ガザ人道支援 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Sat, 19 Sep 2020 07:46:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 サハルの冒険2 旅は憂いもの辛いもの<後編> https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/17134/ Wed, 01 Jul 2020 02:29:22 +0000 https://www.parcic.org/?p=17134 サハルの冒険2 <前編>より

インターネットでビザに必要な書類を調べてみる。以前、ヨルダン領事館から代理申請の場合は代理人委任状を持ってくるように言われたので、それはサハルに頼んで取り寄せていたが、他の書類についてはどこを探しても記述がない。

「うーん。ま、いっか。とりあえず行って聞いてみよう」
これが通用するのがアラブ社会の寛容なところである。

通訳兼代理人の同僚ヤラと財布役の私とでヨルダン領事館へ向かった。とれたての日本のビザを強調しつつ「ガザ地区のスタッフを日本に招聘するため、ヨルダンをトランジットで利用したい」と説明すると、あっさり「向かいの机で申請書を書くように」と告げられ、ヤラにアラビア語で申請書を埋めてもらう。
「パスポートのコピーを取らせて」と言われ、意外に簡単に済みそうだとホクホクしながら申請書と一緒にサハルのパスポートを差し出すと、それまでスムーズに手続きしていた領事館員が急に渋い顔になった。

「このパスポート、更新しないとビザが出せないよ」
えっ。そんな馬鹿な。日本のビザですら下りたのに?
「ヨルダン出入国の時点で残存期間が6カ月ないとビザを出せないんだよ」

慌てて確認すると、渡航予定日からパスポートの有効期限まで5ヵ月と少し、確かにぎりぎり足りていない。日本のビザを申請したときの渡航予定日が、手続きなどあってヨルダンビザ申請時には少し後にずれていたので、どうやらそのせいらしかった。

「パレスチナの内務省にパスポート発給の部署がある。近いし、今から行っておいでよ」
とヨルダン領事館員。しかし、ここで重大な問題に気付く。
「いや、でも待って!このパスポートにはすでに日本のビザが……」
「新しいパスポートでビザを取り直したら?日本の代表事務所、このビルの上階だよ」
偶然にもヨルダン領事館と日本の代表事務所は同じビル内にある。
「だめだめ、ラマッラーの日本代表事務所ではビザの発給はやってないんだよ。テルアビブでとり直しになってしまう。そんな時間はもうないし、行ける人もいないし……」

パレスチナのパスポートを片手にうろたえまくっている日本人をさすがに気の毒と思ってくれたのか、「ちょっと待って」とヨルダンの領事館員が奥に一度引っ込んで、すぐ戻ってきた。

「やっぱりこのままではビザは出せないけど、新しいパスポートを作って、古いパスポートも内務省に事情を話してキープさせてもらったらどう?こちらとしては新しいパスポートさえあればビザは出せるよ。ヨルダン渡航の時は新しいパスポートを出して、日本入国の時は古いパスポートで通ればいいよ」
私は、親身になって方法を一緒に考えてくれた親切なヨルダン領事館員に対し、失礼にも「日本はアラブ諸国とは違うので、そんなやり方でいけるわけがない」と甚だ不安に思ったが、とにかくヨルダンビザがないことには話にならない。至急パレスチナの内務省に確認するしかなさそうだった[1]

ヨルダン大使館を飛び出てタクシーを捕まえ、今度はパレスチナ内務省パスポート担当課へ向かう。同僚のヤラがいつもパスポートを更新している場所だ。申請書などが必要だとヤラが言うが、それも行ってその場で聞いて、可能であればその場で書けばいい。とにかく日本のビザがどうなるかだけでも確認しなくては。ところが、ついてみると窓口で事情を説明していたヤラが困った顔で振り返った。

「ガザ住民のパスポート更新はここじゃできないみたい」
「え?じゃあどこに行けばいいの?」
「ヨルダン領事館の向いのビルに、ガザ住民用に別のパスポート担当課があるって……」
そうしてとんぼ返りとなる。

パレスチナの役所は平日なら3時、この日のように木曜日であれば2時には閉まる。ぎりぎりの1時半頃にガザ住民用のパスポート担当課の事務所に駆け込んだ。

「パスポートを更新したいが、すでに取得した日本のビザがあって、古いパスポートもキープさせてもらいたいのだがそれは可能か」、としつこく確認し、どうやら可能らしいとわかったところで「ところで、代理人申請の委任状を出して」と言われる。すかさず、サハルに予備で書いてもらっていた委任状を差し出すと、「任意の書式じゃなくて、ちゃんと司法書士が作成したやつだよ」と言われて面食らった。

考えてみれば当たり前なのだが、役所の業務であっても割とルーズなパレスチナの対応に慣れ切っていたため、ちゃんと正規の手続きを求められるとは全く予想していなかった。すぐにサハルに電話し、翌週彼女が近くの司法書士事務所を訪問して作成してもらった書類をラマッラーに郵送する段取りとなった。

2時過ぎ、ようやくパスポート担当課の事務所を出る。人っ子一人いない廊下を抜けると、ビルの出口はすでに施錠されていた[2]

[1] 後で確認したところ、国によるが有効なビザのある旧パスポートと更新されたパスポートの併用は可能なことも多いそうなので、本当に失礼だった。

[2]その後、ガザ地区からパスポート更新申請書類が西岸のパスポート担当課に送られ、無事パスポートを更新。そのままヨルダン大使館でビザを申請し、1週間程度でビザが下りた。懸念であった旧パスポートは、通常穴があけられて破棄されるところ、最初のページに「Cancelled」のハンコが押されただけで返された。念を入れ、日本大使館に恥を忍んで事情を話したところ、日本のビザにハンコが押されていたり、穴があいたりしていなければ、新旧パスポート併用で入国できると丁寧な返答をもらった。

(パレスチナ事務所 盛田)

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サハルの冒険2 旅は憂いもの辛いもの<前編> https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/14115/ Wed, 01 Jul 2020 02:25:26 +0000 https://www.parcic.org/?p=14115 サハルの冒険1<後編>より

手元には、サハルのパレスチナパスポートがある。

日本大使館でサーデクにビザを申請してもらうため、ガザ事務所からラマッラー事務所に送ってもらったものだ。

パレスチナ人にとって、旅の準備は「渡航先のビザを取れば終わり」ではない。しつこいようだが世界ランキング96位、まだまだやらねばならないことは山積している。だが、ここからは、パレスチナ人の中でもその「所属」によって取るべきプロセスが枝分かれしていく。

パレスチナにおいて「所属」はあまりに複雑だ。複雑すぎてその全貌はなかなか見えない。が、パスポートだけに焦点を当てて単純化するとほぼ3~6つくらいのカテゴリーに分けることができる。

  1. パレスチナのパスポートしか持たないパレスチナ人
  2. ヨルダンなどほかの国のパスポートとパレスチナパスポートを持つパレスチナ人
  3. イスラエルパスポートを持つパレスチナ人

そしてこれに居住場所別の区分が付け加わる(ヨルダン川西岸地区、イスラエル国内およびエルサレム、ガザ地区)。日本人からしてみると、ここまででもはや理解の範疇を超え始める。とまれ、あくまで「海外へ行く」ということだけに焦点をあてて、1のケースを考えてみる。

ではまず、1のケースに当てはまるヨルダン川西岸地区に住むパレスチナ人の場合だ。

パレスチナ自治区内には現在稼働している空港がない。そのため、空路で海外へ行くためには、イスラエルかヨルダンの空港を使うことになる。だが、パレスチナ人がイスラエルの空港を使うには、まず西岸地区の検問所を抜けるための「入域許可証」と、別途「空港の利用許可証」2種類の許可証が必要らしい。そして、申請したからと言って必ず許可が下りるわけではなく、下手をするとフライトの当日にやっと許可が下りた旨の連絡がくることもあるというから、とても現実的とは言えない(ちなみにビザを取る時点でフライトの予約確認書を提出する必要があるから、よほど細かい変更のできる高価なチケットを持っていなければ、高い確率でお金を失うことになる)。

そうすると、必然的に隣国ヨルダンへ陸路で移動し、空港を使わせてもらうことになる。パレスチナ人の多くはヨルダンに親戚がいることもあり、ヨルダンへ行く機会は極めて多い。そのため、ヨルダンと陸続きの西岸地区に住むパレスチナ人は、ヨルダン入国にビザが要らない。

パレスチナは軍事占領下にある。だから国境を管理しているのはパレスチナ人ではない。西岸地区からヨルダンに行くには、ジェリコ県にある、イスラエルが管理するアレンビー検問所を抜け、国境地帯を通ってヨルダンの管理するキング・フセイン検問所で入国手続きを行う。

ビザが要らないとはいえ、これらの国境検問所がパレスチナ人にとって使いやすいかというとそうでもない。活動家としてブラックリストに載っている人物と同姓同名(の別人)という理由でヨルダン入国を断られた人もいると聞いた。ヨルダンは西岸地区のパレスチナ人にとってほとんど唯一の海外への出口だから、ここでイスラエルから出域、もしくはヨルダンから入国を拒否されるということは西岸地区から出られないということを意味する。

国境検問所だって24時間週7日開いているわけではない。混雑していることも、出入国管理官に止められて審問にあうこともざらだから、検問所通過で4~5時間待ちは十分あり得る。そして、キング・フセイン検問所から空港のある首都アンマンまでは車で2時間程度の距離だ。

海外旅行慣れしている人はおそらくピンとくるはず。たいていの空港は、フライトの2時間前までにチェックインするように求めている。ジェリコ県以外に住んでいる場合は、アレンビー検問所に行くまでだって移動時間がかかるのだ。フライトの何時間前に家を出なければならないかを考えると気が遠くなる。たとえ渡航先のビザが取れたとしても、楽な道などない。

そんな長旅へ、齢60歳のサーデクは出発していった。

出発前に、搭乗時間「午前2時」を「午後の2時」と勘違いするハプニングはあったものの(アレンビー検問所はこの時期、朝8時から夜24時までの運営だったため、午前2時アンマン発のフライトであれば、遅くとも前日の夕方には出発せねばならない)、ともかくも無事旅立ったのを、旅路が楽であればいいと祈りつつ見送った。

息をつく暇もなく、今度はサハルの渡航が迫る。

ガザ地区に住むパレスチナ人の場合、陸路の移動でぐったり疲れ切った西岸地区住民よりはるかにややこしいプロセスを踏む、と聞けばうんざりすること必至だ。

ガザ地区は2007年より軍事封鎖下にある。「天井のない監獄」と呼ばれるほど、その出入りは制限されている。その限られた出入り口が、イスラエルが管理する「エレツ検問所」とエジプトが管理する「ラファ検問所」だ。そしてそのどちらも一筋縄ではいかない。

「エレツ検問所」を通りたければ、ガザ地区の住民にとって最も手っ取り早い方法は国連や他国の大使館、大手国際NGOのスタッフになることだろう。なぜなら、よほどのコネと理由がない限り、エレツ検問所の通行許可は下りない。どのくらい下りないかと言えば、ガザ地区の病院から緊急でイスラエルや西岸地区へ搬送しなければならない重体の患者が数日、下手をすると数週間、ひたすら許可をじりじり待つくらい下りない。そして理由が明示されないまま「許可証」の申請が却下されることもある。運よく検問所の通行許可が下りたとしても、通ってそこでおしまいではない。西岸地区住民と同じく、海外に出るためにはイスラエルもしくはヨルダンの空港を使わねばならないからだ。といっても、イスラエルの空港を使うという選択肢はミクロの確率なので、大抵はヨルダンの空港を使うことになる。

その際、さらに1つの分かれ目になるのが「西岸地区に滞在するか、しないか」だ。なぜならば、この「滞在」があるかないかで必要な許可証の数、許可が下りるまでにかかる時間、許可の下りやすさなどが変わってくるのである。

エレツ検問所の「通行許可」はあくまで、ガザ地区を出てよい、ということであって、イスラエル領内への入域や西岸地区での滞在を自動的に認めるものではない。毎週火曜日にエレツ検問所から出ているバスは「許可」を得たガザの住民をまっすぐアレンビー検問所の出入国管理局まで連れて行く[1]。寄り道、道草、途中下車は一切許されない。

では、西岸地区に滞在したいときはどうするのか。そう、「ヨルダン川西岸地区滞在許可」を取るのである。

関門は続く。エレツ検問所を無事通過し、さらに西岸地区を通過もしくは滞在したとして、ガザ地区のパレスチナ人と西岸地区のパレスチナ人では明らかに違うことがある。

ヨルダンはガザ地区のパレスチナ人については事前のビザ取得を求めているのだ。基本的にキング・フセイン検問所からヨルダンへ入国するときはビザが必要だが、キング・フセイン検問所ではビザ発給サービスを行っていないので事前に取得しておかなくてはいけない。

長くなったが一言でいうと、そう、ガザ住民であるサハルの場合はヨルダンビザが必要なのだ。

「ラファ検問所」については後ほど説明するとして、さて、再びビザである。ヨルダンは領事館をガザ地区に置いていないので、ガザ地区から申請しても申請書は西岸地区のラマッラーにあるヨルダン領事館までやってくる。

そんなわけで、手元にあるサハルのパスポートを持って、日本人スタッフがラマッラーのヨルダン領事館まで出向くことにした。

・・・サハルの冒険2<後編>に続く

[1] 正確にいうと、ジェリコのパレスチナの出入国管理局で降ろされ、そこで出国手続きをしたのち、バスを変えて「アレンビー検問所」まで行く。

(パレスチナ事務所 盛田)

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サハルの冒険1 旅の準備は何から?<後編> https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/14035/ Thu, 08 Nov 2018 02:10:22 +0000 https://www.parcic.org/?p=14035 サハルの冒険 1 前半より

救世主は意外なところにいた。

今年60歳を迎えた西岸事業の農業専門家・サーデクだ。サハルよりも早い日程で日本へ出発する予定で、もちろん彼もビザを取る必要がある。

西岸地区の検問所の通行規定にも例外がある。それが「男性なら60歳以上、女性なら55歳以上の場合」だ。これに当てはまるパレスチナ人は「許可証」がなくても検問所を通ることができる。だから、金曜日のラマッラー発エルサレム行きのバスには、アル・アクサモスクへ向かうおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんがいつもぎゅうぎゅう詰めになっている。

「サハルのビザも一緒に申請してきてほしいのだけど……」

と頼むとサーデクは快くOKしてくれた。テルアビブは遠いが、大使館での申請は時間予約制。渋滞や検問所の通過に時間がかかることを考えると、かなり早めに出発しなければならない。アラブ世界は比較的時間にルーズだが、日本人にそれは通用しないので、スムーズに到着できた場合は待ち時間が長くなるだろうと思うと少々申し訳ない。

「ついでにテルアビブで魚を食べてくるよ」

とサーデクが言う。ヨルダン川西岸地区には海がない。

テルアビブのビーチ

テルアビブのビーチ

イスラエルで陸揚げされた地中海の海の幸

イスラエルで陸揚げされた地中海の海の幸

さて、テルアビブに行く前に、申請書類の準備だ。必要書類を、念のため在イスラエル日本大使館に問い合わせた。パレスチナ人を日本に招聘する場合、必要な書類は2タイプある。申請者、すなわちサハルやパレスチナ事務所が準備しなければならない書類と、招聘者(日本側)、すなわちパルシックの東京事務局が準備しなければならない書類だ。パレスチナ側で準備する書類はパスポート、ビザ申請書、写真、フライトスケジュール、ホテル予約書、在職証明書、IDカードの写しなど。日本から用意する書類は、身元保証書、招聘理由書、滞在予定表、法人登記簿謄本などだ。これらは原本を大使館に提出する必要があるから、サハルの作る書類はガザ事務所から、東京事務局の書類は東京から郵送してもらわなければならない。

ところで、イスラエル・パレスチナの郵便事情はとても悪い。今までにも日本や他の国から送付されて手元まで届かず、どこともしれぬ場所をいまだにさ迷っているらしき年賀状や小包が数個ある。暑中見舞いの時期にクリスマスカードが届いたこともあった。そしてさらに間が悪いことに、この時パレスチナではちょうどイード休みが刻一刻と近づいていた。

犠牲祭前になると駄菓子屋さんも羊だらけに

犠牲祭前になると駄菓子屋さんも羊だらけに

イードとは、パレスチナでは1年で最も長い祝日だ。ラマダン(断食月)明けの祝祭イード・アルフィトルと、ハッジ(メッカ巡礼)後のお祝いであるイード・アルアドハ(犠牲祭)の2種類あり、短い年で3日、週末などとくっついて長くなる時は1週間くらいになることもある。イスラームの祭日は太陰暦であるイスラーム暦に従っているから、太陽暦である通常の暦の上では毎年約10日ずつ前倒しになっていく。そのため今年のイード・アルフィトルは614日~16日、イード・アルアドハは821日~23日に前夜祭と週末がくっついて9日間の大型連休となっていた。

日本の常識は、パレスチナの非常識。もちろん休暇期間に入ってしまえば、ほとんどの店やオフィスは完全に閉まるし、サービスも止まる。サーデクの出発は9月初旬を予定していたが、大使館でのビザ発給業務は申請してから510営業日程度を見込んでください、と言われていた。なかなかの綱渡りだ。大急ぎで書類を作成し、イード1週間前にガザ事務所、東京事務局それぞれから発送した旨の連絡をもらった。

通常の郵便を使うと、ラマッラーガザ間ですら1カ月もかかるので、大切な書類はDHLAramexFedExなど、少々お高いがドアツードアの国際宅配サービスを使う。

「無事、書類発送しましたよ~」

という東京からのメールにほっとしたのもつかの間。

「いまDHLからお電話があって、郵便番号がないと宅配できないと言われたのですが…」

郵便番号も書かないとはなんて凡ミス、と言われる前に弁解する。パレスチナの住所はひどく曖昧だ。番地があるところもあるが、大抵の住所は「xxx通り、男子中学校前」「ラマッラー、○○ビル3階」「△△広場近く、モスクの隣」、これだけだ。こちらのコミュニティ内では住民同士の距離感が近く、誰がどこに住んでいるといった情報はほとんど筒抜けだからかもしれない。あとは念のため電話番号を添えておくと大抵届く。

といった説明でDHLの人が納得してくれたのか、東京のスタッフが力技で丸め込んだのかはわからないが、とにかく翌日書類は発送され、イード直前の火曜日にはこちらに着く段取りとなった。イードが始まるのはその週の金曜日からだから、大使館訪問を水曜日か木曜日に入れてもぎりぎり間に合う、と思ったものの、気づけばとうに火曜日、待てども暮らせども書類が来ない。トラッキングを確認すると、いま中国にいるという。見れば、到着予定日はいつの間にか木曜日になっている・・・。結局大使館への書類提出はイードのさなかである820日に延期となった。幸い、イスラエルの祝日カレンダーに従っている在イスラエル大使館はイード中でも開館している。

結局、ガザ地区からの書類の到着も遅れ、イード中でパルシックの事務所も閉まっていたため受け取りですったもんだがあった挙句、サーデクの住む村を通るという都市間乗り合いタクシー(セルヴィス)のドライバーに申請書類一式を託した。郵便局の郵送サービスは何日かかるかわからないが、セルヴィスなら毎日走っている。相手の電話番号さえわかれば、村に立ち寄って届けてくれるから、なんだかんだで、西岸地区内の宅配サービスでは一番早くて確実だったりする。

そうして無事サーデクの手元まで届いた書類は、その後大使館に提出された。それから待つこと数日。ビザが出たかどうか、どうやって確認するのかわからないまま、電話でもかかってくるのだろうかと余裕ぶっていたが、13日目(10営業日後)の金曜日、まだビザが出ていないのであればいよいよやばい、と焦って大使館に電話をかけてみた。

「確認しますね」

と言われて待つことしばし、

「あ、お二人ともビザ出ていますよ~」

「え!?ええと、え?出てますか?二人とも?あ、ありがとうございます!」

そんなわけで、週明けにサーデクがあわてて大使館まで取りに行く。サーデクの日本渡航まで5日を切っていた。

サハルの冒険2<前編>へ

(パレスチナ事務所 盛田)

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サハルの冒険1 旅の準備は何から?<前編> https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/13986/ Thu, 01 Nov 2018 07:09:36 +0000 https://www.parcic.org/?p=13986 2018年、日本のパスポートが、パスポートランキングなるもので「世界最強」を勝ち取った。もちろん防弾仕様とか耐熱加工、はたまた鉄板などが埋め込まれていて物理的に強く、防犯対策もバッチリ、などというSFチックな(?)話ではなく、ビザなしで渡航できる国の数が199か国中、シンガポールと同率最多の180か国となったのだ。

なんと!めでたい。

日本人としては素直にありがたい話だ。パスポート片手にうきうきと脳内で行く予定もない旅行計画が立ち上がり始める。

そこで、ふと気になって「ところで、パレスチナは……」と見てみると、ずずい、とリストを一気にさがって「39か国ビザなしOK」でエチオピア、南スーダンと同率の世界ランキング96位だ。ちなみに、パルシックの海外事務所のあるトルコは49位(111か国)、東ティモール57位(85か国)、スリランカ94位(42か国)、レバノン97位(38か国)。最下位は103位シリア(28か国)、104位イラク(27か国)、105位アフガニスタン(24か国)と軒並み中央・西アジア諸国が並ぶ。一概に判断はできないが、下位の国になればなるほど、「海外への旅」は容易ではなくなる。その苦労を思えば、ふわふわの脳内旅行計画は一気にしぼんだ。

8月、パレスチナ事務所ガザオフィス代表、一番の古株スタッフでもあるサハルを日本に招聘する話が持ち上がった。ガザ地区において外務省のNGO連携無償資金の助成を受けて実施中の「ガザ南部における酪農を通した女性グループの生計支援」事業の打ち合わせや報告、調査などを行うためだ。パレスチナを含む西アジア地域から現地の方を招聘することは、パルシックでは初めて行う試み。ヨルダン川西岸地区ナブルス県で行う「地域循環型社会の促進」事業に従事する農業専門家・サーデクもサハルに少し先行するスケジュールで、日本で技術研修を受けることが決まり、2人の日本渡航の準備が急ピッチで始まった。

ヨルダンパスポートを持つパレスチナ人は多い

ヨルダンパスポートを持つパレスチナ人は多い

とはいえ、何事も一筋縄ではいかないのがパレスチナ。日本のように「思い立ったら週末にパスポートを持ってひらりと空港」、なんてわけにはいかない。旅行計画は綿密に。さて、では、何から準備しよう?
素敵なデザインのスーツケースを新調……ではなく、日本人でなければまずは「ビザ」だ。
繰り返すがパレスチナは世界パスポートランキング96位、日本への渡航には当然ビザが要る。が、ここですでに問題発生。

「どうやってビザをとろう?」

日本はパレスチナを国家承認していない。それがどうしたと言いたいところだが、これがなかなかの難問だ。日本は、在イスラエル日本大使館を地中海に面した都市テルアビブ、在パレスチナ日本代表事務所をパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区の中心的都市ラマッラーに置いている。日本代表事務所、とは聞きなれない響き。簡単に言うと、国家承認をしていないからパレスチナに大使館は置けないが、その代わり日本政府が外交を行う拠点として代表事務所を置いている。大使館に似た機能を持つ日本政府の事務所といったところだ。

ところが、である。パレスチナ人の日本ビザ取得について大使館に問い合わせたところ、ラマッラーの代表事務所ではビザの発行を含む領事業務は行っていないとのこと。つまり、申請人がパレスチナ人であっても、ビザを取るにはイスラエル国内のテルアビブまで出向かなければならないのだ。ラマッラーからテルアビブまでは公共交通機関を乗り継いで4時間程度。遠いが行けない距離でもない。

「じゃあ、今週末、ちょっくらテルアビブ行ってくるから!」

そうは問屋が卸さない。パレスチナ人がイスラエル領内に行こうとすれば、高い高い壁が立ちはだかることになる。これは比喩ではない。

 

パレスチナ自治区と呼ばれる地域は、現在イスラエルの軍事占領下にある。

ガザ地区は、2007年からイスラエルによる軍事封鎖下におかれ、人とモノの移動は厳しく制限・コントロールされている。人の出入りができるのはイスラエルの管理するエレツ検問所とエジプトの管理するラファ検問所の2か所、物の出入りができるのはケレム・シャローム検問所の1か所のみ。そして、ラファ検問所は常時は閉鎖されていて不定期にしか開かない。エレツ検問所は外国人であれ、住民であれ、一般人の出入りはほとんど不可能だ。

他方、ヨルダン川西岸地区はと言えば、西岸地区とイスラエルの間に分離壁が築かれ[1]、両地域の自由な行き来を阻んでいる。移動するには要所要所に設置された軍事検問所を通り、イスラエル当局から発行された「ビザ」(外国人)や「入域許可証」(パレスチナ住民)を見せなければならない。そして「許可証」を持たない西岸地区のパレスチナ人は、イスラエル領内およびエルサレムへ行くことはできないのだ。日本大使館も、そこはパレスチナの特殊な事情を考慮し、代理人による査証申請を認めている。

エルサレムの分離壁

エルサレムの分離壁

ならば今こそ「最強のパスポート」をもつ日本人の出番!

――とは、ならなかった。諸事情あって、現在駐在員のもつビザには滞在可能な地域に制限がかかっている。「最強」もここでは例外。誰が大使館に行くか、それが問題だ。

・・・後編へ続く

ベツレヘムの分離壁。トランプ大統領の顔に×が

ベツレヘムの分離壁。トランプ大統領の顔に×が

[1] 高いところで8m、ベルリンの壁の約4倍の長さがある。より正確には、分離壁のほとんどは1967年停戦ラインよりヨルダン川西岸内部へ食い込む形で建てられている。国際司法裁判所では、2004年、分離壁の建設を国際法違反との判決を出している。

(パレスチナ事務所 盛田)

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パレスチナ:尊厳と法的権利を求めて [寄付のお願い] https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_gaza/13549/ Fri, 27 Jul 2018 08:03:29 +0000 https://www.parcic.org/?p=13549 ガザ市境界線沿い、充満する催涙ガス(引用:“Pictures of the Day: 4 July 2018,” The Telegraph, https://www.telegraph.co.uk/news/2018/07/04/pictures-day-4-july-2018/israeli-security-forces-fire-tear-gas-canisters-palestinians/)

ガザ市境界線沿い、充満する催涙ガス(引用:“Pictures of the Day: 4 July 2018,” The Telegraph, https://www.telegraph.co.uk/news/2018/07/04/pictures-day-4-july-2018/israeli-security-forces-fire-tear-gas-canisters-palestinians/)

過去4ヶ月間にイスラエルの非道な行動がもたらした闇のなかで、「帰還の大行進」はパレスチナの抵抗運動に特別な光を差し込んだ。

「帰還の大行進」は、パレスチナの問題がアラブ諸国やイスラム世界によって、またアメリカや強大な西側諸国によって解決されるものではないという、パレスチナ人自身の気づきと認識の刷新、新たな抵抗の形である。世界が沈黙し、目を逸らし続ける中、エルサレムとバグダードを売った者たちが、今日のダマスカスの代償を払うことはないだろう。こうした教訓からパレスチナ人がたどりついた答えは、ガザの問題もまた同様になおざりにされるだろうというものである。いまも昔も代償を払い続けているのはガザの人びとである。彼らはガザ、ヨルダン川西岸、1948年占領地[イスラエル内部]のすべてのパレスチナ人に向けて、帰還権とガザの封鎖解除を求める市民運動を組織するため、行動を起こすよう呼びかけた。

1万人以上のパレスチナ人が、ナクバ70周年に向け、ガザ地区東部の境界線数キロメートル沿いに集まり、トランプ・アメリカ代表団によってイスラエルの首都と宣言されたエルサレムのために行動を起こした。抵抗の形は集会だけでなく、デモではパレスチナの大きな旗が掲げられ、ダプカ(パレスチナ伝統舞踊)が披露され、殉教者の名前で飾られた風船が揚げられた。ラマッラーとハイファでも大規模デモが行われた[1]

西岸地区ラマッラー、ベイト・イル検問所、雨のように降り注ぐ催涙弾(写真提供:Ramez Awwad)

西岸地区ラマッラー、ベイト・イル検問所、雨のように降り注ぐ催涙弾(写真提供:Ramez Awwad)

緩衝地帯の農地横を通り過ぎる救急車(写真提供:PARC Gaza)

緩衝地帯の農地横を通り過ぎる救急車(写真提供:PARC Gaza)

境界線沿いに設置されたフェンス近くのいくつかの地点から、イスラエル軍がデモ参加者に向けて発射した銃弾や催涙ガス、爆弾によって、3月30日から6月30日の期間に少なくとも135人のパレスチナ人が死亡し、15,501人が負傷した[2]

ガザの人びとは冷酷な者たちによって殺された。その多くは非武装の子ども、女性、男性、老人、看護師、ジャーナリストであった。殺害された人々の中には、婚約中の人、卒業を待ちわびる人がいた。デモへの平和的な参加を理由に命を奪われた障がいをもつ人がいた。彼らは、尊厳をもって生きるための基本的人権を求めていたために殺害された。私たちの犠牲者は、みな人生、志、そして語られるべき物語を持つひとりの人間であった。

大きな犠牲を払ったこの運動の取り組みはむなしく終わるのではない。「帰還の大行進」は、単に帰還権やアメリカ代表団への抵抗にのみ関わるものではなく、次の世代が土地を維持し守るための良き教訓となり、また父や祖父の世代とおなじく非常に単純な装備であっても催涙ガスに対処できるという良き教訓を伝えている。手作りオニオンマスクを顔につけた少年が示したように [3]

「帰還の大行進」は過ぎ去った歴史的出来事や、過去の悲しい時間を追悼しているのではない。パレスチナ人の多くは今もなお、ナクバという現実を生きている。開いたままの傷の痛みは癒されていない。

境界線沿いにたたずむ少年たち(写真提供:PARC Gaza)

境界線沿いにたたずむ少年たち(写真提供:PARC Gaza)

大行進デモの始まった3月から現在、そしてこの先もずっと、占領によってあらゆる障害と障壁があっても、私たちは荒廃と絶望のなか、辛抱強く、希望を求めていく。恐れることはない。なぜなら、私たちは自分たちに権利があることを、土地があることを知っているから。パレスチナを感じ、両親や祖父母が植えたオリーブの木を記憶しているから。私たちは市民による非暴力の抵抗活動と政治的、法的努力によって、自由と権利、尊厳のために奮闘し続ける。この厳しい状況を乗り越えなければならないこと、いや乗り越えるのだと信じている。なぜならここは私たちの生きる場所であり、ここは私たちのパレスチナなのだから。

[1] 他にも西岸地区のベツレヘム、ナブルスで小規模なデモが行われ、国外においてもヨルダン、チュニジア、レバノン、またロンドンでもデモが行われた。

[2] パレスチナ保健省。30-6-Israeli-Aggression-Against-Peaceful-Return-March-Final-edits.pdf

[3] “Homemade Gas Masks in Gaza,” Reuters,

(パレスチナ事務所)

パレスチナ・ガザ地区:緊急食糧支援へのご寄付のお願い

2018年3月30日の「土地の日」に、イスラエルとの停戦ライン「緩衝地帯」沿いで始まった市民による大規模デモの影響はガザ地区の主要産業である農業にも及んでいます。パルシックは収入を失った農家世帯に対し、夏季の緊急食糧支援を実施します。ご寄付でのご協力をお願いいたします。

今すぐ寄付する

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AIDA声明:イスラエルのガザ地区におけるデモ参加者の不法な殺害について https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_gaza/13316/ Tue, 15 May 2018 03:05:26 +0000 https://www.parcic.org/?p=13316 AIDA声明:80以上の国際NGOは、イスラエルのガザ地区におけるデモ参加者の不法な殺害について、説明責任を求めます。

2018年5月15日、エルサレム

 パレスチナ自治区(oPt)で活動する80団体以上が加盟している国際NGOネットワークAIDAは、火曜日(5月15日)、イスラエルによるガザ地区国境におけるデモ参加者の不法な殺害を非難した。現在までに61人のパレスチナ人が殺害された。うち1人は医療従事者、8人が子どもであり、また犠牲者の大半はイスラエルの治安部隊が抗議デモ参加者に発砲した実弾によって亡くなっている。ガザ地区の保健省によると、2,700人以上が負傷している。死傷者は、イスラエルとの境界フェンス近くで行われている抗議行動の中で発生している。

 「イスラエルは抗議デモ参加者に対し、度を超えた殺傷性の高い実弾の使用を続けている。これは憂うべき行為で、明らかに著しい国際法違反だ」とクリスチャン・エイド中東・政策アドボカシー部長のウィリアム・ベル氏は述べる。

 月曜日(5月14日)のデモは、1948年に75人以上のパレスチナ人が故郷を追放されてから70年目を迎えるに当たって、2018年3月30日から組織されている一連の抗議行動の集大成である。ガザ地区の人口の70%以上は難民であり、封鎖の厳しい状況下で生活している。

 「ガザ地区は11年にも及ぶ封鎖の結果、人道的災害に直面している。封鎖は、ガザの経済を無力化し、人道支援への依存を増加させた。約84%の住民は人道支援に依存し、失業率は45%と驚異的な数字だ。ガザ地区は空、海、土地を囲われた、200万人の老若男女を閉じ込める天井のない牢獄だ。人びとは、この継続困難な生活状況が解決されることはないと希望を失っている」とオックスファム・パレスチナ/イスラエルのカントリー・ディレクター、クリス・エイクマン氏は述べた。

 3月30日以降、100名以上のパレスチナ人が殺害され、数百人の子どもたちを含む12,271人が負傷している。さらに、WHOによると、医療従事者と医療施設もまた攻撃に遭い、211人の医療スタッフが負傷し、25台の救急車が被災した。病院は崩壊の危機に瀕しており、10年にわたる封鎖と電力、医療品、設備不足のため、膨大な数の怪我人に対処しきれていない。外​​科手術を受けるためガザ地区外の医療機関へ搬送することはほぼ不可能であるため、3月30日以降のデモの負傷者21人は手足を切断せざるを得なかった。

 国際法によれば、殺傷性の高い火器の使用は、命の危機にさらされている差し迫った状況のみに限られる。イスラエル軍は、過剰な武力の行使を控え、パレスチナ人の生命、健康、集会の自由を尊重する義務がある。医療従事者を攻撃対象とすることは、国際人道法違反であり、[国際刑事裁判所]ローマ規程にある戦争犯罪にあたる。負傷者が治療をうけることを妨害することは、健康に対する権利の侵害であり、集団懲罰に等しい。

 AIDAは、第三国に対しても、イスラエルによる[市民の]不法な殺害を非難し、国際法に違反した非武装のデモ隊に対する実弾使用を直ちに中止し、不法なガザ地区の封鎖を解除させるよう強く働きかけることを求める。国連事務総長アントニオ・グテーレス氏の言葉を繰り返すことになるが、AIDAは第三国に、これらの事件について独立した信頼のおける調査を要請し、責任ある立場の者にしかるべき責任を問うよう強く求める。

AIDA声明文(AIDAのWebサイトへ)

写真引用: イスラエル紙ハアレツ

※3月30日の土地の日から5月15日のナクバの日(1948年イスラエル建国に伴うパレスチナ住民の強制退去と難民化を記憶する日)にかけて、ガザのイスラエル国境付近で毎週金曜日に数万人単位の大規模な抗議デモ「帰還の大行進」が行われている。
ナクバの日前日の5月14日、アメリカは在イスラエルアメリカ大使館のテルアビブからエルサレムへの移転を強行した。「エルサレムの最終的地位(帰属問題)」は、アメリカの仲介した1995年のオスロ和平合意Ⅱ(パレスチナ暫定自治拡大合意)において和平交渉の中で議論するとされた。エルサレムをイスラエルの「首都」であるとして計画された大使館移転は、2017年12月の国連総会において撤回を求める非難決議が圧倒的多数で可決されている。
5月14日の抗議デモだけで、ガザ地区の死者60名以上、負傷者は2700名以上に上る。

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パレスチナ近況報告:トランプ政権のアメリカ大使館エルサレム移転宣言による影響 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_gaza/12872/ Fri, 29 Dec 2017 04:15:03 +0000 https://www.parcic.org/?p=12872 ラマッラー:アルマナーラ広場で行われているデモの様子①

ラマッラー:アルマナーラ広場で行われているデモの様子①

2017年12月6日、トランプ米大統領は、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムへ移転させる計画とともに、イスラエルの首都をエルサレムと認める公式の宣言を発表しました[1]。現地パレスチナではすでに日をまたぎ、7日深夜の出来事でした。

7日朝、西岸全域で一斉ストライキが実施されました。いつもは通勤者で騒がしいラマラ市内も、ほとんどの商店、レストランがシャッターを閉め、人通りも寂しくなっていました。

その日、ナブルス県ジャマイン町で実施している事業に関連して、北部のカルキリヤ県の業者を訪ねていた私も、街中で顔をクーフィーヤ[2]で覆った子どもたちや青年たちが、手にスプレーを持って通りに繰り出す姿を見かけました。壁には「エルサレムを奪うなら対価を払え」という文字が書かれ、あちこちでタイヤを燃やす黒煙が上がっていました。

帰る道すがら、ラマッラーへ向かう主要道路も所々封鎖されていました。民家の間や山あいの下道を迷いながらも進む乗り合いバスで、私は何とかラマッラー市内へ戻ることができました。

トランプの宣言がなされて以来、連日、東エルサレム、西岸C地区[3]、入植地近辺、難民キャンプ、検問所、そしてガザ地区にて、イスラエル兵とパレスチナ人との衝突が続いています。死者はすでに8人。負傷者は3,400人を超え、未成年者を含む逮捕者も多数出ています(2017年12月18日時点)。

一方、こうしたホットスポットに比べ、ラマッラー市内は比較的落ち着いているように見えます。A地区[3]にあたるラマッラー市内では、イスラエル兵との直接的な接触は他エリアに比べると比較的少なく、クリスマスの電飾が煌々と輝く街中を歩いていると、エルサレムなどの状況が遠くの出来事のように感じられてしまいます。

それでも毎日何かしらのデモや集会は行われています。先週末にもボーイスカウトの子どもたちが旗や写真を掲げ、太鼓を鳴らしながら町中を行進していました。たまたま行き会ったデモの様子を見ていた私は、スマホで辺りを撮影していた男性に話を聞きました。

ちょうど仕事が終わって同僚と街に出てきたという彼は、モスクワで大学院を卒業し、英語、ロシア語、アラビア語を話す優秀な青年でした。しかし、それでもパレスチナでは満足な職に就くことができず、毎日9時間働いても、物価の高いラマッラーでは十分な生活ができないそうです。

そんな中、トランプによってなされたエルサレムを首都とする宣言。自分たちにはどうすることもできない問題だと彼は言います。

「だって、イスラエルの占領と闘う以前に、自分の生活と闘わなければならないから。」

占領下パレスチナにおける就職難、安月給、物価上昇は、ジワリジワリと若者たちの首を締めています。それに加え、正当な指導者を欠いたパレスチナ社会では、今イスラエルに抵抗する大きなモチベーションも、革命のパワーもないと彼は言います。占領下の社会で生きるとはどういうことなのかをもっとも理解しているのは、パレスチナ人自身なのだということを感じた瞬間でした。

ここ数日で数人のパレスチナ人と話をする機会がありました。皆状況を把握しきれずにいる、というよりも、この状況に対してどう反応すべきか分からない様子でした。地域ごとに分断されたパレスチナ社会では、住む場所によって状況が大きく異なります。けれども全ての地域に共通するのは、様々な形のフラストレーション、そして多くの市民がイスラエルとパレスチナとの圧倒的な力の差を自覚しているということ。

検問所の数キロ先から車が動かず、ドライバーたちのいら立ちが募るなか、クラクションを鳴らしながらイスラエル軍のジープが割込みをしてくる。こうした光景は、例えトランプ宣言がなかったとしても日々パレスチナの日常に埋め込まれています。

今後状況がどう変化していくか。

トランプのエルサレム首都宣言後、世界各地でデモが起っています。そうした各地の抗議は、聖地エルサレムの問題だけではなく、パレスチナ人への人権抑圧反対を求める大きな連帯運動へと発展していくでしょうか。

[1] 「オスロ合意」においてエルサレムの最終的地位は和平交渉で協議される事項となっている。トランプ政権の「今回の宣言は和平交渉に資する」という主張は明らかに和平交渉の趣旨と相いれないことがわかる。12月21日、国連総会ではアメリカのエルサレム首都認定撤回決議案が賛成多数で可決されている。

[2] パレスチナの伝統的なスカーフ。もともとは男性の頭を覆うものだったが、女性も首に巻いている姿をよく見かける。

[3] ガザ地区と西岸地区エリコにおける先行自治の拡大を取り決めた1995年のオスロ合意IIにおいて、西岸地区は3地区(パレスチナ自治政府が行政、治安維持を管轄するA地区、パレスチナ自治政府が行政をイスラエル軍が治安維持を管轄するB地区、イスラエル軍が行政、治安維持を管轄するC地区)に分類された。

7日ラマラ市内:アルマナーラ広場のスクリーンに映し出された岩のドーム

7日ラマラ市内:アルマナーラ広場のスクリーンに「Jerusalem is for us(エルサレムは我々のものだ)」の言葉とともに映し出された岩のドーム。 岩のドーム(Dome of the Rock)はエルサレム旧市街「神殿の丘」にあるイスラーム教の聖地。ドーム内部には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の一神教にとって重要な「聖なる岩」が祀られている。神殿の丘の西側の壁は、ユダヤ教の聖地、嘆きの壁である。

7日カルキリヤ:近くでタイヤを燃やす黒煙が上がっている

7日カルキリヤ:近くでタイヤを燃やす黒煙が上がっている

ラマッラー:アルマナーラ広場で行われているデモの様子②

ラマッラー:アルマナーラ広場で行われているデモの様子②

(パレスチナ事務所 関口)

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パレスチナ ガザからのレポート https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_learn/12778/ Thu, 21 Dec 2017 09:28:55 +0000 https://www.parcic.org/?p=12778 パレスチナ ガザ地区で暮らすスタッフ、サハールからのレポート

パレスチナは今、まるでいつ爆発してもおかしくない蒸気機関と化しています。圧迫が強いと爆発は激しくなるのです。12月6日のドナルド・トランプ米大統領による「エルサレムをイスラエルの首都とする」宣言の結果です。

2017年10月、ファタハとハマス(*注)の和解によって、ガザに住む私たちは大きな希望を抱き、“普通に暮らす”という最もシンプルな権利を取り戻すことを夢見て、さまざまな計画を抱き始めました。

「検問所が開いてガザの外と自由に行き来したい」
「毎日いつでも電気が使えるようになる」
「水不足が解消する」
「攻撃の心配をせず、安全安心な暮らしをしたい」

トランプ大統領による「エルサレムをイスラエルの首都とする」という愚かな宣言は、そんな希望を打ち砕きました。私たちは自由な祖国という希望を失い、再びガザという大きな監獄に閉じ込められています。

けれども、私たちパレスチナ人はこの最悪な状況で60年以上も暮らしています。暗いトンネルの先にある希望という光を見つめて、何とか生き延びてきたのです。ですからこれからも生きていきます。この写真のような子どもたちがいるから、私たちは生きていかれるのです。

日本の皆さまが私たちの状況に関心を寄せてくださることに感謝し、この状況がエスカレートしないことを願っています。

*注
ファタハ:ヨルダン川西岸を統治するパレスチナの政党。
ハマス:ガザ地区を統治するパレスチナの政党。

(ガザスタッフ サハール)

関連リンク

 

 

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ガザ農家さんの課題に取り組む [1]ガザの水問題 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_gaza/12506/ Wed, 08 Nov 2017 07:38:39 +0000 https://www.parcic.org/?p=12506 2016年の1年間を通して、ジャパン・プラットフォームの助成を受け、2014年のガザ戦争で全壊した小規模農家さんの農業用温室再建に取り組んできました。ガザ地区では、イスラエルの地上侵攻や空爆によって369戸の温室が全壊し、2,862戸が部分損壊となっていました。その後部分損壊の温室については修復が進められてきたのに対し、全壊した温室の再建はイスラエルのガザ地区封鎖政策によって、支柱用の鉄材や雨どい木材などの必要な資材が入ってこないために2016年まで全く行われていませんでした[1]

しかし、協力団体である現地の農業NGO、PARCとの調査に基づき、ガザで入手可能な合板や代替資材を使うことで、全壊した温室の修復に取り組み、31世帯の温室を再建しました。併せて、より良い農業慣行の実践と持続可能な農業の実現を目指し、地域の農家さん61世帯(温室を再建した31世帯を含む)を対象に、総合病害虫管理(PM)や灌漑マネジメント、環境配慮型の農法の技術指導も実施しました。温室を失ったことで農業を再開できなかった農家さんたちも、野菜の生産を再開しています。

全壊した農業用温室

全壊した農業用温室

再建した温室で農業を再開した農家さん

再建した温室で農業を再開した農家さん

2017年6月、引き続きジャパン・プラットフォームの助成を受けて、ガザ地区の農家さんを対象とした新しい事業をスタートしました。ガザ地区の農家さんは様々な制約や課題に直面していますが、なかでも大きな課題の1つが農業用水の確保です。国連パレスチナ難民救済機関は2020年までにガザ地区は人が住むのに適さない状況になると述べ、背景のひとつとして水の問題を挙げていますが、水の問題は、人びとの生活だけに限らず、ガザ農業にも暗い影を落としています。

ガザの農業において主な水源となっているのは、地下にある帯水層(淡水)ですが、近年、

① 生活排水による汚染
② くみ上げすぎによる枯渇
③ くみ上げすぎで海水が混入したことによる塩分濃度上昇

などが大問題となっています。

灌漑用水の塩分が白く固まっている様子

灌漑用水の塩分が白く固まっている様子

今回事業対象としているガザ南部、ハン・ユニス地区東部では、地下水の塩分濃度上昇が著しく、雨季に貯めた雨水と混ぜて利用しても塩害に強い作物しか育てることができません。同じくラファ地区東部ではすでに地下帯水層が枯渇しかけていて利用できず、ラファ地区西部[2]からパイプで輸送してもらった地下水を購入しなければなりません。雨季(10月半ば~4月半ば)は雨を利用できますが、貯めた雨水もほとんど冬季の農耕で使い切ってしまいます。近年では気候変動により雨季がずれ込み短くなって、雨がほとんど全く降らない夏季(乾季)の水不足が深刻化しており、灌漑設備のない農家さんの中には、やむなく夏季は休耕せざるを得ない状況の人もいます。さらに時には1日2~3時間ともなるガザの電力事情により、井戸水のくみ上げや送水に利用するポンプの稼働時間が極めて制限され、夜間や早朝など電気が来る時間帯に合わせて農作業を行わざるを得ません。国境緩衝地帯に近い場所では、夜に農地で給水しているとイスラエル兵に狙撃されることもあり、危険と隣り合わせだといいます。

限られた農業用水をできるだけ効率的かつ効果的に消費することは、2007年から続く封鎖の中で農業を営むガザの農家さんの慢性的な課題であるとともに死活問題です。そこで、今回「貴重な淡水源である雨水をできるだけ効率的に集め、効果的に農業に利用する」ことを目的に、複数の農家さんの農業用温室を利用した集団的な集水・貯水のシステムを導入することを決めました。

さて、集団的かつ効率的な集水・貯水のシステムとはいったい・・・?

ヒントは地域の密集した農業用温室?

ヒントは地域の密集した農業用温室?

 

[1]イスラエルは「軍事目的に転用可能」としたものについて、ガザへの流通を厳しく制限している。その中には住宅やインフラ再建に必要なセメントや、家具用の木材なども含まれるため、ガザ地区の復興が進まない要因となっている。

[2]ラファ地区西部にラーイダという井戸がたくさん集まる地域がある。ハン・ユニスやラファ地区の東部へ水を送水しているが、ここでも水の塩分濃度は高い。

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成および皆さまからのご支援によって実施しています。

(パレスチナ事務所 盛田)

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家庭から始める子どものケア③:お父さん向けワークショップの開催 https://www.parcic.org/report/palestine/palestine_gaza/11750/ Tue, 23 May 2017 02:27:44 +0000 https://www.parcic.org/?p=11750 他方、保護者向けのワークショップを運営する中で、課題も出てきました。前回の記事で掲載された写真から何か気づいたでしょうか?そう、お父さんたちの保護者向けワークショップへの参加がとても少なかったのです。

背景には、仕事による時間の制約のほか、女性が多く集まるワークショップには来にくい、子どもの世話は女性の役割で男性はまずは家族を養う責任を果たすべきという家父長的な考え方、家族の看病や家の再建などほかの優先すべきことが他にもある、ワークショップを行うセンターまでの交通費が高い、といった様々な事情があります。しかしながら、子どもの世話やトラウマのケアは家族全体の協力が不可欠であり、またドメスティックバイオレンスやセクシャルハラスメントなどの社会問題に取り組むためにも、世のお父さんたちの意識向上は重要です。そこで、保護者向けワークショップに加えて、お父さんを主に対象とするワークショップも実施することにしました。最初はなかなか集まらなかったお父さんたちですが、地域の会合などの後に呼びかけたり、お母さんを通してあるいは直接電話をかけて呼びかけたり、地域の名士を通してアナウンスしてもらったりしたことで、徐々に参加人数が増えました。

ワークショップに集まったお父さんたち。講義に聞き入る顔は真剣そのものであるため、威圧感が3割増…

ワークショップに集まったお父さんたち。講義に聞き入る顔は真剣そのものであるため、威圧感が3割増…

お父さん向けのワークショップで特に取り上げたのは「前向きな子育て(Positive Parenting)」というテーマです。ガザでは、子どもたちを叱る際に親、特にお父さんによって、叩いたり、怒鳴ったりするというしつけの方法が広く実践されています。ドメスティックバイオレンスに対する認識がそこまで広まっていないことだけではなく、制約のある社会でストレスや生活苦が重くのしかかり、保護者達もまた時間を取って子どもたちに向き合う余裕がないということも一因となっています。ワークショップでは①両親、特にお父さんに暴力が子どもの問題を解決するための役には立たないとの認識をもってもらうとともに、②暴力に頼らない子どものしつけや接し方を提案し、ドメスティックバイオレンス防止を呼びかけました。

この日集まったのは16人のお父さん。ファシリテーターを務める心理療法士のタサヘールが笑顔で歓迎のあいさつを述べ、その日のテーマをなぜ選んだのかを説明します。

ずらりと並んだお父さんたち

ずらりと並んだお父さんたち

「子どもへの暴力とは何だと思いますか?」とタサヘールが訪ねると、お父さんの一人が、「子どもたちへの悪い行いで、刑務所にいれられることもある」と答えます。タサヘールが「子どもを傷つける目的と意図で子どもに対して行われる不快な行い」と定義し直し、「それぞれの経験を振り返ってみてください。幼いころ、そうした不快な行いにさらされたことがありますか?」と個人的な経験を尋ねました。すると、お父さんたちが、「父に叩かれていました。私の父は厳しい人でした。一度は耳を叩かれ、それ以来難聴となってしまいました。でも私は自分の子どもを叩くことはありません。私のように苦しんでほしくないからです」「イスラエル兵に頭を強く殴られました。いまだにあの時のことを夢で見ます。眠るのに薬が必要なほどです」と暴力にまつわる経験を話してくれました。

さらにタサヘールが、暴力の種類について解説していきます。身体的なものだけでなく、精神的なもの、育児放棄、言葉の暴力、性暴力についても言及しました。例えば、罵り言葉や酷い呼び方で子どもを呼ぶといった言葉の暴力は心を深く傷つけるため、子どもが頑なったり、粗暴な態度をとるようになったり、さらには学校からドロップアウトする原因になることもあります。「特に5歳になるまでの間は子どもたちにとって、とても重要な期間です。怒鳴ったり、ひどい呼び方をしたりしてはいけません」とタサヘール。

他にも、セクシャルハラスメントのような性暴力は家族から受けることもあるため、お母さんだけでなくお父さんもそうした問題について意識し、子どもたちに話していくことが重要であると強調しました。

男性ばかりのワークショップでもひるまず講義するタサヘール

男性ばかりのワークショップでもひるまず講義するタサヘール

次に議論は「暴力が子どもに与えるインパクト」に移ります。「暴力は子どもたちに、憎しみや孤立、孤独感、攻撃的な態度、うまくコミュニケーションができない、うつ、気弱な性格になるなどの問題をもたらします。大切なのは、暴力以外の方法をとることなのです。そうした方法の一つとして、例えばポジティブあるいはネガティブな動機付け[1]が挙げられます」

最後にまとめとして次のような子育てのポイントをお父さんたちに提示しました。

  • 忍耐強く子どもに接し、よく理解してあげること
  • 子どもたちの年齢についてもよく考慮すること(例えば思春期)
  • 両親がお互いに子育てをどう行うかについて合意し、互いの子育てを妨害しないこと

 

【参加者の声】

〇アブドゥルラフマン・アルサッターリさん

アブドゥルラフマンさんは、12歳になるムハンナドくんのお父さんです。

「父親向けのワークショップのことは妻から聞きました。妻も保護者向けワークショップにとても楽しそうに通っていますよ。妻はあまり外出もしないため家にこもりがちだったのですが、通い始めてからより社交的になりました」。

ワークショップについての感想を聞いてみると「出席してよかったです」との答えが返ってきました。「子どもたちへの適切な接し方に気が付きました。私もついつい子どもに怒鳴ってしまっていたのですが、言葉の暴力を使ってもうまくいかないのだと気づかされました。すぐに怒らずに忍耐強く子どもに接し、なぜ叱られているのかを分からせることが大事なのだと学びました」。

娘が多いアブドゥルラフマンさんは、一人息子であるムハンナドくんに過保護に接しがちだったと振り返ります。「ムハンナドは良い子ですが、近所の子どもたちには素行が悪い子もいるため、余り出歩かせないようにしていました。でもこれからはもっとあの子が自由にできるようにしようと思います。そしてその分、息子とよく話すようにしていきます」。

※この事業は、ジャパン・プラットフォームの助成を受け、現地パートナー団体DBRSと協力のもと実施しています。

(ガザ事務所 タグリード)

[1] 例えば、ごほうびを与える(ポジティブな動機付け)、おもちゃやゲーム、テレビを禁じる(ネガティブな動機付け)など。

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