ガザ空爆被災者への食料物資支援と農家の生産再開支援 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Wed, 07 Sep 2022 09:25:08 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 パレスチナ事業終了報告:2021年5月空爆被災者支援 https://www.parcic.org/report/palestine/airstrike_in_gaza/21159/ Wed, 07 Sep 2022 09:18:10 +0000 https://www.parcic.org/?p=21159 2022年8月5日、パレスチナ・ガザ地区でイスラエルとの軍事衝突が起こり、3日間続いたイスラエル軍の空爆により、幼い子ども15名を含む44名が亡くなり、360名以上が重軽傷を負いました。2021年5月の11日戦争から1年あまり、ガザは再び戦火となったのです。遅々として進まない復興でも、少しずつ家屋の再建や破壊されたインフラなどの修復作業が行われてきた中でした。

パルシックは昨年2021年戦争の後、7月から緊急支援を開始し、空爆被害の大きかった北ガザ県とガザ県で小規模農家を対象に、食料配付と農業復興支援を行いました。この時期支援の多くが同地域に集中しましたが、その他の地域が戦争の被害を免れたわけではありません。2022年2月から8月まで、復旧の進んでいなかった中部ガザ県の4村を対象に、パルシックは第2期目となる農業復興支援を実施しました。事業では、被災した小規模農家102世帯を対象に、灌漑パイプや肥料を配付しました。圃場の整備や配付したパイプの設置には、空爆により職を失った日雇い労働者50名を雇用し、作業をしてもらいました。さらに、空爆の被害を受けた地域住民が共同で利用している水路3㎞の修復も行い、農業再開に欠かせない農業用水の確保に寄与しました。また、昨年7月の支援と同じく、空爆と検問所封鎖の影響を一身に受けた養鶏部門の生産再開を後押しするため、地域の養鶏農家50世帯を対象にひなや飼料の配付を行いました。

事業の終盤にかかり、今回の軍事衝突が勃発し、一時作業を中断しましたが、停戦後無事にすべての活動を終えることができました。
再建と破壊を繰り返すガザ地区で、何かを続けることは決して簡単ではありません。それでも今回支援を受けた農家のなかには、大家族を支えながら自らのビジネスを続ける女性農家の姿がありました。

 

デイル・バルート県アル・へケール村に住む女性養鶏農家
アジーザ・アブ・アムラ(Aziza Abu Amrah)さん(51歳)

アジーザさんは、聴覚障がいがある夫と、6男5女の家族の大黒柱です。2014年の戦争復興活動の中、2016年にパルシックが実施した農業事業において、鶏のひなや家畜資材を受け取って以来、自立して養鶏ビジネスを続けてきた女性農家です。

私は18歳の時に結婚しました。小学6年生までは教育を受けましたが、読み書きの能力は子どもたちから教わりました。大学に進学した子もいて、一人はアラビア語の学士号を取得、もう一人はコンピュータサイエンスを勉強するために1年間工学を選考しましたが、経済的な理由で勉強を延期せざるを得ませんでした。

2016年、私はパルシックの事業に参加するチャンスを得て、養鶏を始めました。私は困難な状況に置かれても、お金を求めてCBO(Community Based Organization)にすがりつくことはしません。私にもプライドがありました。2016年のある朝、息子が「地元NGO(RAWDS)が日本の団体パルシックの資金提供を受けて、事業裨益者の募集を開始したって。配付物のひなやウサギ、育てたいものを選べるらしいよ」と教えてくれました。私はいつも自分のビジネスを持ちたいと思っていました。それを達成するチャンスと思い、応募の取りまとめをしていたCBOに行き応募しました。最初の一歩を踏み出したのです! 150羽のひな、飼料、おがくず、ガスボンベとヒーター、水槽、飼料貯蔵タンク、餌と飲料用のトレイ、農場を覆うためのナイロンシート、さらに獣医サービスと薬も受け取りました。養鶏ビジネスを継続していくために必要なものばかりでした。

2016年以来、私は食肉用の鶏の飼育を続けました。私は鶏肉を近所の鶏肉店に販売し、十分な利益を得ることができました。150羽から始めたひなは600羽まで増え、ビジネスが軌道に乗りました。娘に、最初の利益から分割払いでノートパソコンを買い、ビジネスを継続するために200羽のひなも購入しました。ひなたちが走り回る姿や、食べる量など鶏の様子を細かく観察することで、薬をできるだけ買わないように気を付けています。自分で配合したハーブを鶏の免疫力アップに使っています。ハーブを煮出して鶏に飲ませるんです。普段、利益の一部は次のシーズンのひなを買うためにとっておいて、残りで食料品や野菜、掃除や衛生用品を買っています。

しかし、2021年、イスラエルの侵攻は私の生活に大きな影響を与えました。販売前でよく肥えた鶏60羽を失いました。ミサイルの音で、鶏が恐怖で空中を飛び回り壁や地面に激突したり、心臓がショックで止まったりして死んでいく姿を見るのは本当に辛かったです。薬を買いたくても、動物病院は閉まっていることがほとんどで、開いている日も営業時間が短く、午後に徒歩で行くしかありませんでした。今回の緊急支援事業で、200羽の鶏のひなと飼料を受け取りました。今日でひなは31日目です(※インタビューは2022年7月24日に行われました)。イード・アル・アドハー(犠牲祭)の期間は(7月9日~12日)、羊や牛肉の需要が増える一方で、鶏肉は需要が減ります。そのため鶏肉の市場価格は落ち込んでいますが、あと10日後には販売する予定です。

養鶏ビジネスを始めて、私の性格も変わりました。以前は、地域の人びとも私のことを知らず、ビジネスを運営する知識もありませんでしたが、今では息子たちが私のビジネスのパートナーになりたいと言うほど、うまく運営できるようになりました。もちろん女性ならではの困難もあり、女性だからという理由で、孵化場からひなを買うときに業者が値段をつり上げてくるときもあります。そういう時は、男性の仲介業者に電話して協力してもらい、代わりに安い値段でひなを買ってもらいます。私は、女性たちがもっと色々な分野に参加して、決してあきらめず、成功するまで挑戦し続けるべきだと信じています。

鶏小屋の近くでパルシック・ガザスタッフ(左から2名)のインタビューを受けるアジーザさん(右)

笑顔で鶏の説明をするアジーザさん

鶏の水飲み場につながる水道チェックはアジーザさんの毎日の日課です

生後31日目の鶏たち。出荷まであと10日。

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ガザ緊急支援のご報告 https://www.parcic.org/report/palestine/airstrike_in_gaza/19875/ Thu, 11 Nov 2021 06:03:16 +0000 https://www.parcic.org/?p=19875 今年5月に発生したガザとイスラエルとの11日間に及ぶ武力紛争は、長引く軍事封鎖で疲弊したガザの人びとの生活をさらに悪化させました。パルシックは緊急集会を開いて寄付を募り、初日から激しい空爆の続いたガザ北部の農家世帯を対象に緊急支援を開始しました。

10月14日には、空爆によって、農作物を売ることができなくなった農家から買い取った野菜や鶏肉を入れた食料バスケットと衛生用品を配付しました。人口の8割が援助に依存するガザでは、食料を完全に援助に頼っている人びとも少なくありません。カロリーベースで組み合わされ、栄養が偏りがちな配給食料は、ガザで成人病の要因の一つになっており、中には滅多に生鮮食品を食べることができない人もいます。

支援物資配付の列に並ぶ人たち

配付の日、列に並んでいたエティマドさんに話を聞きました。

エティマドさんは子ども10人の母親で、一番下の子は小学1年生の女の子です。病院でもらったと思われる薬の入ったビニール袋を持ち、疲れた様子で配付の列に並んでいました。「大丈夫ですか?」と尋ねると、「疲れているけれど、夫が半身不随で動けないので、自分が物資を受け取りにきた」と話してくれました。

エティマド・アル・マスリさん(ベイト・ラヒヤ村)

5月の空爆によって、家の壁は壊されました。頭上からすさまじい砲撃を受けたため、屋根にもたくさんの穴が開いていて、冬になると雨漏りがするのではないかと心配しています(*地中海性気候のパレスチナでは、冬は雨季、夏は乾季となる)。

自宅から離れたところに農地を持っており、アンズの木がたくさん植わっています。息子の1人が世話をしていましたが、空爆中は怖くて外に出ることができず、水やりや木の世話をすることができませんでした。木は枯れ、アンズのシーズンも逃してしまいました。

枯れてしまった木を抜いて新しい木を植えるのに、たくさんのお金が必要です。大きく育っていたアンズの木を思い出すと悲しくなります。また最初からやり直しなんて…。損害補償を申告するため、関係省庁に行きましたが、申告に必要な土地所有証明書の発行にもお金がかかると言われ、お金を用意できない間に申告の締め切りが来てしまいました。

エティマドさん(左)

夫は4年前に脳梗塞で倒れて半身不随になり、自分で身の回りのことができなくなくなりました。他に収入源がないため、社会福祉省の生活保護に頼っています。昨年のラマダン以降、それまで4カ月ごとに配給されていた小麦粉や食料油、砂糖、レンズ豆などの食料品が、食料クーポンに変更されました。

週に60シェケル(約2,186円)分のクーポンをもらっていて、毎週25キロの小麦粉と油を購入しています。ただ、小麦粉の値段も43シェケルから48シェケルに上がるなど、物価が上昇していて、基本的な食料を買うにはクーポンだけでは不十分です。

今回のパルシックの支援で、5月の武力衝突以来、初めて食料品を受け取りました。食料と衛生用品の小包を取りに来るようにと連絡を受けたとき、とても嬉しく、娘たちに、これで何か料理を作るよと伝えました。この食料バスケットは、私たちの生活に変化をもたらしてくれます。私にはたくさんの孫がいますが、孫が訪ねて来たときも、何か作って食べさせてあげられます。

緊急支援物資

食料品を配付してから1週間後、タグリードはエティマドさんにフォローアップの電話をしました。エティマドさんは、受け取ったものすべてが気に入ったと言い、とても喜んでいました。「衛生キットと食料バスケットを受け取れて、助かりました。すべてのアイテムが役に立ちました。トイレットペーパーでさえ!本当にありがとうございました。」

荷物の運搬にはロバが大活躍!

(ガザ事務所 タグリード)

*この事業はジャパン・プラットフォームの助成と皆さまのご寄付で実施しています。

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待ちわびた停戦 https://www.parcic.org/report/palestine/airstrike_in_gaza/19264/ Fri, 11 Jun 2021 06:29:25 +0000 https://www.parcic.org/?p=19264 停戦を待ちわびていた5月21日の午前 2 時、通りから聞こえる喜びの声で、これが現実なのだと実感しました。恐怖の11日間が終わったことを知り、ようやくベッドに入り、休息と心の平安を得ることができました。それでも、2014 年の悪夢 ―停戦が発表されたその日に合意が破られ、多くのパレスチナ人が亡くなったこと― が頭をよぎり、完全には安心できませんでした。

翌朝目覚めると、通りから車の音が聞こえてきて、より現実味が増しました。窓から見ると、車にはカラフルな新しい服を着た子供たちが乗っていました。ようやくラマダン明けのお祝いする時がきたようです。私も夕方、子供たちと急いで、両親の家に行きました。困難な日々を超えて、家族そろってお祝いをしました。

ささやかなラマダン明けのお祝い(イード)

イードの食べ物

しかし、避難を余儀なくさせられた人びとには、異なる現実がありました。彼らは、生活の厳しい避難所から戻り、家や店の被害状況を確認していました。枕や洋服の一部、本など、とにかく家の中に残っているものを探している様子に、誰もが心を痛めました。家も財産もすべて失うというのは、簡単なことではありません。

イスラエルとの戦闘で、何万もの人びとが家や財産を残して避難しました。107,000 人以上のパレスチナ人が国内避難民となり、そのうち 35,000 人は親戚のもとへ、71,000 人はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)が支援する学校に避難しました。しかし、学校での避難生活は過酷で、精神的トラウマや新型コロナウィルス感染拡大などの懸念もありました。教室の中には、毛布やマットレスはありません。飲料水や食べ物もなく、電力供給が短い時間しかないのはもとより、清潔なトイレもありませんでした。

空爆で被害を受けた街の様子

私たちが支援する女性の 1 人、 ラファ県アルショカ村のリーム・アブ・スルタンさん (41 歳) は、近所の家がミサイルの標的にされました。窓が割れ、火薬や煙で充満した家を逃れ、ラファ市内にある義理の兄弟の家に行きました。しかし、その家はとても狭く、逃げ込んだ家族すべてを受け入れる余裕はありませんでした。2 日後、リームさんは学校に移動することにしました。7 世帯以上の家族と同じ教室に宿泊し、停戦当日の朝までそこに留まりました。早朝、家に帰ると、家の中はコンクリートの破片や火薬の粉でいっぱいで、まずは家の片付けをしなければなりませんでした。自治体から供給される水も不足していて、毎日の生活用水にも、購入した飲料水を使いました。

リームさんは、子供たちがまだ怖がるので、みんなで同じ部屋に寝ていると付け加えました。「ちょっとした音でも目を覚ましてしまい、泣いたり、『戦争が戻ってきた…戦争が戻ってきた』と、怯えて叫んだりします。」 彼女はまた、大学入学前の最終試験が近い息子のことを心配しているとも話していました。
「戦闘中は、息子をガザ中部にいる祖父母のところに送りました。息子をこんなひどい状況に置いておくことはできません。将来がかかっているのですから、勉強しなければなりません。勤勉な息子は、暴力と恐怖に満ちたこの恐ろしい人生より、もっと価値のある人生を送るべきです。」

空爆で崩れた建物を背に歩くガザの人びと

私たちパレスチナ人は、数年おきに起きるこうした状況に慣れています。それでも、その度に誰もが苦しみます。そして、自分たち自身に問いかけるのです。「また戦争前の生活に戻ることができるだろうか?」と。そうやって何度も、元の生活を取り戻すために働いてきました。自分たち自身のために、そして大切な人たちのために。私たちは、繰り返される暴力に慣れるよりも、もっと良い生活をしたいと思っています。そのためには、いつでも破られる可能性のある停戦だけではなく、政治的解決が不可欠なのです。

(ガザ事務所 タグリード)

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ガザ停戦―現地からの報告 https://www.parcic.org/report/palestine/airstrike_in_gaza/19165/ Tue, 25 May 2021 06:23:44 +0000 https://www.parcic.org/?p=19165 5月10日の夜から続いていた、イスラエルとガザを実効支配するハマスとの交戦は、12日目の21日、エジプトの仲介により停戦に入りました。

ガザへの空爆が続いている間、パルシックの現地スタッフや、支援している女性たちの身を案じてくださった皆さまに、心より感謝いたします。

この停戦を受け、現地の状況が少しずつ分かってきたため、報告させていただきます。

パルシックのガザスタッフやその家族は、皆、無事です。初日から激しい空爆対象となったガザ市内にあるガザ事務所にも、被害はありませんでした。

また、パルシックが支援してきた女性酪農グループのメンバーも、全員無事であることが確認できました。空爆下で身の危険があり、羊小屋に訪問できない中、羊1頭が死に、また流産で子羊2頭を失ってしまったという悲しい知らせはありましたが、グループ間で羊を分散させ家の中で世話をするなど、女性たちは必死に羊を守り抜いてくれました。羊小屋や水耕栽培施設にも大きな被害は出ていません。空爆の間も、熱心な獣医さんが、電話や携帯アプリを使って女性たちと連絡を取り、相談に乗ってくれていたそうです。

ガザの町は、道路や住宅、電気や水道といったインフラの破壊が激しく、復興には時間がかかりそうです。医薬品や食料、燃料なども大きく不足していることが明らかになっています。人々の心の傷も深刻です。特に空爆の被害が激しかった北部の町ベイト・ハヌーンでは、40分間に約500回の爆撃があったといいます。親族がそこに住んでいるガザスタッフによると、彼の兄弟は、その空爆のすさまじさに大きなショックを受け、それ以降、一言も口を利かなくなってしまったとのことでした。

こんな状況の中、「家族を失った人、家を破壊された人、彼らは一生そのことを忘れないけれど、それでも人生は続き、向き合っていかなければいけない。これが私たちの運命なのだから。」と、多くのガザの人たちは前を向いています。

破壊されてしまったガザの町を見ると、心がくじけそうになりますが、目をそらしていても現実が変わるわけではありません。現実に向き合って、私たちにできることを少しずつでもやっていきたいと思います。それが、ガザのよりよい未来につながると信じて。

空爆で破壊された道路

空爆で破壊された建物

ご支援をよろしくお願いいたします
【ご寄付のお願い】パレスチナ緊急支援

(パレスチナ事務所)

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ラマダン祝日目下、空爆の続くガザ https://www.parcic.org/report/palestine/airstrike_in_gaza/19130/ Thu, 13 May 2021 10:34:35 +0000 https://www.parcic.org/?p=19130

ガザ現地スタッフから届いた写真

5月10日の夜からガザの空爆が続いています。

「空が赤く染まり、爆撃音がそこら中で聞こえている。建物が破壊されるのを3度窓から見た。また2014年戦争のあの恐怖が戻って来るのかと思うと恐ろしくて落ち着かない。」

パルシック、ガザ事務所スタッフの一人が緊張するガザの状況をメッセージで伝えてくれました。5月11日、ガザ地区中心部ガザ市、パルシックのガザ事務所の目先にある12階建ての住宅ビルが爆破され、約30名が死亡しました。

現地は、イスラームの祝日で断食月ラマダンの終了を祝うイード・アルフィトルというお休みに入ろうとしています。この時期、イスラーム教徒は一か月間の断食を終え、家族で集まりご馳走を囲んだり、旅行に出かけたりします。2020年の新型コロナ感染流行により、占領下パレスチナも多大な経済打撃を受けました。コロナ禍で職を失い生きあえぐ中、人びとはみなイード休みがやってくるのを待ちわびていました。

4月中旬以降、聖都エルサレムでは緊張が増し、パレスチナ人と、イスラエル当局及び入植者の間の衝突が相次いでいました。現在エルサレムはイスラエルの実効支配下にあり(※)、ヨルダン川西岸地区から切り離されているだけでなく、強制立ち退きや違法入植地の建設によりコミュニティ内部の分断が続いています。

※1967 年の第三次中東戦争において、イスラエルはゴラン高原を含むヨルダン川西岸、ガザ地区、シナイ半島などのパレスチナ占領地を獲得し、その住民を実効支配下に置いている。東エルサレムはイスラエルにより一方的に併合を宣言された。

東エルサレムのシェイク・ジャッラー地区では、住民への強制退去問題を背景に、この間も不法逮捕が起こり、またイスラエル軍に護衛された入植者による礼拝者への襲撃、北部地域から巡礼のためにエルサレムに移動中のパレスチナ人のバスの高速道路での足止めなど、ラマダン最中の挑発行為などもあり、エルサレムの路上のあちこちでパレスチナ人とイスラエル当局との衝突が起こっていました。

10日、イスラーム教のモスク「岩のドーム」が建つエルサレム旧市街のハラム・アッシャリーフにおける大規模な衝突で350名以上が負傷しました。これを受け、ガザ地区を実行支配するハマースは、「エルサレムへの攻撃の報復」として、軍事封鎖されたガザ地区からイスラエル領内に向けロケット弾を放ち、その後イスラエルによるガザへの空爆が始まりました。

空爆は、それ以外にも車や地元の交通手段となっている3輪タクシーのトゥクトゥクなどを狙い、民間人が殺されています。パルシックのスタッフの自宅から1㎞圏内でも爆発があり、また別のスタッフの自宅の屋根には砲弾が落下、幸運にも不発弾であったため、建物から避難することができ、爆発物処理の専門業者による撤去が行われ、危機一髪を免れることになりました。

ガザの人々は空爆に慣れているとはいえ、夜通し鳴りやまないロケットの通過音や、爆撃音に手は震えます。みな、緊迫した時間を過ごしています。

11日の高層ビルの爆破を受け、ガザ側からは130発以上のロケット弾がイスラエル国内のテルアビブ周辺に向けて発射されました。ガザとの境界に近い、イスラエル南部のアシュケロンでは2名の民間人が死亡しました。テルアビブでは激しい弾幕により、空襲警報が鳴り響き、女性1人が死亡、イスラエルのテルアビブ国際空港が閉鎖されました。テルアビブ近辺のパレスチナ人地区リッド(ヘブライ語でロッド)でも入植者とパレスチナ人の間で銃撃戦が続き、死者・負傷者が出ています。リッドもまた、家屋破壊や、強制移動の対象となっている地域です。

現地の5月は、「イスラエル建国日」とパレスチナの「ナクバ」の日前後に、毎年緊張が高まる月です。西岸地区やエルサレムで起きた事件は、ガザ地区ハマースへの挑発となり、ハマースのロケット弾が放たれれば、毎回のごとく「集団懲罰」としてガザに爆撃が落とされます。

2006年、パレスチナ議会選挙でハマースが勝利した翌年、ガザの軍事封鎖が開始され、福岡市ほどの小さなエリアに住む200万人のパレスチナ人の生活は悲惨なものとなりました。封鎖14年目となった今、人々は希望を失っています。変化を求め、起こした行動もほとんどは一時的な注目を浴びても、すぐに忘れ去られてしまいます。

SNS上では、混沌とする状況の中、「殉教者へ黒旗を掲げよう」とただ死者を悼むだけのパレスチナ自治政府の発言を、まるで外国の政府かのようであると皮肉る投稿なども挙げられています。

いま、イード休みを迎える現地は、混沌とした悲しいニュース一色で埋まっています。ガザ・スタッフの4歳の姪は、イードの休みを前に買ってもらった新しい服を前に、「お父さん、服を返してきて、どうせ使えないのだから」と話します。また別のスタッフからは、「今年はガザにイード休みはない、血で迎えられた」と悲しいメッセージが届きました。

こうしてガザのスタッフたちが危険な状況に晒されていても、何もできず、もどかしさで心がざわつきます。この緊迫した状況が一分でも早く落ち着いてほしいと願っています。

Reem OmariさんのFacebookより。

(パレスチナ事務所)

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