インドネシア – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Thu, 11 Nov 2021 09:46:11 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 西ティモール・マラカ県での生計資材配付 https://www.parcic.org/report/indonesia/seroja_cyclone2021/19896/ Thu, 11 Nov 2021 09:41:59 +0000 https://www.parcic.org/?p=19896 “Seroja” インドネシア語で「蓮」という意味を持つ熱帯性低気圧、サイクロン・セロージャは、2021年4月4日未明以降、数日間に渡りインドネシア東部や東ティモールに豪雨、暴風、土砂崩れ、洪水、川の氾濫といった多様な災害を引き起こしました。インドネシアでは主な被災地である東・西ヌサ・トゥンガラ州を合わせ181人が死亡、45人が行方不明、6万6036戸の被災家屋、50万9604人が避難民となりました(2021年4月13日現在)。パルシックは東ティモールでこの災害による被災者への支援を行っていますが、同じティモール島の西側、インドネシア側でも支援活動を行っています。

3つの青い点が対象の3村。マラカ県の県都ベトゥンから車で約30分

ティモール島の中央に位置し、東ティモールとの国境を有するマラカ県は、豪雨による洪水被害が特にひどかった地域です。さらに、州都クパンへ続く橋の崩壊、暴風被害のひどかったクパン市周辺での送電線への被害により、西ティモール全体が不安定な電気供給と不安定な通信状況に陥りました。

その結果、マラカ県の被害状況がなかなかクパン市に拠点を置く東ヌサ・トゥンガラ州サイクロン・セロージャ被災対策本部などに伝わらず、州内のその他の地域に比べ支援が遅れていました。そこで、パルシックはクパン市に本部を置く現地提携団体と共にマラカ県で被災者支援を行うことにしました。

崩壊したベネナイ橋(https://www.youtube.com/watch?v=67Qknn927_Yより)

修復中のベネナイ橋。現在は乾季で小川程度にしか水が流れていないため簡易の橋を渡している

事業の開始は6月下旬となり、サイクロン被災から2か月以上が経っていました。そこで、ある程度の支援が行われた食糧や生活用品の配布ではなく、農地が被害を受け、蓄えや次の種蒔き期のために保管していたトウモロコシなど穀物の種、農具や漁具、家畜といった生計の手立てを失った人たちの生計活動の再開を支援をすることにしました。再開に必要な配付物を、農業、漁業、養鶏の3種のセットに分け、対象となった住民の希望に添って配付を行いました。

支援の対象は農業・漁業を生計の柱とする世帯で、さらに障がいのある人のいる世帯、乳幼児のいる世帯、女性が一家の大黒柱となっている世帯、高齢者世帯などを優先しました。配付にあたっては、新型コロナウィルス感染拡大予防に努めながら、各村の集落ごとに配付日や配付時間を割り振り、配付場所である村役場に一度に大人数が集まらないようにしました。10月末に、3村で合計1,335世帯への配付を終了しました。

配付前の集会で村の農業・漁業・家畜の分野ごとの被害状況や今後の展望について話しあった

対象の村では読み書きが難しい人も多く、サインの代わりに拇印をもらうことも多かった

農業セットを受け取った女性たち

漁業セットを受け取った男性

養鶏セットを受け取った男性

配付後のモニタリングの様子

配付の終わった現在は、資材を受け取った各家庭へのモニタリング、それから各村でのFGD(フォーカス・グループ・ディスカッション)に向けての準備を進めています。FGDでは、防災をテーマに行う予定です。11月上旬の現在、同じ西ティモールの州都クパンや隣県の県都アタンブアではまとまった雨が降り出しており、マラカ県でももうすぐ雨季が始まる時期だと言われています。雨季には、また水害も心配されますが、村の方々が以前よりも水害に備えられるように活動に取り組んでいきます。

(マラカ事務所 松村多悠子)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成と皆さまからのご寄付で実施しています。

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中央スラウェシ州での活動を終えて https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/19638/ Wed, 18 Aug 2021 06:13:12 +0000 https://www.parcic.org/?p=19638 2年8か月と14日間。日数計算のサイトで中央スラウェシ州での地震・津波被災者支援の開始日と終了日を入力してみたら出てきた数字です。決して長くはないけれど、スラウェシの地に愛着と親しみを持ち、友達を作るには十分な時間でした。

現地での活動は6月いっぱいまでだったので、6月は事業のモニタリングや事務所を閉じる作業、関わってきた方たちとのお別れで慌ただしく過ごしました。支援をしてきた女性たちは、自家製のコーヒーや乾き菓子をたくさん持たせてくださり、「次は家族で来るんだよ」と声をかけてくれました。女性の生計支援活動(2019年10月~)から共に活動してきた現地提携団体の代表は「パルシックは今まで出会ってきた国際NGOと全く違った。私たちと対等に同じ目線で共に活動し、とても嬉しかった」と女性たちとの修了式兼お別れ会で述べてくれました。

修了式兼お別れ会にはシギ県の県知事代理など政府関係者も参加

私たちがスラウェシの地で活動を開始したのは2018年10月26日。中央スラウェシ地震から1ヶ月が経とうとする頃です。見た目ではヒビが入った程度の建物が続き「意外にも被害が少ない…?」と思った空港からホテルへの道中、かと思えば大きな商業施設が1階部分から潰れていたりと、ひどい有様でした。道を挟んでこっち側とあっち側で壊れ具合が違う、そんな状態に驚きました。この商業施設には、逃げ遅れた人が埋まったままだと聞かされました。

津波の大きな被害を受けた沿岸のホテル

被災から約1ヶ月後の液状化現象の跡地。鉄くずを集める人が多く見られた

液状化現象の被災地、津波に一掃された沿岸部、避難キャンプなどを見て回り、食糧・生活用品の配布から支援を開始しました。その後、2018年の12月には子どもの居場所活動を開始。保護者が生活の建て直しに忙しく、まだまだ瓦礫が残り余震も続くなか子どもたちが安心して遊び過ごせる場所を提供しました。

この頃から20代の若い現地スタッフが働き出し、以降の事業期間中、多い時は10人以上の現地スタッフがいました。2020年8月で子どもの居場所活動を終了してからは、その後続く女性の生計支援で大きく活躍してくれました。彼らの多くは自身も地震の被災者であり、また複雑な家庭環境を持つスタッフもいました。子どもの居場所活動について「自分も子どもの頃に、こんな場所が欲しかった」と、あるスタッフが泣きながら話し、「自分が欲しかった場所を今の子どもたちに作ってあげて、それを一緒に楽しもう」と話したことは忘れられません。

障がいを持った子どもが輪に入りづらいこともあったが、活動を続けるうちに一緒に遊ぶ場面が多く見られるようになった。この時は突然歌い出した障がいを持った子どもに合わせて、2人の子どもがタンバリンと太鼓を叩き出し自然な音楽セッションとなった

子どもたちが歌をうたう様子を、外からたくさんの保護者が見守っていた

食糧の配布は1,200世帯、生活用品は1,130世帯に行いました。また仮設住宅資材の配布を357世帯に、145基のトイレ新設、122基のトイレ修復、193基の水タンク設置も行いました。1村から始まった子どもの居場所活動は3村まで活動を拡げました。女性の生計支援は2019年末に子どもの居場所活動を行う3村から始まり、最終的には5村で支援を行いました。

生活用品の配布の様子

仮設住宅の前の親子

生計支援は農家の女性たちを対象とし、軽食や生菓子・乾き菓子などの加工販売の研修、必要資材の配布を行い、なかなか農業分野の復興が進まない状況で女性たちが追加収入を得られるようになりました。2020年3月以降には新型コロナウィルスの感染が拡大し、集会の規制や経済活動の停滞など様々な困難が生じました。そんな中、家庭での消費や販売からの収入にも回せるようにと、女性たちを対象に、養鶏の研修と鶏・資材の配布、もしくは野菜栽培の研修と種・資材の配布のいずれかひとつを希望に合わせて行いました。

液体肥料の作り方をレクチャーする現地スタッフ

傾斜部の畑を案内する女性

特に大変だったのは、養鶏です。予想だにしなかった数の鶏が病気の流行で死に、新たな対応を迫られました。生き物を扱うことは、思い通りに行かないことだらけだと心底思わされました。野菜栽培では、土日に村に泊まり込み、なかなか作付けにすすまない女性の畑で一緒に鍬を持って土を耕し、草抜きをしたこともあります。

水は、何世帯かが共同で汲み上げ式の井戸を使って水タンクに貯めて使っているのですが、その日は朝から土を耕して、さあ午後に水を使おうとしたら水タンクから水が流れず 長々と待たなくてはいけませんでした。事業地では水が不足していて、時間やタイミングによって水が出やすい、出にくい、という状態なのですが、情報として「水が少ない」と理解していても、汗水流して作業をしたあと、いざ水がいる!という時に水がない時の「はー、もう今日はしゃーないわ」という気持ちは、一緒にやってみないとわかりませんでした。

野菜栽培選択の女性の中には、それまでの軽食販売をやめて野菜の販売に絞り、大きな売り上げを出した人もいます。「軽食販売と比べてどうですか?」と聞くと「そりゃもう野菜販売がいいよ!夫といる時間が増えたんだもの。仲良しなの、ふふふ。一緒に畑やって、売り上げも大きいよ」と言って、アハハハハと大きな笑い声をあげて話してくれました。

鶏小屋資材を配布するスタッフ

家畜衛生局と協力しワクチン接種をする様子

女性の生計支援では、共同生産所も作りました。そこでは主に乾き物のお菓子を女性たちが共同で作っています。村を訪れた際に寄ると、集まった女性たちとお喋りになり、「美味しい美味しい」とついつい勧められるがままにお菓子をいただきました。女性たちの社交の場にもなっていたようです。特に「ピア」というお菓子と、紅芋やドラゴンフルーツなどから作ったチップスが美味しくて、おすすめです。

共同生産所でピアを作っているところ

家計簿のつけ方、パッケージについてなど生計に関する研修を受ける女性たち

パルシックの事業は終了しましたが、研修で学んだことを活かし女性たちは養鶏や野菜栽培、軽食やお菓子の製造販売を続けています。みなさまのこれまでのご支援、心からありがとうございました。

さきに載せた液状化被災地跡の2021年6月の様子。すっかり草が生え緑の更地となっていた

(スラウェシ事務所 松村多悠子)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成と皆さまからのご寄付で実施しました。

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コロナ禍のインドネシア国内移動と事業地の様子 https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/19076/ Fri, 07 May 2021 01:39:04 +0000 https://www.parcic.org/?p=19076 2021年3月24日、ほぼ丸1年ぶりとなる中央スラウェシ州パルに到着しました。昨年3月16日、事業地のある中央スラウェシ州が新型コロナウィルス感染予防の観点から、外国人の入域を禁止したため、私はこの1年間、自宅のあるティモール島(インドネシア側)のアタンブアから遠隔で事業に携わってきました。

1年ぶりの事業地の様子をお伝えする前に、インドネシアにおけるコロナ禍の国内移動についてお話しようと思います。州ごとに規制や抗原検査・PCR検査その他の有無、陰性証明の有効期間が多少変わりますので、あくまで今回の場合の一例です。まずパルに向かう前にバリに用事があったので、アタンブア出発前日に病院で抗原検査を受け、無事に陰性でした。初めての抗原検査、鼻に細長い綿棒のようなものを入れグリグリとされ結構痛かったです、涙目。「ああ、これから何度もこれやるのか…」と憂鬱な気持ちになったのを覚えています。

この当時(3月上旬)、バリに入るには24時間以内の抗原検査陰性証明が必要でした。その後、バリで用事を済ませ、パルへ向かう前にまたしても抗原検査!パル入りに関しては、当時48時間以内の陰性証明でした。覚悟を決めて、鼻の穴を突き出すと、スルッ、くるくるっと軽やかに回され、ほとんど痛みを感じませんでした。やはり人も多いバリでは検査をこなしてきた数が恐らく桁違いだからでしょうか。この陰性証明は、出発地の空港でチェックイン時またはその前に確認され、その後は通常の流れで飛行機に乗ります。目的地に到着すると、特に陰性証明の提示は求められませんが、事前にインストールしておいた「eHac Indonesia」というスマホアプリに、個人情報や目的地までの便名、滞在先などを記入し、空港を出る前に認証を受けます。もしアプリがなかったり、エラーになったりした場合は紙に記入します。

eHac Indonesiaの設定画面

久々の事業地では、30名以上の女性たちから実際に話を聞くことができました。生の声が聞けるのは嬉しいものです。いくつかのお話を紹介します。まず、こちら。真ん中の女性たちの中で見覚えのある顔はないでしょうか…?

中央の並びの1番右がウチアナさん

そう!オンラインイベントの動画に出演をしてくださったナモ村のウチアナさんです。 ウチアナさんは焼き魚やお菓子の販売を続けながら、お店をやり、現在では養鶏の支援も受けています。「商売も養鶏も順調!鶏はまだ当分売りませんよ、まだまだ数を増やして、新しいメニューを作ったり、良い値段の時に売りたい」と言っていました。「ここらへんの名物で竹をつかった鶏料理があるでしょう?あれはどうですか?私も食べてみたいです」と言うと、「いいね。今度来た時に作ってあげるよ」とのこと。動画作成に奔走したファシリテーターが「ウチアナさんはどんどん話をしてくれるから、おもしろい」と言っていましたが、なるほど、よくわかりました。

1番真ん中の女性、左の女性も養鶏の支援を受けており、おおむね順調にいっているとのこと。左の女性は鶏の餌用にトウモロコシを畑で植えているそうです。「自分でもどうにかしないとね!」と言っていました。

お話を聞いた小屋の左手がちょうど鶏の餌用トウモロコシ畑

続いては、野菜栽培支援です。

ナモ村の通称チャーリーのパパとママ。支援の対象は女性ですが、夫婦で協力して畑仕事をしています。つい最近トマトの収穫でまとまった収入となり、そのお金で商品を仕入れ、閉じていた商店を再オープンさせることができました。「しばらく閉じていたけど、また商店を再開することができて嬉しい」と言っていました。トマトのほかに、唐辛子、空芯菜、青菜などを植えていて、セロリは発芽させているところです。

家の前の商店は真新しい商品で溢れていました。

続いて、シデラ村の生産所の様子です。この生産所では8人の女性がグループとなって協力して活動しています。この日は、残念ながら隣村で不幸があったため、3人だけが生産所にいました(左から2番目はパルシックの現地ファシリテーター)。こちらの生産所の1番の売れ筋はトルティーラ。トルティーラと名がついていますが、アメリカやメキシコで食べられる薄焼きのパンではなく、果物や野菜、芋類の薄いチップスです。ちょうど、この時作っていたのは、ドラゴンフルーツのトルティーラ、チーズ風味。チップスにふりかかっているパウダーも「自分達で作れるものなんだ!」とびっくりしました。パウダーの作り方を教わったので、今度作ってみて、あれこれふりかけてみたいです。

ドラゴンフルーツというと、震災後間もない頃に液状化現象のひどかったシギ県ジョノオゲ村を訪れた時の光景が思い出されます。橋が崩壊し、家や商店も壊れ流され、「道だった場所」には数キロ先から流されてきたドラゴンフルーツの畑があり、その実や木がぐちゃぐちゃに倒れていました。あのドラゴンフルーツが、今はこうしてシギ県名物トルティーラになっているのかと思うと、震災からの時間を感じると共に嬉しくなります。 

真ん中の鮮やかなピンク色がドラゴンフルーツのトルティーラ

あっという間に事業期間も後半に差し迫ってきましたが、引き続きパルシックは少しでも女性たちの生活が良くなり、より多くの笑顔が見られるようにサポートしていきます。

(スラウェシ事務所 松村多悠子)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成と皆さまからのご寄付で実施しています。

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新型コロナウィルスの影響を受けるインドネシア・バリ島(Bali Saya Channel の街頭インタビューを追加掲載) https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/18513/ Tue, 09 Feb 2021 05:00:08 +0000 https://www.parcic.org/?p=18513 インドネシア・スラウェシ島の支援事業に携わっているのに、何故バリ島かと思う方もいらっしゃるかと思いますので、私の現状を簡単にご説明します。

昨年の3月初旬に初めての新型コロナウィルスの感染者がインドネシアで確認されました。それを受けて、同月16日には事業地のある中央スラウェシ州知事から外出自粛要請が出されました。また、当時は国外からウィルスが流入したため、同時に外国人の中央スラウェシ州への入域が禁止されました。この時期、諸手続きでスラウェシ島を一時離れざるを得なかった私は、この措置のためにスラウェシ島に戻ることができなくなり、それからはバリ島を拠点とし遠隔で事業管理をしながら現在に至ります。

皆さんもご存知のようにバリ島は世界的に有名な観光地の一つで、バリ州の国内総生産(GDP)の約6割が観光業に起因していると言われています。そんな中、昨年3月下旬には海外からの観光客の受け入れを禁止したため、大打撃を受けています。また、国内からの観光も禁止したため、数か月はほとんど観光客がいない状態でした。国内外の観光客で賑わっていたクタやウブドなどはゴーストタウンのように化していました。

昨年4月中旬のバリ島ウブドの様子

観光客が一切来なくなったため、多くのホテルやレストランなどが一時閉鎖に追いやられ、職を失った人や無期限の無給休暇を強いられている人たちも多くいます。少々古い情報ですが、2018年海外からバリに訪れた観光客は600万人。インドネシア国内からバリを訪れた観光客は約98万人。ほとんどの観光客が昨年3月以降訪れなくなったバリの経済的影響は計り知れません。 昨年7月末にようやく国内の観光客の受け入れを再開し、少しずつではありますが、週末や連休を利用し、ジャカルタやスラバヤなどの大都市から訪れる観光客を見かけるようにはなりました。ゴーストタウンだった観光エリアも営業している店やレストランも増えたとはいえ、歩いている観光客はほとんどいませんし、貸店舗や売店舗の看板を掲げたお店を多く見かけます。

今年1月のスミニャックの様子。貸店舗の看板を多く見るようになりました。

海外からの観光客に関しては、昨年9月11日から海外の観光客を受け入れると発表があったものの、感染状況を鑑みインドネシア政府が承認をせず、現在も海外からの観光客を受け入れていません。

今年1月のスミニャック大通りの様子。以前は国内外の観光客が歩いていました。

それでも、ジャワ島などから出稼ぎに来てる人たちは頼るところがなく本当に大変なんだろうなと思いつつ、バリ人は家族や親戚との結束が強く、きっとお互い助け合っているはず、またバリ州はインドネシアの中で裕福な州でもあるし、何とか生き延びているはずだと思っていました。

そんな考えを覆すような英文記事を読んで、状況は深刻なのだと改めて実感しました。 その記事によると、新型コロナウィルスの影響を受ける前から、観光業から恩恵を受けられていない貧しい地域が存在していた。しかし、観光業に携わる家族や親戚によって生活は出来ていたが、その家族や親戚もコロナ禍で仕事を失い収入が途絶え、さらに貧困問題は深刻になっている。また、以前は最低賃金で収入を得て移動手段のバイクもあり新しい靴も履いていて一見問題なさそうだった世帯も職を失い、より深刻な状況に陥っているそうです。前者は以前から貧困を経験しているので何とか生き延びる術を知っているが、後者はそのような術も知らず、自分には価値がない、自業自得だと精神的に病む人たちが多くいるそうです。

普段は引きこもり生活をしていて、スーパーなどに食材を買いに行く程度なので、バリの現実を分かっていなかったんだと記事を読み正直ショックを受けました。

インドネシアで初感染が確認されて早くも11か月が経とうとしています。収束傾向にはなく、第1波が去年の3月からずっと続いています。検査体制が整ってきているのか、変異種の流入もあってなのか、感染者数は今も増え続けています。1月17日現在、累計の感染者数が90万人を超え、死者数は2万6千人になっています。1月16日に確認された感染者は1万4千人を超えました。バリ州に関しては、1月17日現在、累計の感染者が約2万1千人を超え、死者数は6百人近くに迫ってきています。1月17日に確認された感染者は約260人でした。

インドネシア政府及びバリ州政府は海外からの観光客を早く受け入れられるように模索しているようですが、世界中で感染拡大が続く中、近日中に受け入れ再開を始められるような状況にないのだと思います。例え何らかの施策をもって受け入れを始めたとしても以前のような状況に戻るまでには時間がかかると思われます。インドネシアに限らず日本も含め感染が拡大する中で、不安だらけの時期ではあります。早くこの事態が収束に向かい、少しずつでも海外からの観光客がバリに戻る日が訪れることを心から願っています。

年末年始に行ったバリ州ペニダ島で拝んだ初日の出です。皆さんにとって健康でよい年になりますように…

Bali Saya Channel 街頭インタビュー

バリ在住の日本人YouTuberがたくさんいる中で、 私が唯一チャンネル登録しているのがBali Saya Channelです。
バリ育ちのサスケさんが町中でバリの人たちにコロナの影響についてインタビュー している動画です。

生活が大変でありながらも前向きな姿に力をもらうような気持ちになりました。
私が撮影した動画ではありませんが、この現地レポートを見てくださった皆さん にも共有できればと思い、サスケさんに相談したところ、快諾してくださいました。サスケさん、ありがとうございました!

(スラウェシ事務所 飯田彰)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成と皆さまからのご寄付で実施しています。

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生計支援事業に参加する女性・ウチアナさん https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/18501/ Mon, 18 Jan 2021 09:34:51 +0000 https://www.parcic.org/?p=18501 昨年11月下旬に行ったオンラインイベント「インドネシア・スラウェシ島 屋台から見えてくる震災後の女性たちの暮らし」の動画にも登場した女性の生計支援活動に参加するシギ県ナモ村のウチアナさんに震災時も含めどのような人生を歩んできたのかを話していただきましたので、ご紹介したいと思います。

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私の名前はウチアナで29歳です。前夫との子も入れて子どもは3人います。最初に結婚したのは15歳の時で、まだ高校2年生でした。前夫も同じ村の出身でした。最初の結婚は7年で終止符を打つことになりました。前夫は賭け事が好きで、お酒を飲み麻薬にも手を出し、暴力を振るうような人でした。目が腫れて耳が聞こえなくなるまで殴られ、耐えきれず離婚を決めました。役所とは別に地域の慣習に基づいて離婚の手続きをしました。暴力を振るわれたにもかかわらず、夫から逃げたと見なされ、罰金50万ルピア(約3600円)を支払うことになりました。 慣習上の離婚成立後約1年半後に今の夫と結婚しました。同じ地域の出身の今の夫はとても優しく、私の商売もサポートしてくれます。作ったものを近隣地域に売りに行くのですが、いつも一緒に来てくれて、先日オープンした食堂も建ててくれました。

私は若い頃から商売に興味があり好きでした。2018年9月末の震災時、私は母と行商をしていました。私たちは仕入れをするお金がなかったので、私と母は魚と玉ねぎを魚屋や商店から借り入れて、それを売り歩いて収入を得ようとしていました。いつもならば売れるのに、その日はあまり売れませんでした。2人のお客さんだけ魚に興味を持ってくれ、その中の1人が2キロのコメと2匹の魚を物々交換してくれ、母は大変喜んでいました。そのお米で、夕食のご飯にできるからです。その日は朝の10時から夕方まで売り歩いたのですが、30匹用意した魚は3匹しか売れませんでした。夕日が沈みかけ、家路に着こうとした時、大きく地面が揺れました。揺れが酷く2人ともバイクから転げ落ちてしまい、舗装されていない道にコメが飛び散ってしまいました。揺れが収まり、土と混ざった米を母は拾おうとしていたので、私は汚い米は拾わなくてもいいと言ったのですが、母は鶏に餌としてあげればいいんだと拾い続けました。

夕日が沈み暗闇の中、母と私はバイクですぐ家に戻ろうとしたのですが、道路は割れ、地面は今にも崩れそうでした。家に着くと台所の部分が崩れていて、父が崩れた台所に閉じ込められていました。運よく父は大きな怪我に至っていませんでした。父を助け出すと、前夫の義両親の家に走っていきました、2人の子どもが元義両親の家にいたからです。崩れた屋根や壁で元義父は亡くなりました。子ども2人は近所の人に助け出されていました。息子は落ちてきたレンガで足を怪我していました。その夜、元義父を葬り、近所の人たちと売れ残った魚を分け合って食べたのを思い出します。震災時、前夫は麻薬使用の罪で刑務所に収容されていました。

震災時のことを思い出すと、悲しい気持ちになります。今でも時折トラウマに襲われます。今は一番小さい子どもを家に置いて出かけることはありません。必ず一緒に連れて行くことにしています。私の子どもたちは震災後家の中にいるととても怖がっていました。余震や雷に怯えていました。震災が子どもたちのトラウマになっていました。パルシックの子どもの居場所活動に感謝しています。パルシックのスタッフがいつも一緒に遊ぼうと声をかけてくれました。ナモ村に子どもの居場所活動があって、本当によかったです。子どもたちのトラウマも徐々に消えつつあります。

震災後の生活は本当に大変でした。商売を再開するには資金が足りなく、一歩進めたと思ったら、後退するような日々でした。そこに、パルシックの提携団体SKP-HAMから支援をいただき、感謝しています。必要な砂糖、小麦粉、牛乳、チョコ、バターなどの食材や大きな中華鍋、コンロなどの調理器具をいただきました。

支援していただいてからすぐにお菓子を作ってシギ県リンドゥ湖地区に売りに行きました。特に米の収穫期には、いつも売り切れになるほど売れました。どれだけ持って行っても売り切れになりました。私は得た利益で魚を買い、それで焼き魚や魚のスープを作ってさらに売り上げを伸ばしました。断食の期間には、カレーなどの調味料を配合して売りました。

焼き魚の準備をするウチアナさん

私がリンドゥ湖地区を選んだのは、売る人が少なく、競争が激しくないからです。私の住むナモ村からリンドゥ湖地区まで往復で50キロ離れています。午前2時からお菓子を作り始め、朝の5時半にはリンドゥ湖地区に向けて出発します。早朝に売りに行く理由はリンドゥ湖地区の人たちが農作業に出かける前に売ろうと思っているからです。それでも、雨や悪路、土砂崩れなど売りに行くのは簡単なことではありません。また、小さな子どもを連れて行くので大変です。さらに、新型コロナウィルスの影響でリンドゥ湖地区で売ることができなくなりました。しかし、村の村長さんに話して、マスク着用を条件に売ってもいいと許可を得ることができました。

家族そろってリンドゥ湖地区へ行く様子

リンドゥ湖地区の人たちは現金の代わりにお米でお菓子や魚を私から買うこともあります。米1キロ当たり7000ルピア(約50円)として計算して、物々交換をします。ナモ村では米1キロ当たり1万ルピア(約70円)で売っているので、その差額から利益も出しました。

全ての出入金をパルシックの提携団体SKP-HAMから配布された帳簿に記録しています。参加した研修とパルシックのスタッフに手伝ってもらいながら、今では収益や損失を計算できるようになりました。利益の半分を貯金し、残りの半分でその日の食材などに充てるようにしています。貯蓄するメリットを実感しています。また、貯めたお金で中古のバイクを買い、そのバイクで夫と子どもと一緒にお菓子や魚を売りに行っています。さらに、食器棚、ガスボンベ、皿やコップ、スプーンなど買い揃え、開店した食堂に使っています。その食堂の名前は末っ子の名前を付けました。名前の意味は「幸運を運ぶ女性」という意味です。

ウチアナさんの旦那さんが建てた食堂

早く新型コロナウィルスが収束し、村の仲間たちと共に売り続けたいと願っています。

オンラインイベント用動画制作時にインタビューを受けるウチアナさん

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最初の結婚生活から始まる苦難、そして震災に遭い、私には想像できない苦労を経験してきたウチアナさん。それでも、一つひとつ乗り越えてきたウチアナさんのたくましさに感動さえ覚えます。ウチアナさんは現在実施中の女性の生計支援事業に引き続き参加しています。ウチアナさん含め参加する女性たちの生活が少しでも楽になるように、パルシックはサポートしていきます。

(スラウェシ事務所 飯田彰)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成とみなさまからのご寄付で実施しています。

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コロナ禍の子どもの居場所活動 https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/17654/ Mon, 07 Sep 2020 09:11:51 +0000 https://www.parcic.org/?p=17654 3月16日、中部スラウェシ州の知事から外出自粛要請が出され、学校が閉鎖となりました。インドネシアの学校は7月が新年度の始まりですが、学校閉鎖は昨学年度中続き、新学年が始まる7月から学校ごとにオンラインや課題配布などで対応している状況で、中部スラウェシ州においては通常の対面での授業が未だ行われていません(8月31日時点)。

パルシックの子どもの居場所活動も、3月16日以降、学校閉鎖の通達に従い一時中断することになりました。外出自粛が続き、学校にも行けない日々が続く子ども達のストレス軽減やリフレッシュができればと、パルシックではコロナ禍においても新型コロナウィルスの感染症対策を守り、試行錯誤をしながら活動地である3つの村の状況に合わせて、4月下旬から様々な形で子ども達への活動を行なってきました。

各村ごとの活動

新型コロナウィルスの感染者が確認されているパル市から、車で約30分とほど近いソウロウェ村と隣接のカラワナ村では、パル市在住のファシリテーターが村を訪問することは避け、週に1〜数回、子ども達および保護者と電話でのコミュニケーションをとりました。保護者とは新型コロナウィルスに関する情報を共有したり、子どもの様子や家の状況などを聞き、子ども達とは電話ごしにクイズやゲーム、コーランの章句の勉強などをしました。

パル市から車で2時間以上山道を進んだ先にあるナモ村では、村の住民以外の出入りが少なく、ファシリテーター自身もナモ村の住民であるため、手洗いの敢行や大人数での集まりを避けるなどの感染症対策に気を配りながら活動を行いました。子ども達が家に持ち帰って遊べるように、塗り絵などの印刷物、折り紙の配布を週に2度行なったほか、各ファシリテーター宅で子ども達を受け入れ、少人数に制限した子どもの居場所活動を行いました。そのほか障がいを持った子ども達の家を定期的に訪問しました。

ナモ村ファシリテーターの家で塗り絵をする子ども達

ナモ村ファシリテーターが定期的に家庭訪問した障がいを持った子ども。初めのころは緊張した顔を見せることが多かった。 

今ではたくさん笑顔を見せてくれるようになりました。

3村共通の活動

家で過ごす時間に使ってもらおうと、未就学児〜小学生向けにクレヨンの配布、すべての子どもにインドネシアの童話集の配布を3つの村それぞれで行いました。また、新型コロナウィルス感染拡大前の子どもの居場所活動では、障がいを持った子ども達も参加して他の子ども達と一緒に遊ぶほか、ファシリテーターが障がいを持つ子ども達の家を訪問していましたが、他の子ども達が「障がいとは何か」を学ぶ機会を作れずにコロナ禍に入ってしまいました。そこでメンタルヘルスの分野で活動している現地団体と協力して障がいに関して学ぶ本を作成し、ファシリテーターが子ども達と保護者に本を作成した趣旨について説明をしながら配布しました。

本の内容は、身体障がいや知的障がいを持った子どもの生活や、家族・友達との繋がりを題材にしたいくつかのフィクションです。物語の中では、普段子ども達や保護者が、障がいや障がい者をさす時に使う”cacat”という差別的なニュアンスを持つ言葉(明らかな悪意を持って使うというよりは、他に言い方を知らずという場合が多い)を避け、代わりに「障がいを持った(人)」という意味の言葉を使いました。障がい者をさす意味での”cacat”という言葉の使用をこの機会になくし、新しい表現を学ぶことが大切な一歩と考えての試みでした。

配布から数日後には、ファシリテーターが少人数ごとに分けた子ども達のグループを訪れて、読後のフォローアップとして感想を共有したり、2人組になって「足が不自由」「手が不自由」「目が不自由」などの役割を演じる疑似体験の機会を持ちました。

クレヨン、インドネシアの童話集、障がいに関して学ぶ本を受け取るソウロウェ村の子ども

障がいの疑似体験をするナモ村の子ども達

保護者からは、「コロナ感染拡大が続くなかでも、子どもたちのために活動してくれてありがとう。配ってくれた本も勉強になる」との声をいただきました。不定期に子ども達を訪れたり電話をするなかで「ねえ、いつCFS(子どもの居場所活動)いつ始まるの?」と何度も何度も聞かれました。しかし残念ながら、新型コロナウィルス感染予防のため、事業期間中に子どもの居場所活動を通常の形で再開することはできませんでした。本記事を書いている8月末、ファシリテーター達は新型コロナウィルスの感染症対策を守りながら、各村側の協力を得た上で、子ども達へのお別れの訪問とマスクの配布をしているところです。

お別れの訪問をしたカラワナ村の子ども達

ファシリテーター達自身も地震の被災者であり、子どもの居場所活動を通して彼ら自身の心の回復に繋がった部分もあると感じています。あるファシリテーターは「自分も子どもの時に、こんな場所が欲しかった。子どものときに自分がして欲しかったことを、子ども達にしてあげたい」と言っていました。子どもの居場所活動は8月31日をもって終わりとなりますが、これからも被災地での支援活動は続きます。新型コロナウィルスの感染拡大という今まで誰も経験したことのない状況下ではありますが、私達にできることを最大限行なってまいります。

(スラウェシ事務所 松村多悠子

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成とみなさまからのご寄付で実施しています。

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新型コロナウィルス インドネシアの状況 https://www.parcic.org/report/indonesia/17100/ Tue, 23 Jun 2020 12:50:14 +0000 https://www.parcic.org/?p=17100 インドネシアでは、3月2日に初の感染者が確認されて以来感染拡大が続いており、6月23日現在47,896名の感染、2,535名の死亡が確認されています。感染がある程度収まり規制を緩和する国が多い中、ここ最近は毎日 1,000人前後の新規感染者が確認されており、増加傾向にあります。パルシックの事業地である中部スラウェシ州では3月26日に初の感染者が確認され、6月23日現在179名の感染、4名の死亡が確認されています。

3月16日、中部スラウェシ州知事から、外出自粛の要請が出され、集まりも実質禁止となりました。子どもの居場所活動(CFS)は一時中断、3月末に予定していた女性への生計支援の勉強会も中止し、講義動画を作成し配信し、現地スタッフが電話によるフォローを女性たちに行いました。

新型コロナウィルス感染予防策として、CFSに参加してきた子どもたち(355名)、生計支援に参加している女性たち(250名)、合計605名に衛生用品(石鹸5個、タオル2枚)を配布しました。また、新型コロナウィルスに関する基礎情報、正しい手洗いの仕方、相談できる連絡先などを記載したリーフレットを作成し、スタッフが家庭訪問しながら、衛生用品を配布し、リーフレットの内容を説明し、正しい手洗いを実践してもらいました。

フォローアップとして、6月12日から再度子どもたちや女性たちを個別に訪問して、慢性的な水不足の中で手洗いを行う必要があることから簡易手洗いキットを配布しました。同時にUVジェルを使用し、洗い残しが一目でわかるようにして、正しい手洗いの徹底を促進しています。

<新型コロナウィルス関連活動報告>

新型コロナウィルスの感染拡大防止のために衛生用品と小冊子を配布

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新型コロナウィルスの感染拡大防止のために衛生用品と小冊子を配布 https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/16719/ Thu, 30 Apr 2020 10:56:40 +0000 https://www.parcic.org/?p=16719 近隣国では次から次へと新型コロナウィルスの感染が発表される中、インドネシアでは感染確認の発表が長い間なされてきませんでした。インドネシアの温暖な気候で感染者が出ないという記事を目にし、気候が似ている近隣国での感染に対する説明は?と思いながら読んでいました。また、2月5日中国本土からの直行便が停止されるまで、武漢からの直行便も就航していて、多くの観光客が押し寄せていたこともあり、インドネシアに感染者がいないことはないと思ったものでした。

3月2日に在マレーシアの日本人を介してインドネシア初の感染者が確認されたと発表されました。あたかも日本人が新型コロナウィルスをインドネシアに持ち込んできたかのような印象で、ここインドネシアで活動する私たちにとっては、大変危惧される出来事でした。首都のジャカルタでは日本人に対する差別があったとの報道もありましたが、個人的に嫌な思いをした経験はありません。ただし、今までならば「出身はどこ?」と聞かれれば、普通に「日本」と答えていたところ、躊躇する気持ちが出てきたのは事実です。日本での感染拡大が報道されていた時期と重なるので「日本。でも、インドネシアに来て長いよ。去年の7月以来帰ってないなぁ。」と、聞かれてもいないのに、最近帰国していないアピールを欠かさなくなりました。

インドネシアにおける初感染者の発表から、感染者も日々増え続け、3月15日、ジョコ・ウィドド大統領から国民に向けて外出自粛要請が出されました。それに続き、翌日の3月16日に中部スラウェシ州の知事からも2週間の外出自粛の要請が出されました。これを受けて、パルシックの事業である子どもの居場所及び女性の生計支援活動を一時中断することになりました。

事業地である中部スラウェシ州パル市では3月の中旬には使い捨てのマスクもアルコール消毒液も入手が困難になっていました。そこで、パルシックは入手可能なもので感染予防を啓発するために、衛生用品(石鹸とタオル)と新型コロナウィルスに関する基礎情報、咳やくしゃみをする時のマナー、正しい手洗いの仕方、相談連絡先などを記載した小冊子を作成し、3村605名の子どもたちや女性たちに配布することにしました。

単に小冊子を配布しただけでは特に子どもたちは読まないだろうと考え、配布時に説明をし、正しい手洗いの仕方を実際に指導していくことにしました。集会行事の自粛要請もあったため、通常であれば村役場などに集まってもらい配布するのですが、戸別訪問をし、配布を担当した現地スタッフはマスクを着用し、ソーシャルディスタンシング(感染拡大を防ぐための物理的距離を取ること)にも配慮しながらの配布でした(実際に子どもや女性たちとしっかり距離を取れていたかは微妙なところです)。

ソウロウェ村

ソウロウェ村の子どもたちに正しい手洗いの仕方を教えている様子。

ソウロウェ村の子どもたちに正しい手洗いの仕方を教えている様子。

それにしても、日差しが強かったのでスタッフはフードを被ってサングラス掛けていたわけですが、それに加え感染防止のためにマスクをして、とても怪しい人に見えて仕方がないです・・・。

ソウロウェ村の女性に衛生用品と小冊子を配布した時の様子

ソウロウェ村の女性に衛生用品と小冊子を配布した時の様子

カラワナ村

カラワナ村の子どもたちが手洗いの練習をしている様子

カラワナ村の子どもたちが手洗いの練習をしている様子

カラワナ村の親子が手洗いの練習をしている様子。動画撮影を意識してか丁寧過ぎ(?!)で、微笑ましい光景です。
 

ナモ村

ナモ村の障がいのある子どもを訪ね衛生用品と小冊子を配布した時の様子

ナモ村の障がいのある子どもを訪ね衛生用品と小冊子を配布した時の様子

ナモ村の女性に衛生用品と小冊子を配布した時の様子

ナモ村の女性に衛生用品と小冊子を配布した時の様子

これは、ナモ村の女性が手洗いの練習をしている様子です。逆に、スタッフが教えられているようにも見えますが・・・

配布完了。今後、私たちにできることを考える

この衛生用品と小冊子の配布は無事完了しました。全て現地スタッフによって行われました。というのも、中部スラウェシ州政府から外国人の出入りが禁止されたこともあり、私はバリ島に拠点を移し、遠隔からの事業実施を管理しています。現場にいられないことは、村の子どもや女性たちの表情やちょっとした発言も拾うことが出来ず、事業の評価すべき点、課題や改善点などを直接感じ取ることが出来ないことを意味します。やはり、現場の声に耳を傾けながら、提携団体とパルシックの現地スタッフと共に試行錯誤しながら事業を進めていくところがこの仕事の醍醐味でもあるので、非常に辛く残念です。しかし、遠隔で指揮をとりながらではありますが、現地スタッフによる事業の実施が任されており、彼らが大きく成長できる機会でもあるので、悪いことばかりではないと思っています。

インドネシアで初感染が確認されて早くも2か月近くが経ち、4月30日現在、10,118名の感染が確認され、792名が亡くなりました。事業地である中部スラウェシ州では、47名の感染が確認され、3名が亡くなっています。しかし、ジャカルタでの新型コロナウィルスによる3月の死亡者は95名と発表されていますが、ジャカルタ公園・森林管理局(Dinas Pertamanan dan Hutan Kota Provinsi DKI Jakarta)によると、感染または感染の疑いによる死亡者が639名に上ったそうで、昨年の3月と比較すると、約1,300名も死亡者が多いそうです。感染の確認がされずに亡くなった方が多く、蔓延しているものと思われます。

新型コロナウィルスの感染が拡大する中、現在も私たちに何ができるか考えています。治療薬がなく、重症化した場合の高い致死率、無症状感染者からの感染、再陽性になる事例、世界経済の停滞など、不安だらけの時期ではあります。早くこの事態が収束に向かい、安心して暮らせる生活へ戻れることを切に願っています。

(スラウェシ事務所 飯田彰)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成とみなさまからのご寄付で実施しています。

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女性の生計支援事業を開始 https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/16223/ Fri, 06 Mar 2020 09:43:08 +0000 https://www.parcic.org/?p=16223 震災後1か月が経った2018年10月に現地入りし、緊急支援の一環として食糧や生活用品の配布を行ってきました。震災後約1年半が経とうとしている現在は支援事業も3期に入っています。今期事業では、仮設住宅資材の配布及び建設支援、子どもの居場所活動、そして女性の生計支援を実施しています。

今回は、女性の生計支援に関わる活動についてご紹介したいと思います。女性の生計支援は子どもの居場所活動を行っている3村(シギ県ソウロウェ村、カラワナ村、ナモ村)で開始し始めました。復興期に入った今、震災によって灌漑施設が被害を受け農業用水の確保が困難になり、特にシギ県の農業は大打撃を受けています。震災前は水田が一帯に広がっていたソウロウェ村の今も鮮やかな緑の稲穂は見当たらず、休耕田と化しています。

復興期に入り、政府や支援団体からの支援が減り、被災者の皆さんが生活のために何らかの収入を得なくてはいけない中、パルシックは村の女性を対象に生計支援を実施することにしました。

1月に入り、各村で事業説明会を行いました。目的や目標を説明しつつ、女性たちと参加意思の有無などを確認しました。

ナモ村で行った事業説明会

ナモ村で行った事業説明会

参加を希望する女性たちを対象に研修を行いました。参加者の自主性を尊重し、軽食や菓子、飲み物など作りたい・作れるものを決め、それに基づきグループを作り、参加者それぞれが必要な調理器具や食材をリスト化しました。

ソウロウェ村で行った研修の様子

ソウロウェ村で行った研修の様子

カラワナ村で行った研修の様子

カラワナ村で行った研修の様子

各村で研修を行った後、3村の女性たちを一堂に集め、合同研修を行いました。この研修では、これから始めようとする商売を様々な視点から分析をしました。予算を立てて、利益がどの程度出るのかシミュレーションも行いました。電気代や水代などを経費に入れていないことに気づくなど、新しい発見もありました。さらに、会計簿の付け方も学びました。とてもやる気に溢れる女性たちの姿が印象的でした。

合同研修の開会式の様子

合同研修の開会式の様子

今後始める商売の分析をグループでしている様子

今後始める商売の分析をグループでしている様子

女性たちが安心して研修を受けられるように、研修会場で子どもの居場所活動も行いました。

合同研修会場で行った子供の居場所活動の様子

合同研修会場で行った子どもの居場所活動の様子

参加者である女性たちから必要な調理器具や食材を聞き一人ひとりと確認し、配布を行いました。

ソウロウェ村での配布の様子

ソウロウェ村での配布の様子

カラワナ村での配布の様子

カラワナ村での配布の様子

ナモ村での配布の様子

ナモ村での配布の様子

村の女性たちを対象にしたこの生計支援は始まったばかりです。パルシックの生計支援事業を通じて、少しでも収入を得られるようにし、女性たちそしてその家族が震災前の生活に戻れるようにサポートしていきます。

(スラウェシ事務所 飯田彰)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成とみなさまからのご寄付で実施しています。

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仮設住宅の屋根材がもたらしたもの https://www.parcic.org/report/indonesia/sulawesi_disaster/15821/ Wed, 08 Jan 2020 01:48:28 +0000 https://www.parcic.org/?p=15821 パルシックが支援した木造の仮設住宅を訪れる際、スタッフは「日中、室内は暑くないですか?」と住民に話しかけます。「全然暑くありませんよ。その代わりに、日中も過ごしやすく、昼寝もできるほどです」との答えがよく返ってきます。

仮設住宅の屋根材はサゴ椰子の葉で出来ており、古くからインドネシアの伝統的な家屋で用いられてきましたが、現在では家屋にほとんど利用されなくなりました。時代の流れとともにコンクリート造りの家が一般的になるにつれ、伝統家屋は社会的地位が低く見られるようになったからです。

2018年9月28日、地震、津波そして液状化現象が中部スラウェシ州のパル市、シギ県、ドンガラ県を中心に襲い、多くの家屋が崩壊し、多くの人びとが犠牲になりました。

震災発生から1年が経ち、多くの家屋が再建され始め、パル市郊外や村ではサゴ椰子葉の屋根材を使った家が見られるようになりました。この屋根材はより安全で、涼しく、容易に入手でき、安価でもあります。屋根が壊れても住民自身で簡単に修理できます。

サゴ椰子の屋根材の作り手は、震災を機に市場を取り戻しました。葉の質や種類、サイズによって値段は異なります。村人によると成葉の場合は12年くらい、若葉であれば5年~8年くらいもつそうです。屋根材は層が多いほど価格が上がり、両側2枚重ねのものは一番丈夫で、一般的に屋根材として使われます。

サゴ椰子の葉で出来た屋根材

サゴ椰子の葉で出来た屋根材

両側2枚重ねの屋根材(見にくいですが)

両側2枚重ねの屋根材(見にくいですが)

屋根材が屋根に置かれた様子

屋根材が屋根に置かれた様子

これらの屋根材はパルシックの事業地及び周辺の村で作られており、被災者でもある村人たちもサゴ椰子の葉の屋根材を売るために作り始めました。人によっては副収入になったり、主な収入源になったりと、これらの屋根材は様々な恩恵をもたらし、村の経済復興にもつながっています。

社会的に低く見られていたサゴ椰子の屋根材を使った家屋が、家の壁に絵を描いたり周りに花壇を置いたりすることで、美的なものに生まれ変わることを村人たちは徐々に気付き始めました。昼夜家で快適に過ごせ、庭や柵に美的要素を加えることによって、サゴ椰子の葉の家はとても温かみがあり、美しくもあり、そしてかっこいいものに見え、被災住民たちにとってまさに「我が家」と思える仮設住宅になりつつあります。

(スラウェシ事務所 ヒロニムス・ゲス)

※この事業はジャパン・プラットフォームの助成とみなさまからのご寄付で実施しています。

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