小さな皿に入ったムサッハンは、鶏肉と玉ねぎをオリーブオイル、中東の香辛料スマックで味付けした料理。たっぷりのオリーブオイルでお腹を壊すこともあるため、「ムサッハンを食べた日は腹を出して寝るな」というのがこちらの常識。

先日までの大雨が嘘のように、晴天の金曜日。

このところ異常気象のパレスチナは、4月末だともいうのに雹交じりの激しい雨が降り注いだ。
水はけが悪く民家の密集するキャンプ内は、川と化していたらしい。

お家に上がると、友人は早速砂糖たっぷりのシャイ(紅茶)でおもてなしをしてくれた。
リビングのテレビには、3月30日のパレスチナの「土地の日」に開始された「帰還の大進行」デモ[1]のライブ映像が流れていた。
4分割された画面に、ガザ数か所で進行中のデモの様子が映し出されていた。
違う局では、西岸のベイト・イル検問所のデモの様子も中継されていた。

ジフナ村までの道中、ベイト・イル検問所の前をタクシーで通過した私も、デモ隊が集まってタイヤを燃やしているところを目撃した。

ベイト・イル検問所。ほぼ毎週、金曜日になるとデモ隊たちが集まる。トランプ宣言後のデモ隊と兵士の衝突の中では死者も出ている。

ベイト・イル検問所。ほぼ毎週、金曜日になるとデモ隊たちが集まる。トランプ宣言後のデモ隊と兵士の衝突の中では死者も出ている。

友人によると「金曜日はタイヤを燃やす日」なのらしい。

パレスチナ人はなぜタイヤを燃やすのだろうか。
それは空に立ち上がる黒煙がスナイパーたちの視界を霞ませるからである。
3月30日の「帰還の大行進」の開始前から、ガザの国境沿いにはイスラエル軍のスナイパーが配置されており、デモ開始以降の死者や重傷者のほとんどは、こうしたスナイパーの狙撃によるものだと言われている 。

またデモ中継を見ると、所々に黄色のベストを着たスタッフたちの姿が発見できる。
パレスチナのデモ隊に対して日常的に使用される催涙弾。
彼らは、地上で催涙弾のガスが広がる前にバケツで封じ込めるチームなのだ。
いつも同じように見えるデモの様子も、よくよく観察してみると、デモ参加者たちの知恵が見えてくる。

それでも催涙弾ガスが一度広がると、あたり一面たちまちガスで充満してしまう。
「Press」のベストを身に着け、さきほどまでインタビューをしていたテレビ局の女性リポーターも、催涙ガスを目に浴び、痛みでうろたえる彼女を救助隊が手当していた。
報道陣たちもまた、危険を冒してデモの様子を伝えている。

しかし、西岸地区、とくに都市のラマッラーでは、ガザで行われているこうしたデモの様子を冷ややかに見る目も少なくないように感じる。
昨年10月末に成立した、ファタハ・ハマス間の和解合意後、国境・治安管理などの権限譲渡が行われたが、とりわけハマスの武装解除をめぐり、ハマスと自治政府の足並みはそろっていない。

「ハマスは統一政権誕生の足かせになっているし、ガザの人たちは過激だ」というパレスチナ人もいる。

友人にそのことを話してみると「たしかに、パレスチナの分裂状態は悪くなるばかり」と一言。
昨年11月の訪問時には、ファタハとハマスの和解合意の写真を「ずっとこのときを待っていた」と嬉しそうに見せてくれたのだが、この日の彼女の表情は深刻だった。

「それでも…」と友人は続ける。
「あの閉ざされた空間で何ができる?自分たちの存在を世界にアピールする唯一の方法がデモで、ガザの人たちはいつも知恵をしぼりながらデモに参加している」。

この時、私は以前カナダのユダヤ系BDS団体を取材した際に、彼らがカナダ国内で行ったパレスチナ連帯のイベントに対して、ガザの市民団体が感謝のメッセージを送ってきたというエピソードを思い出していた。
いつだって、ガザが注目されるのは戦争のときだから。

私は普段見ないテレビ(家に回線がない)の中継を見ながら、近いようで遠いガザのこと、テレビに映る同い年くらいの、ヒジャーブを被ってカメラを構える女性の心情を考えていた。

それから少し経って、ラマッラーのヨガ教室で一緒になった20代前半の若者とも話をする機会があった。その日、じつは予定されていたヨガクラスが中止になったことを知らず、ドアの前で待ちぼうけをくらっていた私たちは、お互いのことを色々と話していた。

キプロスの大学を卒業した彼女は、修士進学を考えていたが、高齢になる両親のことが心配でパレスチナに戻ってきたらしい。

「私見かけによらず勉強もディスカッションも好きなのよ」という彼女に、私はラマッラーの暮らしについて聞いてみた。

「こんな言葉があるの。『私は大きなかごに住む幸せな奴隷』。認めたくはないけど、ガザの生きづらさを見れば、ラマッラーはまし。憩えるカフェがたくさんあって、友人もいる。政権批判だってできる。」

私が「デモについてはどう思う?」と聞くと、

「もっと自由だったらなって思うときがある。でも、デモに参加すれば、多少なりとも危険がある。いつも頭によぎるのは家族や友人のこと。パレスチナのために死んでいった多くの人びとを誇りに思うけど…私はパレスチナのために死ぬのではなく、パレスチナのために生きる。それが一番の抵抗になるから」。

ラマッラー1つをとっても、当たり前のことだが考えは人それぞれ。
どこに住んでいるか、どんな仕事をしているか、海外経験があるか、また世代によっても子どもがいるかどうかによっても、意見や態度は変わる。

もうすぐ「ナクバの日」がやってくる。
ガザで、西岸で、エルサレムで、イスラエルで、また世界各地で、今年で70年目を迎えるナクバはどのような意味をもつのだろうか。

ラマッラーの中心アルマナーラ広場にて。ナクバ70年を記念するポスターが街中に飾られている。

ラマッラーの中心アルマナーラ広場にて。ナクバ70年を記念するポスターが街中に飾られている。

[1] 「土地の日」とは、1976年、現在イスラエル領となるガリラヤ地方にて、大規模な土地の接収に反対するパレスチナ人デモ隊にイスラエル治安部隊が発砲、死者6人を出したことを記憶する日。「土地の日」に始まった「帰還の大行進(the Great March of Return)と題された大規模デモは、5月15日のナクバの日まで継続される。

(パレスチナ事務所 関口)

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パレスチナ:オリーブの季節がやってきた![2] https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_eat/12472/ Mon, 06 Nov 2017 10:19:20 +0000 https://www.parcic.org/?p=12472 オリーブの季節がやってきた![1]より

そろそろ日も傾いてきて、おいとましようかとしていると、サーデクが村に2つある搾油所の1つにつれていってくれるとのこと。それはぜひ行ってみたい!できれば搾りたてオリーブオイルも買いたい!と厚意に甘えてマスハ村の搾油所へ。この日は週末の土曜日で開いているかどうか不安でしたが、搾油所はフル稼働中、何人もの農家さんが収穫したばかりのオリーブがぎっちり詰まった袋を持ち込んでいました。早速、いそいそと中を見学させてもらいます。珍客の乱入を不思議そうに見ていた搾油中の農家さんも「マルハバ!」と挨拶すると「いらっしゃい」と笑顔を返してくれました。

私たちが事業を実施するジャマイン町には、昔の伝統的な搾油所跡がカフェに改装されて残っていますが、こちらの搾油所はさすがに近代的です。この搾油所は地域の名士の一家の所有。村の農家さんは自由に搾油させてもらう代わりに、10ガロン(約38リットル)搾ったら1ガロンを使用代替わりに渡しているそうです。

マスハの搾油所、持ち込まれたオリーブの詰まった袋、搾油中の農家さん

マスハの搾油所

持ち込まれたオリーブの詰まった袋

持ち込まれたオリーブの詰まった袋

 
搾油中の農家さん

搾油中の農家さん

搾油所の裏手に回るとオリーブの搾りかすが大きな山となっていました。ちょうど1台のトラックがのりつけていて、数人の青年が搾りかすの積み込み作業中。ジャマイン町でコンポスト作りの材料にも使用しているこの搾りかすですが、一部は家畜の飼料や冬季の暖房燃料に使われます。大量に出るため、持ち帰りたい人は無料で好きなだけ持って帰ってよい仕組み(それでも余る)。私たちも後でもらいに来なくては!

山積みにされたオリーブの搾りかす

山積みにされたオリーブの搾りかす

裏手から戻ってくるとサーデクが何やら搾油中の農家さんと交渉中でした。なんだろう、としばらく待っていると、搾りたてのオリーブオイルの入ったペットボトルを2本持って戻ってきて「自分の家のオリーブを搾油したら、彼に2本返す約束をしたから持って行ってくれ」と、なんと今日のお土産に持たせてくれました。搾りたてのオリーブオイルに思わずにやけてしまいました。

オリーブ収穫の時期に入り、最近ではイスラエルの違法入植者たちによる農家さんへの嫌がらせのニュースが相次いでいます。ナブルス県南部では収穫を待つばかりのオリーブ畑が放火[1]され、ラマッラーやナブルスではパレスチナの農家さんのオリーブ畑から勝手にオリーブを収穫していく入植者が目撃[2]されています。昨年、東エルサレムのオリーブ農家さんの畑に収穫のお手伝いに伺った時には、何気なく拾いあげたオリーブの実の隣に銃の薬きょうが落ちていて衝撃を受けました。

[1] Israeli settlers torch olive trees after illegal outpost evacuated south of Nablus (MA’AN NEWS AGENCY )

[2] Israeli settlers steal olive harvest, attack Palestinian farmers in West Bank (MA’AN NEWS AGENCY )

オリーブの入ったバケツのわきに薬莢がある。オリーブ畑にイスラエル兵が入ってくることもあるという

オリーブの入ったバケツのわきに薬莢がある。オリーブ畑にイスラエル兵が入ってくることもあるという

サーデクの畑から5分も車で走れば、オリーブの畑を見下ろすかのように丘の上で拡大を続ける違法入植地の威容が現れます。オリーブはパレスチナの主要産業であり、人びとの豊かな生活の営みの一端。農家さんたちが無事に収穫を終え、この豊かな実りを祝えるよう願わずにいられません。

ラマッラーへ帰る道すがら、普段は閑散としている道路のわきに点々とたくさんの車が止めてありました。これはいわば、パレスチナの「秋の風物詩」。そのすぐそばには、広いオリーブ畑の中、家族でいまだ収穫作業にいそしむ人びとが見えました。

普段は閑散としている道路わきに点々と車が止まる

普段は閑散としている道路わきに点々と車が止まる

(パレスチナ事務所 盛田)

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パレスチナ:オリーブの季節がやってきた![1] https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_eat/12465/ Mon, 06 Nov 2017 09:43:57 +0000 https://www.parcic.org/?p=12465 マルハバ(こんにちは)!

今年もパレスチナにオリーブ収穫の季節がやってきました。

色づいたオリーブの実

色づいたオリーブの実

地中海性気候と砂漠性気候の中間のような地域にあるパレスチナでは、5~9月までが乾季、10~4月までが雨季となっています。乾季の間は雲一つない晴れが連日続き、強い日差しにぐったりしてしまうほどですが、一度雨が降り雨季に入ると、あっという間に気温が下がり、冷たい風が吹き始めます。

昨年は気候変動の影響で雨季がずれ込み、11月まで雨が全く降らないという異常事態になっていましたが、今年は10月初めより、もくもくとした黒い雲が空に出現し始め、スコールのような雨がさっと降りました。

この雨を待ち望んでいたのがパレスチナの農家さんたち。空気が常日頃乾燥し、砂埃が舞うため、オリーブ農家さんたちは初雨で砂埃が洗い流され、実がきれいになるのを待ってオリーブを収穫するのです。

10月7日、パレスチナ政府がオリーブ収穫期の開始を公式に宣言。その前後からヨルダン川西岸、特に北部地域からオリーブの収穫が一斉に始まりました。

この日、ナブルス県で行う循環型社会づくり事業で共に働く農業専門家のサーデク(Sadeq、誠実な人の意)から誘われ、彼の一家が総出で行うオリーブ収穫に参加させてもらいました。

サーデクは、ラマラより少し北のセルフィート県マスハ村に先祖代々受け継いできているオリーブ畑を持っていて、オリーブの木が85本もあるといいます(ただし、85本はオリーブ農家としては少なめで、サーデクも収穫したオリーブは商業用というより家庭消費用とのこと)。

オリーブ畑に到着するとサーデクの娘さんや息子さん、親戚の皆さんがすでに働き始めていました。早速収穫に混ぜてもらいます。まず取り掛かったのは樹齢が何百年もあるオリーブの老木、“ルマーナ(=Romana)”。その名の通り「ローマ時代」からこの土地に根付いているオリーブで、サーデクの畑には2本あるといいます。年齢を感じさせず(?)、丸々とした実をたくさんぶら下げていました。

丁寧にオリーブを収穫していくサーデク

丁寧にオリーブを収穫していくサーデク

パレスチナのオリーブ収穫は手摘みが基本。ビニールシートを木の下に敷き、まだ色が変わる前の青々とした実、すでに色が変わってきれいな紫色になっている実、すべてまとめて摘んでは落としていきます。この日は併せて剪定も行っていました。じつをいうと、剪定は本来3月、雨季の終盤に行うべきなのですが、土地へのアクセスが極めて限られているパレスチナでは、作業を効率化するために往々にして収穫の際に一緒に剪定を済ませてしまうのが慣習化しています。果樹・有機栽培を専門とするサーデクも「本当は正しくないんだけど」とぼやいていました。

ほとんどが緑色の青い実ばかりの木も。戸惑っているとすべて摘んでしまってよいとのこと。早摘みの実からはやや青臭くスパイシーなオイルが、黒くまるまるして油をため込んだものはまろやかなオイルが取れると言います。しかしながら、パレスチナの人びとが収穫を急ぐ理由は他にもあるようです。「いつまでも収穫しないで残しておくと、近隣の困った若者たちが、たばこを買う小銭欲しさに勝手にオリーブの実を摘んでいってしまう」と苦笑いのサーデク。

昼を過ぎたころから日差しが強くなり、汗だくになりながらの作業。途中、木陰でコーヒーやクッキー、畑に植わったザボン[1]を食べる小休止を取りながら、何とか3本の木の収穫を終えました。

木陰の休憩用お茶セット

木陰の休憩用お茶セット

そうこうしている間に、オリーブ畑にはサーデクの家族や親せきがどんどん集まってきます。作業の合間に横目で見ていると、いそいそと女性たちによる青空クッキングが始まりました。メニューは、わざわざ車で運んできた簡易な窯で焼く出来立てホカホカ、座布団のような大きさのパン「タブーン」と、パレスチナの伝統料理「シャクシューカ」(レシピはこちら)。唐辛子と一緒に煮込んだトマトに卵を落としたシンプルながらおいしい家庭料理です。トマトの上にポンと割られた卵は、日本語と同じく「目玉(Ain al Ayun)」と呼ばれているそうです[2]。みんなでオリーブの木陰に座り、シャクシューカをタブーンにつけていただきました。仕事終わりにみんなで囲む少し遅めの昼食はとっても美味! デザートに再びザボンまで食べ、おなか一杯になりました。

焼きたてのタブーン

焼きたてのタブーン

シャクシューカ

シャクシューカ

オリーブの季節がやってきた![2]へ続く

[1]皮が厚いので長期輸送も腐らずに持つことからイギリス統治時代に持ち込まれたものだとか。アラビア語で「ポーメリー」と言います。
[2]正しく訳すと「片目(Eye of Two Eyes)」となります。

(パレスチナ事務所 盛田)

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ガザでのイード・アル=アドハー 【1】 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_see/8321/ Tue, 20 Oct 2015 06:00:41 +0000 https://www.parcic.org/?p=8321 こんにちは。9月下旬からラマッラー事務所に加わりました、廣本です。ラマッラーは坂が多い街で、毎日の通勤がいい運動になっています。

さて、私が赴任した9月下旬といえば、日本ではシルバーウィークのお休みがありましたね。実は同じ頃、パレスチナの人びとも連休を迎えていました!シルバーウィークならぬ、イード・アル=アドハーです[1]

イード・アル=アドハー(Eid ul-Adha、犠牲祭の意)は、イスラーム教で定められた宗教的な祝日です。世界中のイスラーム教徒は毎年メッカへ巡礼することが恒例ですが、旅の最後に聖地アラファト山に参拝することで、巡礼はクライマックスを迎えます[2]。イード・アル=アドハーは、人びとがアラファト山を下山した翌日、すなわち巡礼の最終日に当たります。また、巡礼に参加していないイスラーム教徒も、この日は動物を1匹生贄として捧げて祝うことで知られています。今年のイード・アル=アドハーは9月25日で、その前後の9月23日~27日の5日間が祝日となりました。

パレスチナ・ガザの人びとは、どのように今年のイード・アル=アドハーを過ごしたのでしょうか。

パルシックガザ事務所スタッフであり、ワーキングマザーであるタグリードとサハールが、それぞれの家でのイード・アル=アドハーについて記事を寄せてくれました。これから2回に分けてご紹介します。

タグリードの家でのイード・アル=アドハー

Taghreed

パレスチナスタッフのタグリード

夫のムニールとイードのお祈りに向かう道中、タクビールの詠唱を聞きながら、私はイード・アル=アドハー(犠牲祭)の第一日目の始まりを感じました。

この日は、老若男女も子どももみな正装をして、大きな広場に集い、イードのお祈りを捧げます。お祈りの後、人びとは互いに祝福し合い、それぞれの家に戻ります。経済的に余裕がある家では、家畜(羊やヤギか牛、あるいはラクダということも)の屠殺が行われます。屠殺された家畜は「ウッドヒヤ(Udhiya)」と呼ばれ、その肉は三等分されます。そして3分の1は自分たちの家族用に、3分の1は親戚や友人など親しい人びとに、そして残りの3分の1は貧しい人、助けを必要としている人に分け与えます。

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お祈りのために広場に集まった人びと

 

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お祈りに来た女の子

 

私はお祈りの後、まず母方の叔父の家を訪ねました。叔父の家では羊の屠殺が行われていました。

また、私は親戚の人びとと互いに「クル・アーム・ウ・エントム・ビヘイル(Kul ‘Aam w Entum Bekheir)」と言い合いました。これは「今年もお元気で、お幸せに」といった意味のイードの定型挨拶です。

しばらくして私はその場を後にし、子どもたちを着替えさせるため、家に戻りました。家では、子どもたちが早くお出かけしたくてそわそわしていました。イード・アル=アドハーの際には、子どもたちはお小遣い“アエディア(‘Aedia)”をもらうことができます。出かけた先でそのお小遣いを何に使おうかと、子どもたちはもうワクワクです。

 

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おめかしをした女の子たち

 

その一方で、父方の親戚の家では少し状況が違いました。

16日前に伯父の一人が亡くなり、喪中だったので、話し合いの結果、今年のイード・アル=アドハーでは家畜の屠殺は行わないことにしたのです。私も亡くなった伯父の家族を訪ねましたが、伯父のことを話しているときの彼らのまなざしや声の調子からは、まだ彼らが深い悲しみに包まれていることがはっきり見て取れました。

そうしたわけで、私の家でも屠殺は行わなかったのですが、その代わりに、親戚や友人たちが、私たち家族にたくさんの羊や牛の肉をおすそ分けしてくれました。それらを使って、私は牛肉のビリヤーニを作りました。下がその写真です。どうです?美味しそうでしょう?

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牛肉のビリヤーニ

 

犠牲祭の2日目は、まるでサーカスの一団が来たかのように家の周りがお祭り騒ぎでした。なぜかというと…自宅のバルコニーからの写真をご覧ください。ラクダ、ロバ、馬がやってきたので、子どもたちはこれらの動物に乗って大はしゃぎ。また、小さな移動式屋台では、子ども向けに牛肉のサンドイッチとバラド(Barrad)というキンキンに冷えたジュースが売られていました。

 

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ラクダに乗る子どもたち

昨年のガザ攻撃がもたらした痛み、傷、貧困は消えませんが、それでもガザの人びとはイード・アル=アドハーを祝います。

(ガザ事務所 タグリード)

[1] イブラーヒーム(アブラハム)が神の試練に従い愛する息子のイスマーイール(イシュマエル)をアッラーの神への犠牲として捧げようとし、神がそれを見て代わりとなる犠牲の羊を使わしてイスマーイールを救った事を世界的に記念する日とされている。

[2] アラファト山は、聖地メッカの東約25キロメートルにある山で、別名「慈悲の山」と呼ばれる。預言者ムハンマドが最後の説教を行った場所として知られ、メッカを訪れた巡礼者は巡礼月の9日にこの山に登る。この日にアラファト山にいない場合、巡礼が無効になると考えられている。

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パレスチナ・ラマダンリポート(ガザ事務所 サハル) https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_eat/7646/ Tue, 21 Jul 2015 06:54:45 +0000 https://www.parcic.org/?p=7646 ラマダン・カリーム。ラマッラー事務所の盛田です。

中東の各国同様、パレスチナでは6月18日からラマダン(断食月)が始まりました。ムスリムは約1か月間、日の出から日の入りまで飲食を断ちます。パルシックの現地スタッフももちろん日中は水一滴飲まず、初日は少し辛そうでしたが、それでも懸命に日々の業務に取り組んでいます。今回は、そんなパレスチナ事業のスタッフ、ガザ事務所のサハル(Sahar)とラマッラー事務所のヤラ(Yara)がパレスチナの断食についてリポートします。

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サハルは、しっかり者の働くお母さん。昨年のイスラエルによるガザ攻撃の直後から、フィールドを駆け回りながらパルシックのガザ支援に尽力してくれています。

ガザ事務所のサハルからのレポート

「ラマダン・モバラク[1]
「ラマダン・カリーム[2]

これらはラマダンのもっとも典型的な挨拶で、どこに行っても出会いがしらにこれらの言葉が飛び交います。ムスリムにとってラマダンは最も大切な時期であり、赦しと慈悲の月でもあります。特にラマダン・ザカート(Ramadan Zakāt)は重要な習慣の一つであり、しばしば「救貧税」と訳されています。イスラムの五行の一つであり、一定の金額を貧困者に喜捨することが求められる義務的な習慣です。

ラマダンは断食の月。人びとは日の出(fajr)から日没(maghrib)まで毎日飲食や喫煙、性行為などを断ち、誤った言動(暴言を吐く、悪口を言う、ののしる、嘘をつくなど)や喧嘩など、断食で積んだ徳を損ねるような罪深い行いを慎まなければなりません。

ラマダン初日は、日の出の祈りで始まります。午前2時50分から1時間続く祈りの時間は「ソホール」と呼ばれ、午前3時50分に祈りが終わると同時に人びとは飲食を断ちます。一般的に、男性はモスクに行って聖典コーランを読み、夜明けとともに一度帰宅して仕事の前にひと眠りします。他方女性は家で日の出の祈りを捧げ、軽く眠ってから朝の仕事に取り掛かります。

ラマダン中は、数ある家事の中でも料理は午後に後回し。朝食が終わると、次の食事は日没後の午後7時50分なので、女性たちは夕方4時頃ようやく夕食の支度を始めます。男性たちはたいてい夕方5時の祈りのためにモスクへ赴き、空いた時間でコーランを読んで過ごします。

もちろん、子どもたちには子どもたちなりのラマダンの祝い方があります。ラマダンが始まる前日、子どもたちは「ハロー、ハロー、ラマダン・カリーム、ハロー」と口ずさみながら紙やプラスチックでできたファヌース(Fanos)と呼ばれる灯篭で街路中を飾りつけ。ラマダン期間も日没後の夕食「イフタール」の時間帯に自前の灯篭を持ち、歌いながら街を練り歩きます。お母さんたちも負けじと電飾で家を飾り付けします。輝く星と三日月が元気と子どもたちと過ごす喜びを象徴しています。

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ラマダンの装飾ファヌース

ラマダンは分け与える月(Kareem)として有名です。人びとは親せきを互いに訪問し、食べ物を分け合います。ジャムやチーズ、スイーツ(halawa)、デーツ(tamr)、ヨーグルト、乾燥イチジクやアンズ(gamar din)[3]などソホールに食べる物であることが多いです。

16時間飲食をしない断食を実践するのは決して容易ではありませんが、ムスリムは、断食が体から不純物を取り除くと同時に、恵まれない人びとの感情を常に喚起してくれると考えています。またラマダンの期間に断食によって徳を積むと、報い(thawab)はより増すと信じられています。

断食は成人したムスリムにとっては義務(fardh)とみなされていますが、病人や旅行中の人、高齢者や妊婦、授乳中の女性、糖尿病患者、生理中の女性は例外となります。

イフタール(夕食)の準備は女性の仕事。女性たちはこぞって午後4時ごろから準備に取り掛かります。様々な種類の料理を準備しますが、大抵の場合前菜にスープを準備するのが定番です。一日の断食を終えるにあたって、まず初めに口にするのはデーツ3粒。その後、スープで胃腸を動かし、メインディッシュへと進みます。伝統的な料理はファッタ(fatta)、ムサッカン(msakhan)、マクルーベ(maqluba)、 ゲドラ(gedra)[4]などで、クッバ(kubba)やサムブーサック(sambosek)、スープやサラダ、ピクルスなどを前菜として付け合わせます。そのほか、ラマダンの時期だけ作るガターィエフ(gatayef)[5]、クナーファ(knafa)、バクラワ(baklawa)のような特別なデザート、飲み物には水、ジュースやお茶、アラブコーヒーを用意します。

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特設ショップで売られているラマダンのお菓子アワーメ

イフタールの後、人びとはタラウィーハの祈りを待ちます。これはラマダンの夜のみ行われる祈りで、義務ではないものの多くのムスリムが実践しています。その後、親せきや隣人を訪ね、おしゃべりに花を咲かせているうちに夜が更けていきます。

なお、7月6日には、ガザ中部デル・アルバラのレストランでパルシック主催のイフタールを行いました。ガザのスタッフや食糧配布支援で雇用している労働者30名を招待して、断食明けの夕食を共にし、労をねぎらい合いました。普段の活動とは違い、皆リラックスした様子で楽しいひと時を過ごしていました。

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パルシック主催のイフタール

[1] 聖なるラマダン、の意味。
[2] よいことがたくさんあなたに起こりますように、の意味。カマルディンともいう。ガマルディンはガザの方言。
[3] 小さく切って水に溶かし、ジュースにしたものがラマダンの定番ドリンク。
[4] ケドラとも。ゲドラはガザの方言。
[5] カターィエフのガザ方言。

(ガザ事務所 サハル)

1日の断食明けの食事(イフタール)の様子、停戦から1年目のガザ
(引用:Pkdhamal.com)

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ラマッラー現地レポート#4 ナブルス歩き前編:旧市街と第二次インティファーダ https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/7298/ Thu, 23 Apr 2015 11:53:13 +0000 https://www.parcic.org/?p=7298 マルハバ(こんにちは)!ラマッラー事務所の盛田です。

4月11日でパレスチナに赴任してちょうど一か月。ラマッラーの雰囲気にも慣れ、週末には近くの街まで足を延ばせるようになってきました。私のいるヨルダン川西岸地区は、大きさが三重県と同じくらいという小さな地域ながら、方言や料理の味付けが少しずつ違い、豊かな地域的多様性を誇ります。その中から今日は、ヨルダン川西岸北部の街ナブルス(Nablus) を紹介したいと思います。

ラマッラーから乗り合いタクシー(セルヴィス)で北へ1時間程度走ったところに位置するナブルス。パレスチナでは、どこに行くにもイスラエルの検問所を見かけますが、この短い道のりの途中にも検問所が2か所設置されています。1つは、常設のザアタル検問所(Za’atar)。もう1つが状況に応じて設置されるフッワラ検問所(Huwwara)です。どちらも常時イスラエル兵が駐在しており、時々行き交う車を止めて調べるので、検問付近に長い渋滞ができていることもしばしば。幸い、今回は止められずに通過できましたが、この辺りからイスラエルの違法入植地の案内板も現れ始めます。

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出典:UNOCHA

ナブルスは、南をゲルジム山、北をエバル山に囲まれた谷合に広がり、古く聖書にもシェヘムという名前で登場しています。水資源に富むためオリーブの生産が盛んで、オリーブオイルを使った石鹸は街の特産品です。甘味も有名で、特にアラブ世界でよく見かけるホワイトチーズのお菓子クナーファ(Kunafah)は絶品。パルシックの現地スタッフも「クナーファを食べるならナブルスで!」と言い切ります。2009年にはここで全長74メートル、重さ1,765キロのクナーファを作り、ギネス世界記録にも登録されました。その一方で、西岸に8つある4年制大学のうち最もレベルが高い3大学の1つ、ナジャーフ大学を擁する学問の都市でもあり、たくさんの学生でにぎわっています[1]

[1] 他の2つはビルゼイト大学(ビルゼイト)とアムリキーヤ大学(ジェニン)。

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クナーファは地元の人にも大人気

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積まれたオリーブオイル石鹸

この街では昔からムスリム、クリスチャン、サマリア人など様々な人びとと宗教が共存してきました。サマリア人は、聖書の「善きサマリア人のたとえ」で聞いたことがある方も多いかもしれませんが、ユダヤ教の一宗派を信仰している人びとです。彼らのコミュニティは、ナブルスを除けばホロンテル・アビブにしかなく、規模もかなり小さくなっています。街を案内してくれたムハンマドさんによると、サマリア人と結婚するには同じコミュニティの人か、相手が改宗するかしなければならないため、特に男性は婚活に苦労しているとか。

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サマリア人の男性

バス停から5分も歩くとナブルスの旧市街に入りますが、中心街とはがらりと雰囲気が変わります。エルサレムを思わせる美しい石造りの街並みはローマ時代の名残があり、街の名家が住んでいたというシリア風の邸宅跡や現在も開業中のトルコ風呂、イギリス植民地時代の郵便局跡などを見ることができます。現在は未曾有の苦境にあるシリアのダマスカスに似ていることから「リトル・ダマスカス」と呼ばれることもあるそうです。

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旧市街の目抜き通り

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トルコ風呂

一方で、地元の人びとにとって旧市街はつらい記憶が満ちた場所でもあります。

2000年9月に始まった第二次インティファーダ(パレスチナ人による反占領抵抗運動)は、イスラエルの過酷な軍事弾圧を受け、パレスチナ側で4,000人以上の死者を出しました。2002年ナブルスもイスラエル軍の侵攻を受け、旧市街は占領・封鎖されました。特にナブルスでは280日以上の長期にわたって厳しい外出禁止令が敷かれ、外出した市民が狙撃されて亡くなったり、住居・遺跡が破壊されたりしたことに加え、物資の出入りが制限されて経済的に困窮しました。これによって街を離れざるを得なくなった人も多かったといい、閑散としたエリアが目立ちました。当時は40か所近くあった石鹸工場も、今では2つまで減ったといいます。

街を歩いている途中、ムハンマドさんが何もない街路でふと立ち止まり、すぐそばの建物を指しながら教えてくれました。「ここは病院でした。治療を受けに来た住民7人が、隣の建物にいたイスラエルの狙撃兵に撃たれて亡くなったのです。病院は今ではもうやっていません」

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病院のあった跡。ここで7人が亡くなった

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隣の建物の窓にスナイパーがいた

外から来た私には、説明されなければ気付かず見過ごしてしまいそうなものも多いですが、気を付けてみればこの時の犠牲者・戦死者を悼む碑やレリーフがあちらこちらにひっそりと存在を主張していました。住民にとってはたった15年前の話であり、まだ記憶というには生々しい体験であることを感じた訪問でした。

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街の端に残されていた壁画。地元の方とボランティアが描いた、パレスチナの風刺漫画家ナージー・アルアリーのキャラクター「ハンダラくん」と反占領のメッセージ。ハンダラくんは、パレスチナの抵抗のシンボルとなっている。

(ラマッラー事務所 盛田)

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復興を願って、ガザと釜石を繋ぐ合同凧揚げを開催 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_gaza/7002/ Mon, 16 Mar 2015 09:32:03 +0000 https://www.parcic.org/?p=7002 “Friends under the same sky”

3月9日、ガザ南部のKhanYounis(ハーン・ユニス)にあるビーチで、ガザで暮らす約1,000人の子どもたちが、2011年の東日本大震災で被害を受けた子どもたちに対して、犠牲者を追悼する凧揚げを行いました。同時に日本から、岩手県釜石市の子どもたちが、ガザの人びとに向けたメッセージを書いた「希望の凧」を揚げました。

今回の凧揚げは、特定非営利活動法人日本リザルツとUNRWA(国際連合パレスチナ難民救済事業機関)主催で行われました。パルシックは、今回のこのイベントに、ガザ中部のDeir El Balah(デル・アルバラ)にあるDBRS(Deir El Balah Rehabilitation Society:デル・アルバラ リハビリテーション ソサイエティー)の子どもたち200名とともに参加させていただきました。

※パルシックは2015年3月よりDBRSをパートナー団体とし、去年の夏のイスラエルからの攻撃で被害を受けたデル・アルバラ地区の子どもたち300人に対して、心のケア支援を開始しました。

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事前準備。凧作りをする子どもたち

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凧揚げ当日、バスにて会場へ移動。200名の子どもたちと30名のスタッフが会場となるガザ南部のハーン・ユニスへ。2014年の4月以来の遠足で、子どもたちはとても嬉しそうにしていました。

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東日本大震災で被災した日本の子どもたちへの想いを送ったイベント「希望の凧」

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会場では、たくさんの子どもたちが所狭しと凧揚げを楽しみました。

凧あげイベントを終えて

ホルードさん(14歳) 難聴者

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凧あげのイベントに参加できてすごくうれしかったです。私にとってハンユニスは、とても遠いところでした。先生が、凧あげのイベントの趣旨を教えてくれた時、津波で被害を受けた同じ年齢の子どもたちがかわいそうだと思いました。

ロアイくん(13歳) 難聴者

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僕は、凧作りも参加しました。凧あげの日をとても楽しみにしていて、イベントの前の晩は、凧あげの夢を見ました。凧あげ当日、自分の飛ばした凧は、前の晩に見た夢以上にキレイでした。凧をあげている時、たくさん走ったので、喉が渇きました。

タグリードさん(16歳) 難聴者

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私たちガザの子どもたちは、戦争により被災者となり、東北の子どもも津波により被災者となり、私たちには、被災者の人びとの気持ちが良く理解できます。

ハラさん(24歳) 教師

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被災者の人びとに対して悲しい気持ちでいっぱいです。津波の映像をテレビで見たのを覚えています。子どもたちのことを想い、お祈りいたします。

パルシックガザスタッフ サハール

今年で4回目となる凧揚げのイベントに、今回初めてデル・アルバラの子どもたちが参加でき、うれしかったです。子どもたちは凧あげを楽しんだだけではなく、津波の被害を受けた同じ年齢の子どもたちの悲しみを理解しました。ガザの子どもたちは「東北の子どもたちの気持ちが分かる」とガザからメッセージを送りました。そして東北の子どもたちを少しでも元気づけることが出来たと思っています。これからもお互い励ましあっていきたいと思います。
(アンマン事務所 大野木)

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