大坂さんの東ティモール派遣日記 – 特定非営利活動法人パルシック(PARCIC) https://www.parcic.org 東ティモール、スリランカ、マレーシア、パレスチナ、トルコ・レバノン(シリア難民支援)でフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開するNGO。プロジェクト紹介、フェアトレード商品販売など。 Tue, 18 Apr 2017 08:32:18 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.1 大坂さんの東ティモール派遣日記(18) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1321/ Thu, 05 Apr 2012 16:00:02 +0000 http://test.parcic.org/?p=1321 ボノイティ(こんばんは)!現在雨季の東ティモールですが、雨季が終わりに近づきつつあるためか、連日雨、雨また雨。活動地マウベシでは、強風も相まって 家屋損壊(主にトタン屋根が飛ぶ)や学校などの施設が被害を受け、また大木が倒壊し通行に障害が起こっています。そんな中でもすくすくと育っているコー ヒー。今年はアラビカ種コーヒーの豊作年となりそうなので、何よりも農家の皆さんは天候を心配されていますが、一方ワクワクしているに違いありません。地 域によっては赤くなった実を自家用に摘み始めている、と言う情報も。ナショナルスタッフのコーヒー責任者、イケメンのネルソンは、「今のこの嵐は【8月の 雨】がきているので良い証拠」と言い「よっ、詩人だねぇ」と思ったのですが、コーヒーの乾燥が満足に出来ず、常に乾季の雨に悩まされるマウベシの人々の切 実な想いなのだと、のちに現地代表、伊藤から聞きました。

今回は趣旨を変え、活動とは離れたことについてお話したいと思います。【原発】についてです。3月11日、東日本大震災から1年を迎えました。私は専門的 なことは分かりませんし、日本から離れた場所でネットで知るくらいの情報しか持ちません。が先日、東京からの出張者から譲り受けた本を読み衝撃を覚えまし た。タイトルは小出裕章著『原発のウソ』(2011年6月、扶桑社新書)。素人でも分かり易く書かれており、また情報不足もあり一気に読みました。読んで すぐに思い出したのは、忘れもしません、チェルノブイリ原発事故の翌々年、私が高校2年のある日、新聞朝刊を広げたところ衝撃的な一面広告が目に飛び込ん だのです。『RCサクセションのニューアルバムCOVERS:素晴らしすぎて発売出来ません(東芝EMI)』… 一瞬何のことだかさっぱり理解出来ませんでした。忌野清志郎と言えば、当時の私にとっても絶大な影響力を持っていたミュージシャン。ましてやそのご時世前 代未聞の【発売禁止】なんて穏やかではありません。ネットもないあの頃、どういうことなのか知りたくて貪るように雑誌から情報を得ました。ぼんやり分かっ たことは、どうやら有名企業各社が原子力発電所建設に大きく関わっている、と言う大人の事情。そんなことで発売禁止にするなんて…と怒りに満ちたのを覚え ています。その後別のレコード会社から発売されたこのアルバムは空前のヒットとなり、私も何度も聞きました。しかし…時が経つにつれ、日々の生活に追われ あの衝撃も薄れていき、電気も使いたい放題の生活に戻ったのです。今思えば、あの当時から関心を常に持ち、反原発運動に関心を持ち続けていれば、と後悔し ています。そしてこれは私個人の責任だと痛感しています。小出氏も「(事故は)私の責任」と明言しています。【無関心】…これは人間がする行為で最も重罪 なものだと考えます。常に疑問を持ち、メディアにコントロールされることなく自ら判断する材料を持つ、また小さなことでいいから自分に出来ることを行動に 移す。随分超越してしまいますが本を読み終えた後、ふとそんなことを考えました。天国の清志郎は何を想っているでしょうか?

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(17) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1334/ Wed, 29 Feb 2012 15:00:39 +0000 http://test.parcic.org/?p=1334 ボタルディ(こんにちは)!日本では2月は一番寒い時期ですね。ここ東ティモールでは四季がなく雨季と乾季のみなので、季節で冬が一番好きな私は日本の厳 しい寒さが時々恋しくなったりもします。しかし花粉症の私はスギ花粉がないここティモールが天国のように感じたりもします。げんきんなものです…。

さて、この2月は私にとってとても勉強となる1ヵ月となりましたので報告させて頂きます。アドバイザーとして日本から派遣された方と丸1か月各地方を同行 する、と言う大役を仰せつかったのです。こちらの現地語【テトゥン語】で日常会話は難なくこなせるようになった私ですが、専門用語となると…心配の種がま たまだ尽きないレベル。私なんかで務まるのか心配でたまりません。今までは東ティモール事務所代表、伊藤におんぶにだっこの状態で困った時は助け舟を出し て頂いていましたが、今回はそうもいきません。しかも東ティモールに関してまだまだ知らないことばかり…。今までは活動地マウベシに密着し女性たちと共に 活動して来たので、他の地方のことも全く疎い状態。とうとう視察途中で伊藤に泣きの電話を入れてしまいました。「私などは到底務まりませんっ!」すると伊 藤は「私も同じ道を通ってきた。幾度も落ち込んできた。この視察が終了する頃にはテトゥン語も更に上達し、たくさんの収穫があるはず」と言ってくれたので す。


▲移動中の車内から撮影。普段山中で活動している私にとって海は開放的!

私が英語を勉強し出した頃を思い出しました。学生時代には全く勉強と無縁だった私。友達と遊ぶことが楽しくて仕方なく、大好きな洋楽を聞いて過ごす日々。 真剣に勉強し出したのはイギリス留学から帰国後。大して会話も上達しないまま無念の帰国でした。日本に戻ってからは悔しさと情けなさで必死に勉強しまし た。マラソンで【ランナーズハイ】と言われる、苦しさを通り越し気分が良くなる状態がありますが、まさにその状態になるまで勉強し続けました。その後英語 を使う職場に従事しましたが、赤面するような数々の失敗も起こしました。忘れかけていたあの頃…。年を取ると失敗をしたくないばかりに全てのことに対し守 りに入りがちですが、ここは再度赤面しながら乗り越えて行きながら学ぶ時期なのだと知りました。視察中も様々なことが起こりましたが、共に同行している ティモールのスタッフにその都度助け舟を出してもらい、分かり易く噛み砕いてもらいながら随行しました。本当にありがとう、ジョルジェ!

話は逸れますが、この度の同行で初めて訪れたビケケ県。ビケケに入るなり2階建てや木をふんだんに使用した可愛らしい住宅など、立派な住宅が点在していま す。首都ディリよりもはるかに素敵な趣に思わずスタッフのネルソンに聞きました。「何でこんなに素敵なお家がたくさんあるの?」すると「ビケケ人はビジネ スに長けていて成功している人が多いからだよ」。あぁ東ティモール、本当に奥が深い!小さな島だけれど、地方ごとにその趣が全く異なるのです。恐るべし!

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(16) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1338/ Tue, 31 Jan 2012 15:00:39 +0000 http://test.parcic.org/?p=1338 ボノイティ(こんばんは)!この記事がアップされる頃にはもう2月となっていると思いますが、ディリでの年越し、年明けの様子をお伝えしたいと思います。

12月31日はディリで年越しを迎える日本人同士の集まりがあり、私も友人と一緒に参加させて頂きました。到着するや紙を渡され、2011年の一大ニュースを書くようにとの指示が…。迷った挙句『東ティモールで好きな男性を見つけたこと!』にしました。

東ティモールに赴任した当初、こちらの男性が怖くてたまらなかった私。すれ違いざまにジ~っと顔を見られ、顔を上げて歩くことが出来ませんでした。しか し、ある時友人に『常に笑っていなさい。笑顔でいれば彼らがあなたを守ってくれる』と言われたのです。それを毎日心の中で反芻し、ジッと見られると、笑顔 を返しました。するとどうでしょう、今まで能面のような表情でジッと私を見ていたのが、とたんに屈託のない笑顔で返してくれたのです!本当に嬉しくてそれ からは笑顔を振りまくようになりました。すると知らない人でも『よぅ、友達!』と答えてくれます。思い返すと以前の私は怖さもあっておもいっきり仏調面 だったのだと思います。そしてこれは全くの持論ですが、悲しい歴史を背負っているティモールの人は『この人は敵か味方か?』を無意識にジッと見て判断しよ うとしているのでは?考えます。東アジア人特有の顔立ちのため、時には冷やかしを受けたりしますが、笑顔で会釈をするとキョトン?として何も言わなくなり ます。


▲盛大な花火が上がりました!

そうしてこちらでの生活がいよいよ充実して来た昨年中旬以降、“よっ、男だねぇ!”と思える方々と知り合える機会が増えました。しかし皆さん素敵な奥様、 そしてお子様もたくさんいらっしゃる方々…。単なる憧れや尊敬ですが、それでも素敵な方々と接するのは女性として毎日が楽しくなるものです!一年前には全 く想像していなかったこの“想い”であり、私にとって大ニュースなのでした。

さて話が飛びましたが、23時頃会場を後にし、0時に政府庁舎付近から打ち上がる花火を見に見晴しのよい所へ行きました。23時30分ともなるとフライン グ気味に自家用花火を打ち上げる人々で既に大騒ぎ。大変危険ですが、プロ仕様の大玉花火まで街中から上がっています。さて0時、いよいよ政府主催の花火が 上がりました。その直前までコンサートが催されていたようです。それは見事な花火でした。2012年も東ティモールの人々にとって良い年となるように打ち あがる花火を見ながらお祈りしました。

翌日の1日朝、お雑煮・なますを作り、友人と一緒にNHK紅白の再放送を見ました。こちらで生活しているとNHK紅白がなぜか特別なものに感じます。 2010年の年越しも実は全く同じように友人と紅白を見て、その後花火を見に行きました。初めての東ティモールでの年末だったので今でもよい思い出となっ ています。

しかし!元旦早々、左足が腫れだし国立病院のお医者様からは5日間の安静を言い渡され、その翌々週は胃痛・下痢で七転八倒と、とんだ年明けとなりました。 2012年はどうなることやら…とちょっと不穏な予感ですが、初心を忘れず、精一杯活動して参りたいと考えています。今年も壁にブチ当たり、泣いたり喚い たりもあると思いますが、それでも女性たちと共に一歩ずつ歩んでいければと思っております。

東ティモールは今年で独立10周年。辛い時期を長い間過ごされた皆さんは様々な想いが脳裏をよぎる事でしょう。ご家族を失った多くの方々にとっては独立 10年経とうとも、悲しみが褪せることはなく単なる節目でしかないと思われます。独立記念日の5月20日に向けて徐々に祝賀ムードとなると思いますが、犠 牲となった人々、また今でも過去のために苦しんでいる人がいらっしゃることを忘れてはなりません。

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(15) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1343/ Wed, 30 Nov 2011 15:00:33 +0000 http://test.parcic.org/?p=1343 ボンディア(おはようございます)!もうすぐ新年を迎える時期となりましたね。またひとつ年を取るかと思うととてもブルーな気持ちになります。そしてこの2月にはとうとう40代。この残酷な現実にどう向き合えば良いのでしょうか…?

今年を振り返ると去年同様、様々な出来事が思い起こされます。昨年末はこちらに来てまだ2か月余りで、右も左も分からない状況。ティモール人の考えている ことや話している言葉も全く理解出来ず、ただ不安で恐ろしく毎晩泣いて過ごしていました。早く任期の1年半が穏便に過ぎることを願って…。

しかし、一時帰国直前の3月、こちらに来て6ヵ月経とうとする頃になると、言葉も少しずつ分かりはじめ、またティモール人の人柄の良さや彼らと仕事をする ことの喜びを理解するようになり、また仕事の責任も感じ出し、6カ月のインターンを終了後現地駐在職員として雇用して頂くこととなりました。しかし、充実 し始めた矢先の3月11日(金)、想像もしなかったことが起こりました。東北大震災です。私の両親は岩手県釜石市出身で、親戚も多く一番可愛がってくれた 叔父たちとの連絡が取れなくなってしまったのです。心配でネットで不明者探しをする毎日。国内よりも国際電話が繋がりやすいと聞き、毎日何度も電話をかけ ますがもちろん繋がるはずもなく、最悪の状況を想定し心づもりをしていました。しかし2週間後、こちらからかけた電話を叔父が取ってくれた際は心から神様 に感謝しました。特定の宗教を持たない私ですが、全くげんきんなものです。当時はここで活動するよりも緊急な救援を必要としている方々のために帰国するべ きなのではないか、と真剣に悩みましたがPARCICが石巻支援に3月末に入ることを聞き、冷静に考えてみた結果、私には私に与えられた、また自ら選んだ 道があり、ここで頑張ることで何等かの形で東北支援にも繋がれば良いのはないか、とこちらで続けて活動させて頂くことを再決意しました。何よりも心の支え になったのは、東ティモールの方々の心からのお見舞いでした。「ご家族は大丈夫?」「日本のために祈っているよ」- 長く辛い歴史を持つティモールの人々は他人の痛みに非常に敏感です。こんなにも心優しい人々だったとは、その時初めて知ったのです。その頃からでしょう か、何か靄が晴れていくような、こちらでずっと活動して行きたい、皆で悩んだり、笑ったり、泣いたりしながら、地方の方々の生活向上の一因を彼等と少しず つ、共に担っていくことが出来れば、と思うようになりました。つい先日も「津波被害の現状は?ご家族は?」と聞かれました。


▲女性グループの皆さんとこれからも共に…

それから月日の過ぎていくのは、文字通りアッと言う間でした。昔から私は要領が悪く、仕事の処理能力も低く、やるべき事が次から次に押し寄せますが、決し て苦には感じません。平日は活動地マウベシでの業務に付ききりで、週末にそのまとめや翌週の準備をするのが常ですが、私は幸せを感じています。何かのご縁 でこちらに来て、活動させて頂けることへの感謝と何ものにも代えられない、まさにプライスレス(カード会社のコマーシャルで以前このフレーズがありました よね)な経験をさせて頂いているからです。

こちらの人々の生活や環境は、特に地方ではまだまだ厳しく、特に子供達が薪拾いや水汲みに精を出している姿が通常の光景です。しかし彼らは東ティモールの 今後50年を担っていく大切な未来の星。学校へ行き、勉強をし、将来に備えて欲しい。急激な経済変化は人々の生活に歪みを引き起こします。既に首都ディリ ではその一端を感じられます。ゆっくりとした歩みの中でしかし着実に良い方向へこの国が向かって行くことを願うばかりです。私がここで出来ることは、所詮 たかが知れています。もしかすると彼等にとって余計なお世話なことをしているのかも知れません。それでも私が一緒に働く女性グループの方々が興味を持って 活動に参加して下さる限り、仕事に一切の妥協をしない姿勢を貫き、共に切磋琢磨していきたいと思っています。何故なら今では東ティモールの人々を愛してし まっているからです!

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(14) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1346/ Mon, 31 Oct 2011 16:00:04 +0000 http://test.parcic.org/?p=1346 Bonoiti(こんばんは)!早いものであと1ヵ月で年の瀬ですね。ここ東ティモール首都ディリでは最近、路上で売り子さん達が子供向けの電池式ス ティック状の光る玩具を販売するのを見かけるようになりました。既にクリスマスモードですね。こちらでは、サンタさんが真夜中寝静まった頃に子供達にプレ ゼントを配るのではなく、新しい洋服を子供達や大人自身の為に購入しクリスマスと新年を迎えるのだと言うことを昨年末聞き、驚いたものでした。日本でも昔 は新年を迎えるに当たり、新品の下着・服を着た、と言う話を聞いたことがあります。一緒に働くマウベシのスタッフ、アンジェリーナとマリアも12月はディ リに子供達の服を買いに行くのよ!と意気盛んです。プレゼントを買う対象がいると言うことは、実に幸せなことです。


▲Dalan Ba Dame(平和への道)

さて突然ですが、昨日観たドキュメンタリーフィルムを紹介させて下さい。その名も「Dalan ba Dame(平和への道)」。折しも今日は(11月28日)ポルトガルからの独立宣言36周年の記念日です。昨夜は国会議事堂で祝典が行われ、深夜12時に は花火も打ちあがっていました。この日に合わせてか、国内送電も日頃悩まされ続けた停電なしのものに切り替わりました(地方ではまだ全ての箇所には追いつ いていないものと思われます)。このフィルムはCAVR(Commission for Reception, Truth and Reconciliation in East Timor – 東ティモール受容真実和解委員会)が2005年に作成したものです。お恥ずかしながら今まで拝見したことがありませんでした。東ティモールの歴史について は書物を読んだりネットで調べたり、直接体験者から話は聞いていたものの、実際の映像を見るとなるとやはり想像していた以上の壮絶で過酷な歴史を背負って きた人々なのだ、と改めて思いました。何とか独立をと抵抗する東ティモールのゲリラ兵が山に籠り、それを陸・海・空で掃討しようとするインドネシア軍、ま たその側につくことを選んだ、またつかざるを得なかった人々。食料がなく飢え死にする多数の民。女性達は性の道具となりました。しかし蓋を開ければ選挙で 大多数の人々が独立を指示し、それに反発したインドネシア当局は民兵を使い破壊・虐殺行為を行いました。インドネシアの政策で多数の若者がジャカルタや他 の地域の大学へ行っていましたが、彼らも心の根底にあるのは祖国への想い。各大使館前でデモ活動を行いました。また東ティモール内でも「このままではいけ ない」と多くの若者がデモ活動をして粛清されたのです。

命を懸けて祖国の為に、また人々の為にデモ活動をした若者と私は同世代です。丁度、1991年11月12日のサンタクルス虐殺事件の頃は、1年のイギリス 留学から日本に戻り、就職をし半年経った頃です。東ティモールと言う名前も、これらの事件も聞いた記憶が全くありません。第二次世界大戦中やベトナム戦争 中ならまだしも、自分がのほほんと生きていた同じ時間に同じ世代の子が苦しんでいたなどと夢にも思いませんでした。そして無知だったことを恥ずかしく、ま た罪に感じています。人生には時として、知りませんでした、では済まないことがあります。サンタクルス虐殺事件の映像を見て、当時の年恰好と変わらない若 者が銃で撃たれ亡くなっていく映像を見て本当に胸が苦しくなりました。

今日、街に出て乗合バスに乗り高校生を観察したら、男女で冗談を言って小突き合い、青春を謳歌しているように見えました。いくらインフラが整備されようと も遊学させて貰えようとも、暴力による支配は恐怖と憎悪しか生み出しません。今日バスの中で会った若者達のように次の世代もその次も恋愛や勉強、進学で悩 み青春を謳歌して欲しい、決して暴力で支配された悲しみの時代は二度と来ないように願わずにいられませんでした。そして、それは東ティモールだけではあり ません。人間は、どれだけ悲しめばようやく気付いて学ぶことが出来るのでしょうか?

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(13) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1350/ Mon, 31 Oct 2011 15:00:11 +0000 http://test.parcic.org/?p=1350 「Bondia(おはようございます)。」東ティモールではこの言葉で一日が始まります。知らない人からも道端で【ボンディア】と次々声を掛けられ、ボンディア返しに忙しい事この上ありませんが、その実、とても嬉しいものです。そういえば小学校の頃、あいさつをしましょう、と教わりましたよね。


▲子供がたくさん。幸せって何だろう…

今月10月18日(火)で東ティモールに来て一年が経ちました。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、怖かったこと、様々な思い出が走馬灯のようによぎります。好きな言葉ではありませんが、いわゆる【途上国】で生活する事が初めてだった私にとって、来た当初毎日が驚きの連続でした。そして最近は何事にもそう驚くことがなくなった自分に、一年と言う月日の流れを感じます。またたくましくなった自分に正直とても驚いています。

ここ最近、自分の心の中で強く疑問に思うことがあります。【幸せって何だろう?】東ティモール事務所代表伊藤淳子の話では、ここ数年で急速な変化が見られると言います。車の台数の急増、建設ラッシュ、若者のオシャレ度アップ等。しかし、私が活動しているマウベシから先の集落へ行くとそこにはまだまだ変わらない人々の生活の営みを感じられます。そこで強く思うことは家族の繋がりの強さです。小さな子供もその辺にいっぱいいて、外国人である私の一挙一動をじ〜っと観察しています。気が付いて笑うと照れながら笑い返してくれます。また、少し大きくなった5歳くらいの女の子が妹・弟である赤ちゃんの世話を甲斐甲斐しくしています。男の子も女の子もお父さん、お母さんの「〜持って来い」などの言いつけをちゃんと手伝います。おもちゃがなくてもその辺から取ってきた木の枝や使えなくなったタイヤを上手に転がして遊んでいます。

私が子供の頃は両親が共働きのせいもあって、お母さんが自宅にいるご家庭より若干多めのお小遣いを貰っていました。決して豊かではありませんでしたが、お小遣いを貰えば欲しいものを買い、物に囲まれて生活していました。と言うより物に囲まれることでカギっ子の寂しさを紛らわせていたのかも知れません。団塊世代Jr.ど真ん中の私たちの世代は皆そうかも知れません。しかし、今思えば決して物質で満たされることはなかったと思います。本当に欲しかったもの、それはやはり母が「お帰り」と言ってくれることだったのかも知れません。 彼らをぼんやり眺めているとどうしても私が幼かった頃を思い出します。そしてお父さん・お母さん、兄弟がたくさんいて、そしてその上ご近所付き合いも家族同様、何だかんだあっても毎日賑やかに過ごしているところを見ると、本当の幸せとは実はこう言うことなんじゃないか、とふと思うのです。今日本では人々の【孤独】が問題視されています。家族の繋がりの希薄化、ネット上でしか繋がれない人々、自死…。皆寂しいのです。私も一時期そうだったような気がします。

決して東ティモールが天国だ、と言っている訳ではありません。DVや若者の高失業率、人々同士のトラブル、独立後10年の今後への不安。抱える問題は山のようにあります。ただ、日本も恐らく戦前は物質的には何もなくても様々な問題があっても人と人の繋がりは今よりも濃かったのでは、と想像します。東ティモールは助け合いの文化だ、と言われています。確かに知らない者同士が、些細なことでも助け合うのです。お互い様なんだそうです。そして冒頭に紹介した挨拶。これらは、日本が東ティモールから学ぶべき、また昔を取り戻すべき文化です。東ティモール政府も経済の発展を目指していますが、どうか良い文化を忘れないで欲しい。いい所はどうか残して欲しいと切に願います。何故ならこの国は人々が本当に素敵で魅力的で温かいからです。

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(12) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1354/ Mon, 26 Sep 2011 15:00:12 +0000 http://test.parcic.org/?p=1354 Bonoiti(こんばんは)!。皆さんいかがお過ごしですか?先日千葉に住む義妹から『朝晩肌寒くなった』との便りを貰いました。ここ東ティモールは南半球に位置するため、このところだいぶ暖かくなってまいりました。私達が活動する標高1500mのアイナロ県マウベシ郡でも日中は日差しが強く、半袖を着ていないとバテそうです。夜間の冷え込みもだいぶ和らいで参りました。もう雨季がすぐ傍まで来ている予感がいたします。


▲北原巌男大使と芳子夫人

今夜(9月26日)は北原巌男大使・芳子夫人のご離任パーティに参加して参りました。3年間、大使は東ティモールの人々のために大変多くのご活躍をなさって下さいました。私はインターン期間を含め11ヵ月余りのお付き合いをさせて頂きましたが、常に優しいお心遣いを掛けて下さり、私共の活動に対しご理解・ご支持下さいました。私がマウベシで活動を始めた当初、事務所にお立ち寄りくださり『応援していますよ』とお声かけ下さったことが昨日の事のように脳裏に蘇ります。正直、当時の私はとても心細く、また人恋しかったのもあり、大変有難かったことを鮮明に覚えています。その後何度となく事務所をご訪問下さり、また私の担当している女性生計向上プロジェクトにもご関心を賜り、応援して下さいました。

私は長く会社員をしていた為、NGOで活動することは初めての経験であり、頻繁に出てくる【開発用語】も分からない困ったスタッフでした。しかしその一方、前職ではいわゆる社会的地位のある、名の通った社長・会長の肩書きをお持ちになった方々と接する機会が多々ございました。社長でありながら、誰よりも仕事をなさる方、また本当に尊敬出来る方、私が見る限りそうでなさそうな方…。人間と言うのは決して肩書き・学歴で判断出来ないのだなぁ、と痛感いたしました。

北原大使もそんな方のお一人でした。日本に住んでいれば通常お会いすることのないお方でしたが、大使だからご尊敬申し上げるのではなく、各NGOスタッフに常にお気遣い頂き、活動へご理解・ご支持頂いていたからこそ、私も親近感を覚えご敬愛申し上げておりました。

つまるところ【人】なのです。大切なのは心の中なのです。私が常に心掛けているのは【動機】です。動機が不純なものではなく、人様のためのものであればどんな困難なことでも乗り越えられると信じています。またたとえ失敗に終わったとしても必ず何か次に繋がることが出来ると考えております。人間優しさと愛が何より大切なのです。40歳を目前にようやくぼんやりとですが肌身に感じるようになりました。年を取るのも悪くない、とつくづく思います。

北原大使・芳子夫人にお会いすることが出来たご縁にただ感謝するのみです。手前味噌で恐縮ですが、私は私達の活動に誇りと自信を持っております。そして私なりの真心を持って活動しています。失敗や反省は毎日のようにありますが、伊藤淳子東ティモール事務所代表の元で活動する毎日が勉強です。そして私は今、毎日幸せをかみしめています。それは常に支えて下さった北原大使・芳子夫人をはじめ、東京事務局、他のNGO団体、両親、弟家族やその他大勢の方々の温かいご支援があったからこそだと思うのです。そして何より、実は東ティモールの人々の笑顔や優しさに支えられているなぁと心底感じるのです。東ティモールであろうと日本であろうとイギリスであろうと結局【人】は皆同じなのです。

北原大使、芳子様、本当に有難うございました。これからも私なりに精一杯当たって砕けたいと思っております。どうかお体を大切に、そして引き続き東ティモールの恒久平和のためにご活躍下さいますようお願い申し上げます。

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(11) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1357/ Wed, 31 Aug 2011 15:00:45 +0000 http://test.parcic.org/?p=1357 Bondia(おはようございます)。この記事がホームページにアップされている頃にはすでにもう9月を迎えている事でしょう。しかし8月と言えば日本人にとって特別な月であります。2度の原爆投下、そして終戦記念日。私が子供だった頃は8月になると戦争映画やドキュメンタリーがテレビで数多く放映されていました。現在はその放映数も昔より少なくなったような気がします。怖くて恐ろしくて見たくないのに見入ってしまう。感受性の豊かな時に観たことによって、私は多くの影響を受けたような気がします。そしてそのことが今の活動に繋がっているのかも知れません。特に小学校2年生の時にみた映画【ガラスのうさぎ】、これには強い衝撃を受けました。同じ小学生である敏子に『どうしてこんなことが起こり得るのだろう』と当時恐怖におののきました。本当に怖かった、そしてとにかく悲しかった、そんな記憶があります。

私の祖母は新日鉄の製鉄所のあった岩手県釜石市で、米軍の艦砲射撃により妹を亡くしています。防空壕に逃げた妹は攻撃により崩れた土砂の下敷きになったそうです。祖母は一縷の望みを掛け懸命に妹を探しました。そして見つけたのは累々たる死体の間から見えた、見覚えのあるスカートの生地だったのです。終戦の1週間前の出来事です。


▲サラおばあちゃんは手前の石段に腰かけ物乞いをしていた

今回はここ東ティモールで約70年前に日本人が残した、私達が決して忘れてはならない痕跡をご紹介したいと思います。

第二次世界大戦時、日本軍は1942年から3年間ティモール島全土を占領しました。ここはオーストラリア軍と日本軍の戦闘の舞台となりました。日本は住民を【労務者】として道路づくりやその他の仕事に強制的に従事させ、また女性は従軍慰安婦として性の道具として利用しました。その一人、サラおばあちゃんが今年3月に亡くなりました。交通事故でした。スーパー入口の石段に座り、いつも物乞いをしていた小さなご老人。私も何度かお見かけしましたが、おばあちゃんに日本人と深く関わるそのような過去があったなど、知る由もありませんでした。日本の支援者がお米や食べ物、住居の修復費などを提供し、物乞いをしなくて済むよう援助していたにも関わらず、それらがことごとく奪われてしまったそうです。
おばあちゃんは家族ともうまく行かず、家にいるのを嫌い、外へ出て物乞いをしていました。市場近くを歩いている際トラックに接触し倒れ、4日後に容体が急変し亡くなったそうです。若く美しい時期に壮絶な辛い経験をしたおばあちゃん。どんなにか恐ろしく悲しい日々であったことでしょう。

ある人は『戦争中なのだから仕方ないでしょう』と言うかも知れません。また70年も前のことを今更何故持ち出すのだ、と。しかし辛い思いをした人々にとっては決して【過去】ではないはずです。きっと昨日のことのように発作的に脳裏に蘇ってくることでしょう。そして彼らが亡くなっても真実は決して消えないのです。私達に出来ること、それはいつまでもこれらを心に留め、未来永劫二度と繰り返してはならない、また後世に伝える・・・これは決して自虐的な行為ではありません。私が溺愛する二人の小学生の甥にも、いずれ時期が来たら話そうと思っています。

東ティモールでは、多くの日本のNGOが長く支援活動を行ってきました。その努力は並大抵のものではなかっただろうと想像します。そしてティモール人の多くは、その業績に率直に敬意を表してくださいます。しかしここで活動する上で絶対に忘れてはならないこと、それは多くの犠牲者の涙が落ちているこの地で、私は活動させていただいていると言う事実なのです。

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(10) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1361/ Thu, 30 Jun 2011 15:00:30 +0000 http://test.parcic.org/?p=1361 Botardi(こんにちは)!日本は現在、とても暑いようですね。南半球に位置するここ東ティモールは、乾季の最中です。首都ディリでは日中はとても暑いのですが、早朝は肌寒く、長そでを着て寝ないと風邪を引いてしまいそうです。私達が活動しているアイナロ県マウベシ郡は山間部なので、曇りで日差しがないととたんに冷え込み、夜はフリースのパジャマの上にまたフリースを重ね着して寝袋に入らないとこれもまた風邪を引きそうです。特に明け方の冷え込みは厳しく先日も寒すぎて朝5時に目が覚めてしまいました。しかしこういった冷え込みがコーヒーを美味しくするのでしょうね。夜空には満天の星が輝いています。

さて、前回は東ティモールの女性について書きましたが、男性については少々辛口コメントとなってしまいました。しかし!実はとても【いい男たち】が存在するのです。今回はそのことについてお話したいと思います。

いい男たち、と言いますと少々俗っぽく聞こえてしまいますが、決してイケメンと言う意味ではなく、男の中の男、と言いますか、男気があってカッコいいなぁ、と思わずにはいられない方々なのです。無口でも優しく、愛する家族のため仕事一筋、そういった雰囲気が滲み出ていて、素敵!と感じます。


▲ゼイ・ルイスさん

まず、今年2月ディリで行われたパルシック主催の組合に関するシンポジウム。その席にファシリテーター(会議世話役人)としてお招きしたのがJose Luis de Oliveiraさん(通称ゼイ・ルイス)。風貌は一見怖そうで近寄り難いのですが、いざ話を始めると滲み出てくるお人柄の良さ、そして優しさ。頭が良いであろうけれども決して上から物事を言わずに周囲を考慮した上での発言。2月当初はまだ私のテトゥン語の理解力も乏しく、また議題内容も特殊で難しい為、何をおっしゃっているのか全く分かりませんでしたが、それでも不思議なもので醸し出されるお人柄と言うのは分かるものなのです。逆を言えば私自身もそれを肝に銘じなければなりません。後日、東ティモール事務所代表、伊藤にゼイ・ルイスさんのことを聞いたところ、やはり実際に人格もあり人間的にとても素敵な方だと、言うことが判明。良かった、私の人の見る目はあながち間違ってなかった、と思ったのでした。

続いてはマウベシ郡ハトゥカデ集落のヴィセンティさん。以前、ハーブの調査でヴィセンティさん宅にお邪魔した際、お昼ご飯をご馳走になりました。奥様のローザさんは一緒に女性活動をしているので存じあげていましたが、ご主人様とお会いするのは、またこの方がご主人様だったのか、と認識するは初めてでした。穏やかな雰囲気と本当に優しそうなお顔立ち、無口で、木を切り出す刀をいつも持っている。奥様もグループのリーダーをされるくらいしっかりした方。ヴィセンティさんについても伊藤に問い合わせたところ、書類等もひと集落分、いつもちゃんと期日を守って提出して下さるとの事。こちらではなかなかそういった事務作業は後手にまわり、伊藤を悩ませるのですがこの集落ではそれはないようです。先日、奥様からの言付けを受けてヴィセンティさんが事務所を訪れて下さったのですが、私一人だったためいまひとつその内容を理解出来ず、それでも一生懸命ヴィセンティさんは何度も説明してくれるのです。結局会話がかみ合わず、少し寂しそうな背中を向けて帰られました。その節は失礼しました、ヴィセンティさん。

現在東ティモールでは、特に若者の失業率が深刻な問題となっています。私が最初に赴任した際、若い男性の目に覇気がなく、平日にも関わらずただ座って友達と話をしている光景に驚いたものです。発展が目まぐるしいここ東ティモールで、若者たちもどうかこの男性たちのようにどんな仕事でも一生懸命働き、また働くことの喜びを感じて、素敵な大人になって欲しい、と願わずにはいられません。

(東ティモール事務所 大坂智美)

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大坂さんの東ティモール派遣日記(9) https://www.parcic.org/report/archive/osaka/1365/ Tue, 31 May 2011 15:00:14 +0000 http://test.parcic.org/?p=1365
左:アンジェリーナ・右:マリア

Bondia(おはようございます)! 皆さんお元気ですか?
早いものでもう一年の半分が過ぎてしまい、何故か既に焦りを感じ始めている今日この頃です。東ティモールに来てもう8か月半が過ぎようとしています。最近ようやくテトゥン語で現地スタッフと(本当に)何とかコミュニケーションが取れるようになり、仕事も楽しくなり始めました。私が話せるようになったと言うよりは、勘の良いスタッフが私の言わんとしていることを汲み取り、理解してもらっている、と言った方が正確かも知れません。と言うのも、女性グループのメンバーは私の話すテトゥン語を時々理解出来ず、スタッフが私の伝えたいことを瞬時に察知し、分かり易いように説明してくれるからです。いつも有難う、アンジェリーナとマリア!

今回は彼女達についてお話したいと思います。私は普段アイナロ県マウベシ郡と言う標高1500mの場所で活動しています。首都から車で3時間の場所です。アンジェリーナ(30歳)はマウベシから南下した【サメ】の出身です。PARCICで働いて既に8年になります。大先輩ですね。彼女は若干30歳にしてとても落ち着いており、頭も非常に良く、かと言ってそれが鼻につくこともなく、大勢の人前で話すことがとても上手で、精神年齢は50代、といったところでしょうか?日本にも研修に2度ほど行っています。東ティモールの政界に進出しても遜色ないだろう、と思わせる位の度量の持ち主です。頭の中では未だ25歳と思い込み続けている(思い続けたい!)私にとっては頼もしい“姉御”です。

マリアは25歳、去年赤ちゃんを産み、3人の子供のお母さんです。マウベシ生まれマウベシ育ちの地元っ子。3人の子のお母さんとは思えないような華奢な体と童顔の持ち主。でも見た目とは違い案外しっかり者です。そしてやはり頭の回転が速い。PARCICで働いて産休も含め1年半になります。


▲ハチミツにラベルを貼るスリさん

もう一人紹介しましょう。スリさん。勤続6年。彼女はスタッフの食事作り、事務所掃除、雑務を全てこなしてくれています。この度コーヒー代金の精算係に任命され、慣れない仕事に緊張気味ですが、一生懸命に覚えようとしています。スリが休むと大変。仕事そっちの気で食事作り・掃除をしなければならないからです。彼女がいるからこそ、私達は思う存分仕事に打ち込むことが出来るのです。

彼女達は午後6時の終業後、急いで帰宅し家族のご飯を作ります。子供が熱を出したと言えば、休むこともしばしばです。大きな声では言えませんが、10分15分の遅刻もしょっちゅう。家事をしてからでは始業の朝9時には間に合わないと言うのです。日本では毎日遅刻していたら大変なことになりますね。そこはティモール流でしょうか。ただし、実際東ティモールの女性の家事は本当に大変なのです。お湯を沸かすにも電気ポットなんてありません。火をくべることから始まるのです。たいがいの家では水も汲んでこなければなりません。家族も日本と違って大勢います。それを全てこなしてから彼女達は仕事に来るのです。そしてコーヒー農家の女性たちも同じく家事をこなして、その上で農業に従事するのです。

押し並べて思うのは、東ティモールの女性には優秀な方が本当に多いと言うこと。男性よりも前にしゃしゃり出ることは決してしませんが、彼女達の潜在能力には限りない可能性が秘められていると思います。将来、東ティモールにも女性の起業家が台頭してくるんじゃないかしら、と思う今日この頃です。うかうかしていられませんよ、男性陣!頑張れ!Work hard!

(東ティモール事務所 大坂智美)

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