自然・文化 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Fri, 21 Apr 2017 06:32:25 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 新たな一歩、第一回きたかみ春まつり https://www.parcic.org/report/ishinomaki/tohoku_nature_culture/5930/ Thu, 15 May 2014 02:07:32 +0000 https://www.parcic.org/?p=5930 北上町は人も文化も彩り豊かです。北上町は石巻市となる前は北上町でありその北上町は旧橋浦村と旧十三浜村が合併してできた町です。海があり川(河口)があり山がある、それだけで村での生活も生業も違ったでしょうし、海側はリアス式海岸で複雑な形をしており、道路やトンネルが整備されるまでは行き来も大変だった場所もあったと聞きます。3年間ここに滞在させてもらっていると、隣集落同志であっても集落の雰囲気が異なることをよく感じます。“集落”というものも、もともとは隣近所の互助関係が広がり“契約講”としてまとまって独自の自治が生まれることで、集落ごとの性格や色ができていったのかもしれません。

震災前の十三浜の航空写真(泉ヶ岳パラグライダークラブの高橋さん提供)

震災前の十三浜の航空写真(泉ヶ岳パラグライダークラブの高橋さん提供)

そうした集落の色、習慣や文化は、その時々を生きるその地域の人の手によって次の世代へと受け継がれ、常に変化されていくものだと思います。各集落にある春祈祷(獅子舞)しかり、お祭りなどのハレの日にもその変化は表れます。

石巻市北上町十三浜の大室に伝承される神楽、大室南部神楽。時代の移り変わりとともに人々の働き方が変わり、地方から都市部へと居住を変える人が増えました。北上町でも人口は減少傾向、大室南部神楽保存会もその影響を受けて担い手不足により休止していました。2011年3月11日、東日本大震災の津波は十三浜を覆いました。あまりにも甚大な被災にみんなが落胆する中、小中学校の年頃に子ども神楽として舞台で大室南部神楽を披露していた現20代~40代の世代がお互いに連絡を取り合い、傷つき落ち込んでいる同郷の人々や北上への強い想いから、みんなが大好きだったお神楽をやろうと保存会に復帰しました。メンバーは、津波で今も見つからない師匠の言葉を思い出しながら、暇さえあればすべて失った道具ひとつひとつの由来を探り、同時に、遠方に住むメンバーでさえも毎週毎週仕事終わりに駆けつけて練習を続け、昨年5月4日ついに「大室南部神楽復活祭」を以てたくさんの拍手喝さいの中、復活しました。

昨年の大室南部神楽復活祭の模様。懐かしい太鼓や鉦の音、拍手喝さいの音が集落中に響き渡った。

昨年の大室南部神楽復活祭の模様。懐かしい太鼓や鉦の音、拍手喝さいの音が集落中に響き渡った。

大室南部神楽に魅了された応援者や全国の神楽ファン、地元からの声援を受けて、復活祭から間もなく来年の開催が検討されました。さらには故郷のために奮闘し、舞台でカッコ良く舞う親たちをみた子どもたちが意欲を出し、毎週の神楽練習に参加し練習しはじめていました。もしかしたら1年後の開催で披露できるかもしれない、大人たちもまだ披露したい演目がある・・・。

難しい動きも多く、練習中は子どもたちの悔し涙もあった。

難しい動きも多く、練習中は子どもたちの悔し涙もあった。

復活を手掛けた大室南部神楽保存会のメンバーの中には、新たなスタートを切った喜びとともに、来年の開催については「自分たちだけのお祭りでいいのか」という寂しさの入り混じる複雑な思いを持ちはじめているメンバーもいました。子どもの頃の先輩や後輩、同級生たちも、震災後も各々に立ちあがり北上で懸命にがんばっている。それに北上には他にも神楽団体があり、神楽以外の文化芸能もある。そして北上には美味しいものもたくさんある。もっと北上の魅力を発信するような、北上のみんなでつくる“北上のイベント”ができないか。さらにはお祭り開催をきっかけに、かつての集落や世代の縦の垣根を越えて横に横断し出会い、その横の繋がりがどんどん新たな復興ののろしになっていく、そういう北上の元気が生まれる機会になるといい・・・。

その思いから今年は大室南部神楽保存会主催で「きたかみ春まつり」という名でイベントが開催されました。獅子舞が手に入ったばかりの十三浜白浜、昨年の出雲大社の遷宮に招かれ披露した女川地区の女川法印神楽、力強い歌声が魅力の十三浜の演歌歌手の方、縁あって繋がった下大籠や埼玉の神楽団体、長く十三浜支援を続けている七ヶ宿のNPOなど、バラエティに富んだメンバーで舞台を飾りました。大室南部神楽保存会は、震災後初披露となる「羽衣」や「水神舞」という思い入れのある演目を披露、子どもたちはこの日が初舞台でしたがその堂々とした立派な姿に会場の笑顔と涙を誘い、目いっぱいの拍手が贈られました。会場の外では十三浜の美味しい海産物の料理や海の家のメニューが提供されました。きたかみ春まつりは開催だけでは終わりません。その日のうちに行われた打ち上げは、主催者、出店者はもちろん、お客さんも巻き込んで楽しめるようにセッティングされ、盛大な宴は夜中まで続きました。

演目「羽衣」は二人とも初めて演じる役。大きなプレッシャーの中、練習を積んできた。

演目「羽衣」は二人とも初めて演じる役。大きなプレッシャーの中、練習を積んできた。

 

演目「水神舞」は、25年ぶりに子ども の頃と同じメンバーで披露した。

演目「水神舞」は、25年ぶりに子どもの頃と同じメンバーで披露した。

みな、かつての子ども神楽メンバーの息子・娘たち。前日の練習から親たちは涙を止められなかった。

みな、かつての子ども神楽メンバーの息子・娘たち。前日の練習から親たちは涙を止められなかった。

みな、かつての子ども神楽メンバーの息子・娘たち。前日の練習から親たちは涙を止められなかった。

 

みんな大好き「餅まき」。舞台からおもちが投げられるたびに歓声が。

みんな大好き「餅まき」。舞台からおもちが投げられるたびに歓声が。

 

舞台はほぼ180度どこからでも見ることができるが、どこも満席(白浜の青山住職撮影)

舞台はほぼ180度どこからでも見ることができるが、どこも満席(白浜の青山住職撮影)

十三浜の人々による出店。見て味わって喋って・・・北上を五感で楽しめた(白浜の青山住職撮影)

十三浜の人々による出店。見て味わって喋って・・・北上を五感で楽しめた(白浜の青山住職撮影)

十三浜の人々による出店。見て味わって喋って・・・北上を五感で楽しめた(白浜の青山住職撮影)

 

今年も天気に恵まれ、舞台は大室漁港の青い海と空、新緑の緑とともに気持ちの良い風の中観覧できた(白浜の青山住職撮影)

今年も天気に恵まれ、舞台は大室漁港の青い海と空、新緑の緑とともに気持ちの良い風の中観覧できた(白浜の青山住職撮影)

このイベントをはじめ震災後、各々に踏ん張ってきた人たちが、点と点が、縦に分かれていた見えない壁を越えて、横に繋がって新たな北上の力が生まれようとしています。そのお話しはまたいつか。

(北上復興応援隊 日方里砂)

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十三浜の伝統芸能 『南部神楽』地元の力で復興へスタート https://www.parcic.org/report/ishinomaki/tohoku_nature_culture/1122/ Wed, 25 Jul 2012 11:52:01 +0000 http://test.parcic.org/?p=1122
▲大室南部神楽保存会が探し当てた、
大室南部神楽の演目ビデオより。

「南部神楽」は、宮城県北部から岩手県南部まで広く継承されている民俗芸能。旧来の神楽が明治維新後に農民によって一般化し、鮮やかな衣装をまとった演者 が、神話・伝説などを桶胴(おけどう)太鼓と鉦(しょう)の囃子(はやし)に合わせて演じ唄い舞う、迫力ある芸能です。石巻市北上町十三浜には、相川、大 室、長塩谷・立神地区に保存されていました。いずれも、石巻市指定無形民俗文化財です。

2011年3月11日の津波は、十三浜の南部神楽が保存されているすべての浜を襲いました。囃子道具、お面、衣装、さらには演目・台詞が記されていた「か んでぼ(神台簿、神台本)」まで、保管されていたあらゆるものが波にのまれ、消え、衣装の端切や海水を浴びてぼろぼろになった道具が発見できた程度でし た。

これまで、被災された大室の方が、何度か南部神楽の話をしてくれたことがありました。
「〇〇さんはうんと唄がうまいんだ」
「みんな神楽が好きでね」
「屋島合戦は泣きの演目で、際立って上手な人でないとだめなんだ。うまい人がやると、もうみんな泣いてしまうよ」(とくに、たくさんの亡くなった兵士の中、兄を懸命に探す場面は涙を流さずにはいられないとか)
「こういう台詞なんだ。これが泣けるんだ。『忠信と一声、呼びたまえ~~~』」


▲屋島合戦の台詞を唄いながら書き記してくださいました。

▲こうした長台詞が書かれていたものもすべて失いました。

年が明けた2012年1月初旬、十三浜小室の獅子舞の件もあり、石巻市教育委員会の文化保存を担当する方を訪ねました。担当してくれたのは木暮さんという方、訪ねた時、驚かれながらこう話してくれました。

「ずっと浜の方が気がかりだった。まして北上町は役場ごと壊滅、職員もみな被災し、大変な状況であることは分かっていた。だから獅子舞は、神楽は大丈夫 だったかとは到底、聞けなかった。(パルシックから)事情を聞き、迷ったが、地元が復活させたいと言っているなら、その“今”が、文化・芸能の復興のタイ ミングなのだと思った」。

この木暮さんの一言から、十三浜の神楽復興への道のりがスタートしました。2月には被災した長塩谷南部神楽、相川南部神楽、大室南部神楽が集まり、各保存 会の組織体制、運営、練習場所、道具の確保について話し合われました。これまで、「おらほの神楽が一番」と思ってきたそれぞれの保存会。ですが、木暮さん により、体力を蓄え、保存会を残していくためにも、独自性を大事に活動しながらも、例えば「十三浜南部神楽連合」としてゆるやかに連携してお互い励まし 合って行こうということが提案されました。それから、資金調達や道具の作り手探しなどそれぞれに動き始めました。しかし、後継者がいない保存会もありま す。今後、南部神楽はどうなっていくのか、先が見えない保存会もあります。お金さえあれば復活できるものではありません。現保存会の思いと、我慢強く道具 の作り手を探しできるまでを待つ、そう簡単に「復興」とはいきません。そんな中、大室南部神楽はいち早く、大室出身の若手が動き始めました。

もともと南部神楽は子供や女性が演じるものではありませんでした。南部神楽は、明治初期の修験制度廃絶後農民に広がり伝承されていくまでは、岩手県 を巡る修験者たちが継承してきた「山伏神楽」というものであり、おそらく厳格な規則により守られてきたと想像します。ですが大室では、20~30年前、文 化芸能の継承・後継者の育成のため、そして何より当時の子どもたちが南部神楽に憧れて師に「踊りたい」と何度も頼み込んだことから、神楽を演りたい男の 子・女の子への継承がはじまりました。子どもであっても妥協を許さない当時の師匠。下手な踊りをすると「だいにおしぇらいだ!(誰に教えられた!お前の師 は誰か!)」と怒られたといいます。台詞も長く、そして体力も相当に必要です。後に、当時のビデオが見つかったのですが、小学生がこのような舞ができるの かと驚かされました。

「子供神楽」であちこちのイベントに引っ張りだこだった当時の小学生たちは、現在20代~30代。大室を離れ、皆ばらばらに家族や仕事を持っています。で すが、自分たちの生まれ故郷のために何かできないか、悲しみを背負ったおじいさんおばあさんの笑顔がみたい、その思いから、道具だけでなく、神楽の恩師ま でも津波で失いましたが、お互いに連絡を取り合い、懸命に復活に向けて頑張っています。

大室は十三浜の中でも一番、冗談や笑いが多く、真面目な顔で冗談を言うので真に受けてちゃかされるということもある地域です。身内・家族を失った方も多 く、ほんの少し高いところにあった2軒を残し、浜全体が壊滅しました。若者の手によって、少しずつ元の笑顔が取り戻されるかもしれません。

大室ならではの面白いコラムがたっぷり掲載されている「大室南部神楽保存会」のホームページがあります。
大室南部神楽保存会

そして大室だけでなく、相川も長塩谷も、それぞれに踏ん張ってがんばっています。よかったら皆さんも一緒に、十三浜の南部神楽を見守り応援してください。 民俗芸能は集落が育て伝承していくもの。パルシックは、事務方など後方からお手伝いが必要なところで、できることをして、応援しています。


▲お幣束づくりの様子。神楽の演者は右手に扇子(刀に代わることも)、左手にこのお幣束を持って舞います。演じた後、お幣束は観覧に来た方に贈呈され、渡された方は家の神棚に飾るのだとか。(大室)

▲神楽の衣装は地元の方たちが縫います。生地ひとつ、生地の名前を探すところから始まりました。その生地で地元のお母さんたちが仮設住宅に集まって、ひとつひとつ確かめながら縫い上げています。(大室)

 

(パルシック 日方里砂)

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毎年の楽しみ 十三浜の獅子舞 https://www.parcic.org/report/ishinomaki/tohoku_nature_culture/1101/ Thu, 15 Mar 2012 20:00:55 +0000 http://test.parcic.org/?p=1101 石巻市北上町では2月になると“春祈祷”という新年の家内安全と悪疫退散、火伏を目的とした獅子舞の行事が行われます。集落により日付ややり方に違いはあ りますが、十三浜小室集落ではこの古くから伝わる行事をほぼ変わらず受け継がれてきました。そのため、他の集落から呼ばれて踊ったり教えたりすることも あったといいます。獅子頭も大きな耳、大きな頭が特徴的で、集落の方によると「ここの獅子はイケメンなんだよ」とのこと。小室にとって獅子舞は集落の誇り であり、春祈祷は毎年盛大に行われ続け、この日を楽しみに離散した家族も帰省するので、毎年春祈祷の日は人口が集落住民の2~3倍になったそうです。


小室の獅子の元の姿。

被災後、発見された獅子。現在高台にある集落の神社に保管されている。

十三浜小室集落は、東日本大震災の影響で津波により被災、住民は離散して暮らしています。現在、集落に近い高台に集団移転を予定していますが、移転まで集会場もなくこうした伝統的な行事も行うことができず、住民や親せき、家族が集う機会が失われています。

津波の翌日、集落の方が小室漁港に打ち上げられた獅子頭を見つけました。獅子舞の道具は、獅子舞(獅子頭・幕)やひょっとこのお面、衣装、太鼓、笛があり ますが、それらを保管していた集会所は海のすぐ側にあり、この大津波により全壊していました。がれきでいっぱいの漁港に苦労しながら降り、流れ着いた獅子 頭を確認したところ、それは紛れもない小室の獅子でした。見つけた方は、この大津波の中で奇跡的に帰ってきた2つの獅子頭を拾い上げ「これは必ず獅子舞を 復活させろということなんだろう思った」と話します。住民の皆さんが毎年楽しみにしていたという“春祈祷”。小室集落の契約会は「こういうときだからこ そ、住民の皆さんのために春祈祷を再開したい。他の地域に仮住まい・移転した住民が“地元に帰る”きっかけにもなれば、懐かしい顔も集まって賑やかになる だろう」と話してくれました。パルシックは、石巻市教育委員会の方に協力を仰ぎ、小室集落が獅子頭を取戻し春祈祷の行事が行えることを目指して応援してい くことを決めました。

小室集落のみならず、十三浜各集落各地で獅子舞の道具が流出してしまいました。また、獅子舞を皮切りに、地域の方から話を聞き、この地域が民俗芸能で集落 のコミュニティを繋ぎ、集落を賑やかにしていたことも知りました。獅子舞のみならず、十三浜の民俗芸能の復興に向け、年末より文化(コミュニティ)支援を スタートさせています。


小室の獅子の元の姿。

被災後、発見された獅子。現在高台にある集落の神社に保管されている。

不思議と、動かされると急に表情が変わります。

獅子舞のことを教えてくださるとき、みなさんとてもイキイキと話してくださります。

(パルシック 日方里砂)

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石巻の大津波と縄文時代の海進 https://www.parcic.org/report/ishinomaki/tohoku_nature_culture/972/ Sun, 22 Jan 2012 15:00:46 +0000 http://test.parcic.org/?p=972 阪神淡路大震災と比較すると、東日本大震災は、「大震災」という名称は共通するものの、実相は大きく異なる。高層ビルや高速道路が瓦解し、多くの死者や負 傷者を出した前者に比べて、東北では建物の倒壊による死傷者が少ない。死者や行方不明者は後者が多いものの、そのほとんどが津波の被災者である。言い換え ると、地震のあと津波が来るまでの数十分、多くの被災者が生き残り、予期される津波からの避難や、地震被害の善後策に大わらわだったにちがいない。数十分 間にできることは、限られていたであろう。

福島第一原子力発電所を管理している人たちの脳裏に去来した万感の思いが、いずれは明るみに出ると思われる。筆者は東日本大震災のあと、福島原発被災地の 南相馬市や川俣町へ、毎月のように足を運んだ。2012年の正月休みに、10回目の訪問をした機会に、宮城県石巻まで足を伸ばした。

福島の浜通り同様、宮城でも津波に襲われなかった地区は、一時的に交通網やライフラインが寸断されたとはいえ、日常生活を再建する目途が立っている。 2004年12月26日コロンボ市内のホテルに滞在中、インド洋大津波に襲われたスリランカの沿海地域を思い出す。午前8時半ごろ過ぎに大きな揺れを感じ たものの、大津波の来襲による被災まで約4時間、人びとは無策だった。この日、家屋、学校、病院、道路、鉄道だけでなく市場や墓地まで焼失し、2千万人の 島民のうち、約4万人の人命が失われた。他方、津波に襲われなかった地域では、学校や病院の再開も容易であった。予知しがたく、前兆の乏しい地震に比べ て、大津波は大地震のあとに来る。その分だけ、なにほどか人災の匂いがする。

日本列島における定住の歴史という点から見ると、石巻地域は類例の少ない顕著な地位を占める。大規模な貝塚の深い地層が、その歴史の長さを教えてくれる。 貝塚研究の歴史も、全世界に先駆けている。江戸時代の安永2(1773)年に仙台藩士の田辺希文が編纂した『牡鹿郡陸方沼津村風土記』に、石器や土器が混 在する貝塚の存在が報告されている。ヨーロッパにおける貝塚研究より、百年近くも早い。


▲宮城県 海進図

郷土史家の今野照夫(石巻市北上総合支所課長補佐)によれば、今回の大津波は、<縄文海進>に重なる。通説では、氷河期が終わった縄文早期(約一万年前) の地球温暖化により、太平洋の水位が上昇したといわれる。貝塚の分布線が、縄文時代の海岸線と想定され、<縄文海進>説を根拠づける。しかし通説に逆らっ て、縄文人は大津波の襲来に備えて、高台に生活の本拠を置いた、と見ることも可能である。次世代に向けた居住地区の復興計画は、縄文人の知恵を学び「縄文 海進」線にすべしという。筆者も同感である。

北上川はたいへん大きな河である。波浪状起伏地形の狭小な盆地に暮らす関西人が、北上川の下流域を歩くと、まるで大陸の大平原を旅している感懐を抱く。定 住系倭人が長く生活の本拠を置いた水系である。彼らはエミシと呼ばれたが、アイヌ系とは限らない。日本列島における定住生活者の原像である。この地域は、 古墳時代以降、朝鮮半島由来の稲作技術を手に北上する渡来系日本人の軍事拠点となった。多賀城と石巻は、エミシの在地権力とヤマト政権が、長期にわたって 攻防を繰り返す最前線でもあった。

信仰のかたちがアニミズムや素朴な祖霊崇拝から大きく出ることのないエミシに対して、ヤマト側には鎮護国家や加持祈祷を掲げる奈良仏教が対応していたであ ろう。奥州仏教界指導者の徳一と征夷大将軍の坂上田村麻呂はともに法相宗(興福寺や清水寺)に属し、中国から最先端の仏教思想を持ち帰った比叡山(最澄) や高野山(空海)からは守旧派と見られていた。現代の石巻にも、人生の危機に際して神仏の加護を求める祈祷が、民間信仰として残っている。


▲北上川 河口付近の風景

多くの住宅では、敷地内に小祠が祭られている。大津波で家屋が流失したあと、家屋を再建する場合も屋敷内の祠が優先される。祖先崇拝の証人である。石巻の 街並みを見おろす日和山の鹿島神宮は、長くヤマト側の祖霊を鎮め、慰めてきた。奥州支配を強固にした坂の上田村麻呂は、攻めのぼるヤマト権力側から見れ ば、古代における「坂の上の雲」である。稲作文化を掲げる支配者の北上とともに、北上川の水利開発が進む。定住系倭人と渡来系日本人との最終戦は、平泉で 戦われた。その後、中世武将の主要任務は、土木開発に豹変する。

彼らの土木事業は、北上川上流部で盛岡を涵養し、下っては花巻、平泉、一関の順で流路変更をしながら都市の形成を支えてきた。その終着点が石巻である。伊 達政宗の重臣、川村重吉は護岸改修工事と流路変更工事により水利の安定化に力を尽くし、新田開発を進め、水稲40万石(6万トン)の増産を可能にした。か つて派手な衣装を身にまとい、江戸や上方の郭でキセルの雨を浴びた「伊達男」は、北上川下流域開発の賜である。このような稲作偏重の開発事業は、伊達藩が 西南雄藩に対抗できるほどの富を蓄積する一方、冷害の年には多くの餓死者を出す過剰開発であった。宝暦(1755年)、天明(1783年)、天保 (1833年)の大飢饉に際して、石巻郷土史が記憶する一揆や打ち壊しの頻発は、近世における過剰開発の副産物でもある。

明治以降も増産を目指す土木事業は、<縄文海進>に学ぶことなく進められた。その結果、東日本大震災で人命を奪ったのは、地震や原発より圧倒的に大津波で あった。人口当たりでみて、最も多くの死者を出した自治体は石巻市である。長面地区に押し寄せる大津波を前にして、百名を超える犠牲者が逃げ惑った大川小 学校の苦難は、今後の復興計画を立てる上で多くの事柄を教えてくれるに違いない。

(パルシック 中村尚司)

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北上町の景色 https://www.parcic.org/report/ishinomaki/tohoku_nature_culture/72/ Fri, 09 Dec 2011 07:48:00 +0000 http://test.parcic.org/?p=72 用事で石巻市街へ出かけた帰り道。
何やら遠くで一部分だけ、雲から白いカーテンのようなもくもくしているのを発見!
びっくりして車を停めて写真を撮ってしまいました。

クリックするともう少し大きなサイズで見ることができます。
この縦にも横にも大きな雲のほんの一部分だけ。ここだけ雨なんてことはあるの???と
あまり見ない景色に驚いたり感動したりしながら疑問いっぱいでさらに車を走らせます。
 
 
河北のあたりかなぁと想像していたのですが・・・
ICを降りても、あのモクモクカーテンはまだ遠方の景色。
 
 
さらに北上町へと走っていると、どうやら北上だけで雨が降ってる事が分かりました。
 
 
北上だけ天気が違ってたんだ~と濡れた地面を眺めつつ右手を見ると、
ぼんやり虹が出ていました!ほんの1~2分で消えてしまいました。
 
ほとんど消えかけていますが、心のきれいな方なら見えるはず!?
東北最大級の川の葦原の上に虹!北上はやっぱり、天気も自然も格別だ~!と
しみじみ感動しながらドライブしていると、今度は雨が。
あのモクモクカーテンの雨の下に入ったのでした。
車の通りが少ないとき路肩に停めています。念のため。
でも、この河川沿いはなかなか車を停められないですね。
雨エリアを抜けると、サイドミラーからキレイ空が見えたので、また撮影。
 
 
この北上川河口のあたりは通るたびにいつも川面に太陽の光がキラキラ反射して
震災・津波の被害を受けた場所なのに、ものすごくキレイな景色を見せます。

北上はいわゆる「名所」や「観光地」はそうたくさんあるわけではありません。
でも、都会からみなさんが北上町へお越しになると、北上の景色はきっと
感動するだろうなぁーと、いつも思います。
これから高台へ移転したり、道路が変わったり、町の姿はこれから少しずつ
変わっていくだろうと思います。
住民の方々はどんな町を作っていきたいと望んでいるのか、
10年後、50年後、どんな町を子孫に残していきたいと考えているのか、
「復興」はそうした思いが反映されるような町になることを期待します。(日方)

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